彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

俗に言う土下座像

2020年10月21日 | 史跡
今回から京都行きの話になります。

三条大橋の東に、土下座をしているように見える人物の像があります。
正確には土下座ではなく拝礼なのですが、そのインパクトが強い姿と三条京阪駅の側という立地から待ち合わせ場所としてよく知られた場所で、僕自身20年近く前に京都市内で働いていた時はここでの待ち合わせに憧れましたが、実際にそれが叶ったのは1年半前のことでした。

では、この人はなぜこんな場所で拝礼しているのでしょうか?

この人物は高山彦九郎と言う人で、江戸後期に林子平、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と称された人でした。
幼い頃に『太平記』を読み、親族から自分の家が新田義貞に仕えた新田十六騎の一人高山重栄の子孫と知らされ勤皇の志を持ちます。
次男であったことから家を継ぐこともなく諸国を旅して多くの文化人とも交流しました。

そして京都に入る時には、三条大橋を渡る前に必ず御所に向かって拝礼したことが、今も銅像となって伝えられているのです(昭和3年に設置されましたが、現在は二代目)。

京都では岩倉具視の曽祖父(ただし血縁はない)となる岩倉具選と知り合い、鴨川で緑毛亀を発見して皇室に献上したことから光格天皇との拝謁も叶ったのです。
そのようなことから、中山愛親とも交流を行います。
しかし、尊号一件(光格天皇が、親王でしか無かった父親を上皇として遇しようとし、幕府に注意された)の事件に愛親が関わったことから、彦九郎も幕府に警戒され、追われるように九州に逃れます。
高山家の家紋が轡十文字であったためか、なかなか入ることができない薩摩にすら入国した彦九郎でしたが、旅の幅はだんだん狭められて、豊後国日田(大分県日田市)で捕らえられた後、久留米の友人で医師の森嘉膳の家で自害したのです。

この時、嘉膳はすぐに腹の傷を縫う処置を施したため彦九郎は夜に腹を切った後、明け方まで見舞いにきた人と横になりながら会話をして、最期の時は京都の方角に拝礼して亡くなったのです。

後に、吉田寅次郎という青年が彦九郎が東北を回ったときと同じコースを旅したことで彦九郎の人生に共感し、彦九郎の戒名「松陰以白居士」を借りて吉田松陰と号するのです。
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大黒屋光太夫関連史跡

2020年10月19日 | 史跡
今回の史跡巡りの最初の訪問地だった鈴鹿市考古資料館に置いていたチラシに、大黒屋光太夫記念館で『風雲児たち』の展示をしている事を知りました。
しかも、前日に始まったばかり。



『風雲児たち』は既に40年間連載されているマンガで僕も25年近く読者を続けていて、連載誌を毎月購入しています。最近原作者のみなもと太郎さんが体調を崩されていて現時点で3か月休載中で心配になっているところでもあったので、展示が気になりました。

彼女に「時間があったら行きたい」と言ってOKを貰いましたが、あまり興味はなさそうでした。

子安観音寺から少し移動すれば、大黒屋光太夫記念館に到着するのですが、閉館5分前になんとか到着。
急いで入館。

大黒屋光太夫は、江戸後期伊勢の船頭を務めていた人物でしたが、伊勢から江戸に荷物を運ぶ時に嵐に巻き込まれて17人が乗った船が遭難してしまう事になります。
船は北海道より北、ロシア領の島に漂流し、やがて船を作ってカムチャッカに移動、そこから日本に帰国するため、ロシア政府に談判するためオホーツク、ヤクーツク、イルクーツクとロシア領の中央部にまで移動を重ね、やがて女帝エカテリーナとの面会を果たして帰国の許可を得るのですが、その時日本に迎えた者は光太夫と磯吉、小市の3名。
新蔵と庄蔵の2名はイルクーツクに残り日本語学校の教師になります。そして残りの人々は亡くなったのでした。
10年の努力の果てに根室まできた光太夫たちでしたが、日露交渉が難航して留め置かれている間に小市は死去。
結局、光太夫と磯吉のみが江戸幕府に引き渡されたのでした。

この流れを軸に『風雲児たち』のマンガを使いながら説明と関連資料の展示がされていました。



大黒屋光太夫にあまり興味がなかった彼女でしたが、僕の説明が熱かったからか興味が沸いてきたようでした。
例えば、光太夫がロシアで日本で有名な大学者と聞いていた中川淳庵と桂川甫周のうち、幕府内で閑職に追われていた甫周が、老中らが光太夫を尋問する席の端で立ち会っていて、ロシア人が知るたった二人の名前を自ら聞いたこと。
ロシアに残った庄蔵が、林子平の『三国通覧図説』を日本語からロシア語に翻訳しそれが欧州に回って異国語に訳された本のまま日本に入り、その本が小笠原諸島の日本所有を公式に認められたこと。
など、『風雲児たち』で描いていた世界は面白く壮大だったのです。

記念館を出て、マスクをしている光太夫像に見送られながら、周辺の関連史跡を周りました。


3つも作られている、開国曙碑の一つを見たり



光太夫の生家亀屋の墓と、光太夫たちが遭難して2年目(まだ生存中)に建立された供養碑




最近建立された小市の供養碑



そして、光太夫たちが漂流前に出港した白子港には、光太夫を主人公にした井上靖の『おろしあ国醉夢譚』の記念碑があります。



白子港は、徳川家康が神君伊賀越えの後、岡崎に向かう為に船に乗った地ともされているので、この日の史跡巡りを締め括る良い場所にもなりました。
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子安観音寺訪問

2020年10月18日 | 史跡
当初目的にしていた鈴鹿市史跡巡り最後の目的地は子安観音寺です。

その寺号の通り、安産・子育てにご利益があるのですが、彼女は子どもはつくりたくない(そもそも「つくる」という言葉は日本語として正しいのかな?)みたいなことを言っていて僕も合意したのだけど…
そんな二人がなぜここ?

という素朴な疑問を投げかけると「知り合いにこの辺りのおすすめを聞いた中に含まれていた」のだそうです(石薬師寺もおすすめされた場所だったとのこと)。
そんなこともあり、本尊様に申し訳ないので手を合わせることは控えて頭だけ下げてきました。



さて、子安観音寺の由緒は、聖武天皇の御代(この地方は多いです)、伊勢湾から時々鼓の音が聞こえてきたので、網をうつと鼓に乗った観世音菩薩様の像が見つかったとの伝承から始まります。
この観世音菩薩像は、特に難産の女性を救う霊験があったため、子安観音と呼ばれるようになったそうです。

それにしても、伊勢は奇怪現象に事欠かない場所です。やはりお伊勢さんがあるからでしょうか?

日本史では、安産と子孫繁栄は大切なことでしたのでどの時代でも信仰を集めていました。
元禄時代に作られた仁王門





三重塔




などが目を引く場所でした。
尾張徳川家寄進の灯篭もあります。


今では隣接した場所に幼稚園もあり、観音様もたくさんの子どもさんの声が聞けて安心されているのではないか?とも思っています。

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神君家康の落馬地蔵

2020年10月17日 | 史跡
福善寺からそれほど離れていない場所に福楽寺があります。
訪問していて、善と楽が混乱気味でした(笑)


ここの山門を入ってすぐに「神君家康の落馬地蔵」があります。




神君伊賀越えで、加太から稲生の里(鈴鹿市)に入った徳川家康一行でしたが、疲れからか、落ち武者狩りに襲われたのか、家康が落馬をしました。
それを目撃した百姓の若者が家康を助けたところ、家康が後に「疋田」の苗字を与えたのです。
家康没後、村の人々は所縁がある家康が天下を統一し平和制度を確立したことに感謝して家康落馬の地にお地蔵様を祀り「落馬地蔵」と呼ばれるようになりました。
その後、40m離れた福楽寺にお地蔵様が安置されたのです。

ちなみに、福楽寺も福善寺と同じ行基の薬師如来像による始まりとなっていて、同じなのか、行基が複数の薬師如来像を彫っていたのか、混乱されているのか。判断ができませんでしたが、どちらにも信長に焼かれるまで大きな伽藍があったとの話があるのですから、どちらも含む大きな境内だったのかもしれません。



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福善寺訪問

2020年10月16日 | 史跡
福善寺は、神戸具盛が住職を務めていたことがあるお寺なので寄ってみました。

建立されたのは、聖武天皇の御代
東大寺の大仏建立の為に行基が諸国を巡っていた時、勅命で伊勢神宮を訪れた帰りに逗留し薬師如来像を彫ってそれを安置するお堂を作った場所と言われています。

そんな古い由緒もあることから、一時期は伊勢国最大の伽藍を有する寺院であり神戸氏と密な繋がりもあったのです。
最初に、神戸具盛が住職を務めていたと紹介しましたが具盛はもともと次男であったために福善寺にて出家していたのですが、兄利盛が若くして亡くなったために神戸氏の家督を継いで還俗したのです。

それほど、神戸氏との縁が濃いため、織田信雄の伊勢侵攻では戦火に巻き込まれ、大伽藍は焼失。
江戸時代の正徳年間(1711〜16 将軍が徳川家宣、家継の頃)に再興したのです。
行基が彫った薬師如来像は戦火で失われることはなく秘仏として御本尊になっているそうです。

無住のお寺のようでしたが、季節柄彼岸花が綺麗に咲いていて静寂感がある場所でした。





立派な墓石がいくつもありましたが、埋葬者を調べられていません。






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楠城訪問

2020年10月15日 | 史跡
楠城と書いて「くすじょう」と読みます。

てっきり「くすのきじょう」と読むと思っていたので、木俣氏の本流に関わるのではないか?と思い訪ねた場所です。
実際に多少なりとも関わってはいましたが…

楠城は南北朝時代の名将楠木正成の子孫の楠氏(くすのき・伊勢楠木氏)と、諏訪氏の傍流である楠氏(くす・伊勢諏訪氏)の二つの楠氏です。
しかも、両家が婚姻関係を結び、途中で城主を交代しています。

まずは伊勢諏訪氏の楠十郎(伊勢貞信)が室町時代初期に楠城を築城したとされていて、以降三代に渡り伊勢諏訪氏が城主を務めました。
この後、中島姓を称した二代城主中島貞益は京に住むようになり弟貞則が後を継ぎますか、貞則も兄と同じように京住まいをして伊勢に戻らなかったため、伊勢国司北畠満雅が貞則の城主の座を追い、貞則の養子になっていた伊勢楠木氏の楠正威を楠城主に任じ、以降は伊勢楠木氏が城主を務めるのです。

伊勢楠木氏は、刀匠との所縁が深く、のちに徳川家に祟ると言われる村正とも深い関わりがあります。
北朝に連なる天皇が続くため、一時期は楠木正成は朝敵とされていて川俣姓を称していましたが、織田信長や豊臣秀吉の祐筆を務めた楠木正虎(楠長譜)の努力により天皇の勅堪状を得て楠木姓の名誉が回復されます。
この時の楠城主は正虎の一族の楠木正忠でしたが、正忠は楠城主として永禄10年と11年の信長伊勢侵攻で滝川一益軍と戦い、敗れて信長に降伏したのです。

こうして、楠城は静かに歴史の中から消えたのでした。

今は本丸跡とされている場所に、大きな楠の木と石碑と案内板が残るだけです。




伊勢楠木氏で楠城主になった楠木正威の弟正重は刀匠村正の弟子で千子正重の銘を残す刀を打った人物でもあり伊勢楠木氏二代当主です。
また、正威の息子正資の子孫が木俣氏を名乗ることになります。
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伊勢 高岡城訪問

2020年10月14日 | 史跡
神戸城の支城として永禄年間に高岡山に築城されたのが高岡城です。

織田信長の伊勢侵攻に備えて、神戸具盛の家臣だった山路弾正が弟(正国、久之丞)と共に今の鈴鹿市や四日市市を見渡せる場所に籠ったのがこの地だったのです。
永禄10年(1567)、滝川一益を大将とした軍が攻めてきますか、麓の鈴鹿川と高岡山の地の利を活かして守りつつ、美濃三人衆と連絡をとりあって信長を包囲する策を立てたのです。
一益を引かせた信長は、翌年にもう一度伊勢に攻め入ります。

この時も高岡城は落ちませんでしたが、信孝が神戸具盛の養子に入ることで和睦し、具盛が隠居して日野城に幽閉されると高岡城は信孝の異父弟になる小島兵部が城主となります。
そして、信孝が羽柴秀吉に自害させられると廃城となったのです。


高岡山には神社があり、最初はこの神社から城跡に行けるのかと思ったのですが道がありませんでした。





神社と少しずれた場所に車一台がやっと通れるような道があり、対向車が来ないことを祈りながら慎重に山道を登ると小さな駐車場から城の入口があります。


ここが、高岡城の本丸にあたる場所のようで、織田軍の侵攻を睨んでいたであろう、今では平和な景色を楽しめる場所でした。





ここから、山を掻き分けながら調べると様々な遺構や6基の古墳があったそうですが、景色の方が目的だったために一呼吸してまた狭い道を行く覚悟を決めて山を降りました。


山路兄弟の後日談ですが、弾正は日野に幽閉された具盛を神戸城に戻すべく謀反を企てて自害させられます。

正国は柴田勝家に仕え、賤ヶ岳の戦いで加藤清正が討ち取った猛将山路将監として名を残します。

久之丞は小島兵部に仕えた後、信孝自害後に浪人し長尾一勝を名乗り福島正則に仕え、小田原の陣の韮山城攻めで傷を負いながらも奮闘し尾関正勝、大崎長行と共に「福島家三家老」と称されました、この三人は戦で身体に大きな傷を負った者として正則の自慢の家臣だったそうですから、一勝自身も戦で大きな傷を負いながらも武勇を誇った人物なのだと思います。
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龍光寺訪問

2020年10月13日 | 史跡
神戸城のすぐ近くにある大きなお寺が龍光寺です。

記録としては応永30年(1420)11月29日深夜、伊勢湾に霊光が飛ぶことが15日続いたため、伊勢国司北畠満雅が称光天皇から勅を受けて沢城主神戸実重に普請を任せたとされていますが、『鈴鹿市史』には文明17年(1485)に新造をしている記録もあるので、長い時間をかけて建築していた可能性もあります。

臨済宗の中でも高い寺格を持っていて、神戸氏が神戸城に居城を移したときに、龍光寺も現在の地に移動したとされています。
江戸時代に紫衣事件が起こるまで、歴代住職は天皇から直接紫衣を許されていました。

神戸城の時にも書きました通り、松平広忠(徳川家康の父)の父清康が阿部正豊に暗殺された森山崩れが起こると、広忠は大叔父松平信定に三河国を追われ、阿部定吉(正豊の父という皮肉)に守られて伊勢に逃れ龍光寺に匿われたのです。
たぶん木俣守時は、ここで広忠の世話役か何かに任じられて縁ができたのではないか?とも考えています。
また、広忠の縁で龍光寺住職は江戸時代になると将軍の慶弔や住職代替わりには江戸に赴くことになっていたのです。

大きな山門から寺格が伺えます。





本堂も立派です。






本堂隣の数寄屋風書院「坐忘亭」は熊本藩細川氏から贈られたものです。
徳川吉宗が将軍だったとき、神戸藩主本多忠統は若年寄の任に就いていました。
延享4年(1747)8月15日、熊本藩主細川宗孝は殿中で厠に立ったところをいきなり旗本板倉勝該に刺され絶命したのです。勝該は身内の板倉勝清(安中藩主)を逆恨みしていて板倉氏と細川氏が同じ九曜紋の家紋だったために間違えて殺されたのでした。
しかし、宗孝はまだ若く後継ぎが決まっていなかったためこのままでは熊本藩が改易になる可能性もあり、忠統は細川氏がそのまま続くように差配したのでした。
宗孝の後を継いだ弟重賢の感謝を深く示す逸話ですが、史料としての確証はないそうです。







また、本堂裏には江戸初期の神戸藩主一柳直盛が転封先に向かう途中で病没したあと、旧領に送られた遺髪塚が残っています。









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神戸城訪問

2020年10月12日 | 史跡
いきなり惚気話のようで申し訳ありませんが、同じ趣味のカップルには、共通して行きたい場所が何か所かあると思います。
僕と彼女が付き合うようになった頃(もしくはその前かも?)から2人ともが行くべき共通の場所となっていたのが伊勢神戸城でした。

今回の鈴鹿市巡りの時に、彼女から「神戸行きたい」とのLINEが来て、兵庫県の「こうべ」ではなく三重県の「かんべ」が思い浮かべることができる2人ということです。


さて、ではなぜ神戸城が2人の共通する訪問地かと言いますと、井伊直政を補佐し彦根藩家老の初代となり実質的に彦根城築城を徳川家康と図った木俣守勝の父守時がいた場所だったからです。

楠木正成の子孫とも言われている木俣守時は、神戸氏に仕えていましたが、三河国を追われて放浪していた松平広忠(徳川家康の父)と出会い仕官し、広忠が今川義元の支援で三河の岡崎に戻るとこれに従って行くのです。
神戸周辺っで200年以上根を伸ばした神戸氏を去って、国に戻れるかどうかもわからない広忠に従った守時の気持ちを知りたいと思っていました。

その答えは見つかりませんでしたが、神戸城には行って良かったと思います。

神戸城築城は、沢城の時に紹介しましたように神戸利盛が天文19年(1550)に居城を移したことから始まります。
ただし、その前から城があったような記録はあります。
沢城が湿地帯に囲まれて大きさに制限があったことから、近くの広い範囲が保てる地に拠点を移したとも考えられます。

やがて、利盛の後を継いだ具盛が城主になりますが養子に迎えた神戸(織田)信孝に家督を追われることになり、信孝は最先端の石垣、礎石、瓦のある織豊期の城を築城したと考えられています。



今は、見事な野面積みの天守台跡なども残っていますし、









発掘では金箔瓦(鈴鹿市考古博物館に展示されてます)も見つかっています。

これらの遺構、異物が信孝期の物であるか否かは特定が難しいそうですが、織田信長の息子が神戸城主を務めていたことは間違いありません。
どの時期の物か、不鮮明な部分はあっても全体的にも、雰囲気よく遺構が残っている城でした。







信孝が羽柴秀吉と対立し、切腹させられた後、城は桑名城に移築され石垣のみが残しました。

江戸時代に入り、神戸藩は一柳直盛(直末の弟)が城主を務めますが西条藩へ転封となり廃藩、しばらくして石川氏が入り再び立藩し、石川氏は三代で転封となり、膳所藩本多氏から分かれ若年寄も勤めた本多忠統(宗範)が神戸藩主となったあと幕府から再築城も許可され明治維新まで本多氏がこの地を治めるのです。
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伊勢 沢城訪問

2020年10月11日 | 史跡
今回、神戸氏に関連する城跡を巡ることがメインとなりました。

最初に寄った城跡は沢城です。
神戸氏は、桓武平氏に繋がる関氏から分かれた家で、関盛澄により南北朝時代の正平22年(1367)に築かれた城と言われています。この盛澄が神戸氏を称するようになりました。
戦国時代に入り、盛澄の子孫神戸利盛が近くの神戸城に移る天文19年(1550)まで約200年間神戸氏の居城だったのです。

神戸城については次に紹介しますが、利盛の跡を継いだ弟・具盛(友盛)は、それまで対立していた蒲生定秀の娘を妻に迎えてるなど融和政策で所領を守ろうとし、その過程で伊勢侵攻中の織田信長の三男信孝を養子に迎えますが、具盛と信孝の仲が悪くなり、信長の命で義弟蒲生賢秀に預けられ日野城で幽閉され家督を信孝に譲った形になります。
本能寺の変の前に具盛は許され、沢城で隠居したのです。

賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉が信孝を切腹させたのち、具盛は姉婿織田信包(信長の弟)を頼り安濃津に隠棲し、沢城は廃城になったと言われています。

沢城は、今は本丸跡に石碑と案内板が残るくらいです。
周りには田が広がっているので、沢城の名はそんな地形から付けられたのかも知れません。
本丸跡は、田より少し高い位置にあることから、城造りに合った地形だったのだと思います。




先に訪れた鈴鹿市考古博物館には、沢城跡から発掘された平仮名で「むめかく」と書かれた器が見つかっています。

城の身分のある女性が書いたのかもしれないですね。
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