彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

御曹司社と蒲桜

2020年10月10日 | 史跡
石薬師寺のすぐ近くには、蒲冠者範頼を祀った御曹司社があります。

蒲冠者範頼とは源範頼のことです。
範頼は、源頼朝の弟、義経の兄にあたる人物で、遠江国蒲御厨(浜松市)で生まれ育ったことから「蒲冠者」と呼ばれました。

義経と共に平家討伐軍を指揮しますが、義経がいないところでは負けることもあり、その結果義経によって平家が滅びるためあまり良い評価はないのですが、他方で文武に優れた武将であったとの評価もあります。
御曹司社な、その範頼の子(つまりは御曹司)を祀ったお社だったとも範頼の供養碑がある場所ともされているそうです。








そんな範頼は平家追討の前に石薬師寺に寄って祈願を行ったとも言われていて、その時に鞭として使っていた桜の枝を地に刺して「我の願い叶う時は、お前はこの地で生きろ」と言うと、その枝が芽を着けた。と言われています。
以来、この桜を蒲桜と呼ぶそうです。



行軍に必要な鞭を刺したまま放置した時点で武士としてどうなんだ?とのツッコミを入れてしまいそうになりましたが、史実として考証すると、その時期に範頼が石薬師寺辺りを通ったことは証明できないそうですが、春には綺麗な桜を咲かせるそうですので、チャンスがあれば再訪したいですね。

ちなみに、蒲冠者範頼は義経と同じように兄頼朝の命で殺害されますが、義経とは逆に基本的には悪役のイメージが付き纏います。
歌舞伎とコラボしたビックリマンではスーパーデビルが蒲冠者範頼に批准されていて、「悪役の大将とは頼朝や義経より出世したなぁ」と変に感心しちゃいました。





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石薬師寺訪問

2020年10月09日 | 史跡
鈴鹿市にある東海道の宿場町に石薬師宿があります。

その名の示す通り、石薬師寺をメインにした場所で、宿場町の規模としては大きくはありませんでしたが石薬師寺には多くの人々が訪れたと言われていて、歌川広重の『東海道五拾三次』の同宿場町の絵でもメインで描かれています。

石薬師寺という寺号になったのは宿場町が置かれてからだそうですがお寺の歴史は古く、聖武天皇の御代である726年に巨石が出現したことでお堂が作られ、平安時代になってすぐに弘法大師が巨石に如来像を刻み本尊としたのでした。
織田信長の伊勢侵攻で伽藍が焼けても本尊が残り、江戸初期の神戸城主一柳直盛が本堂を再建して今に残るとのことでした。




さて、今でもあまり広くない東海道を通り、石薬師寺に到着。

大きな伽藍がありそうなイメージでしたが、良い意味でイメージを崩してくれる物静かな門構えでした。



境内は青紅葉が茂っていて、秋には綺麗に色付きそうな様子でした。
お寺の方は、今年は台風が少なく、海からの塩害も無かったから期待できるとのことでした。








可愛い感じの狛犬




ここを訪れた人の中には、西行、一休さん、松尾芭蕉などよく知られた人々の名前が上がります。
また、彦根藩絡みでは深草元政(彦根藩士石居氏の出身、井伊直澄の叔父)の名前もありました。

御朱印


余談ですが、ゴッホが描いた『タンギー爺さん』には日本の四季が描かれていて、

春の絵には歌川広重が描いた別の石薬師寺の絵が使用されています。

(今回使用した広重とゴッホの絵は、10年ほど前に読売新聞が配っていた物を使用しました)
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鈴鹿市考古博物館と国分寺跡

2020年10月08日 | 史跡
関西本線に乗って楽ちん加太越を追体験したあと、南四日市駅まで出てレンタカーを借りる予定をしていました。

僕と彼女の2人で史跡巡りデート。
と、言えば読んでいる皆さんは甘い場面を想像するかもしれませんが、これから紹介して行く場所で2人のデート内容を理解して下さい。
しかも、ほとんどは彼女のリクエストです。

さて、南四日市駅でICOCAを通すと、2人ともエラー。
なんと、柘植から四日市の間には電子マネーが使えない区間があり処理できないのだとか…
おいおい、使えない駅で降りたならまだしも、使えない区間を利用してるからエラーってどんなシステムだよ!
仕方なく、どこか有人駅の窓口で処理してもらうことにして駅を出て車を借りに行きました。

レンタカー店では、現金払いの場合は運転免許以外にもう一つ身分証明書が要ると言われたので、マイナンバーカードを渡したら「マイナンバーカードは身分証明書として受付できません」と言われました。
おいおい、身分証明書にならないって、どうなってるんだよ日本政府!

と、朝から2つの「おいおい!」事件を経験して面白おかしく運転を始めました。


最初の目的地は、鈴鹿市考古博物館。


今回は、神戸氏に関わる史跡を多くまわるので、その理解も含めた訪問です。
展示の中には古代の埴輪などから、訪問する目的になっている沢城跡や神戸城跡から発掘された遺物などもありました。
必要があり『鈴鹿市史』一巻を購入し、古代から戦国時代までの市の歴史を調べる足掛かりを家に置くことができました。

また、博物館と隣接して伊勢国国分寺跡があります。





今回は時間の都合で入口辺りを見るだけにしましたが、イメージとして伊勢国の国府は伊勢神宮の近くに集中しているように感じていましたので、鈴鹿市にある事にびっくりしましたが、よく考えると東海道に近い方が便利だったのかもしれません。

国分寺及び国分尼寺は、聖武天皇が天平13年(741)に国家鎮護を目的として全国に建立を命じる詔を出して建築させました。
当初はなかなか建築されませんでしたが、聖武天皇が再び詔を発したために全国での建立が進みました。その総本山は国分寺が東大寺、国分尼寺が法華寺になります。
現在では、いくつかの後継寺や地名が残る程度ですので、伊勢国国分寺のように跡地が広く残している事には価値があると思います。
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神君伊賀越えの道(加太越)

2020年10月07日 | 史跡

GWに一度通過したのですが、またこの車両を利用しました(今回はGWと秋の2回通過したときの写真を混ぜて使います)
JR草津線で柘植まで出て関西本線を四日市に向かう滋賀県と三重県の県境の道を加太越えと言います。

本能寺の変の後、徳川家康が堺から岡崎まで逃れた「神君伊賀越え」で一番の難所と言われた場所ですが、今は関西本線に乗れば柘植駅~加太駅まで何の苦労もなく疑似体験ができてしまいます。

そんな加太越えをJRに乗りながら辿りました…
単に電車に乗って外の写真を撮影しただけです(笑)

鉄道マニアの知人の話では、蒸気機関車の時代は後ろに補助機関車を転結しないと越えられない難所だったそうですので、交通の難所であったことは間違いないようです。

柘植駅から見ると、まさしく山越えの様子です。

車窓からは美しい自然の風景ですが、ここを越えてゆくことになる家康一行は大変だったでしょう。



たぶんそれほど景色は変わらないでしょうから、450年ほど前に家康たちが観た場所に重なる所もあるかもしれないので感無量です。




加太駅に到着。


しかし、家康たちにはまだ油断できない旅が続くのでしょう。
彦根市民にとっては元服前の井伊万千代(直政)と後の彦根藩家老である木俣守勝が初めて一緒に苦難を乗り越えた地であることにも興味が湧きます。

伊賀越えの最中に祠のお供物である強飯を見つけた家康一行はみなでそれを分けようとしますが、万千代は受け取らず、家康が皆で協力しようとする時に遠慮するような様子の万千代を叱責すると、「自分が斬り死したときに身体から強飯が出てきたならば、徳川の者は飢えてお供物まで手を出したと笑われる。死ぬ覚悟の自分には殿の恥となる物は必要ない」と宣言したとされています。

他の者は強飯を口にしたと言われていますので、強飯で飢えを凌いだ熟練の将の守勝は、年若い万千代をどう見たのか、知りたい気にもなりました。
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神吉城訪問

2020年10月06日 | 史跡
前回に続いて、明智光秀と木俣守勝が関わるお城。

神吉城は、兵庫県加古川市にあります。
最寄りの宝殿駅からゆっくりと登り坂を上がるようになっていて城攻めが行われたならば、攻める側は油断すると重心が背中に行くため、精神的に攻め難い城ではないかと感じられます。

築城は早く、赤松円心の子孫赤松範次によって南北朝時代には築城され、戦国時代には天守のような役割を果たす櫓もあったとされています。

織田信長の命で羽柴秀吉が播磨を平定していた頃、神吉城主神吉頼定は、三木城主別所治長の味方をしたため秀吉と戦うことになります(神吉合戦)。
秀吉の参謀(軍師)黒田官兵衛の養女が頼定に嫁いでいたとの説もあり、もしかすると秀吉にとって戦う必要のない城と考えていたのかもしれませんが、結果的には激しい戦いが行われることになります。





この時、織田信忠、明智光秀、佐久間信盛、荒木村重らが援軍として参戦したのです。
光秀の家臣として参戦した木俣守勝は一番槍の功を挙げて、光秀からの感状を受けています。

信盛が頼定の叔父神吉貞光を調略し、頼定を暗殺して神吉城は落城したのです。
天正6年(1578)7月16日のことでした。

現在、神吉城本丸跡地は、常楽寺が建っています。







奥に進むと神吉頼定の墓もあり、頼定がこの地をよく治めていたことが窺い知れます。



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片岡城訪問

2020年10月05日 | 史跡
片岡城は奈良県北部の北葛城郡上牧町に城跡を残す山城です。
上牧町にありますが、別称は下牧城と呼ばれています。

築城年は諸説ありますが、戦国時代黎明期には片岡国春という人物が戦国時代のポピュラーな山城として築城し、片岡氏の城になっていましたが、永禄12年(1569)4月から翌元亀元年11月まで片岡氏と松永久秀が城を取り合い、やがて久秀の支配が確定しました。

今見ることができる遺構は久秀による改修の痕跡があり『信長公記』には天守もあったとも言われています。
天正5年(1577)久秀が織田信長に反旗を翻し信貴山城に籠り、片岡城は松永軍1千を率いたの海老名友清・森正友が守ります。
10月1日に、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶ら5千が片岡城を攻め落としましたが、このときに藤孝の息子忠興・興元の活躍が素晴らしく信長から直筆の感状が与えられました。忠興に与えられた感状は信長の直筆が証明できる唯一の物として現在の一級資料になっています。

こののち、10月5日まで光秀らが滞在し、信貴山城に出陣して行った城です。
ちなみに、この時の明智軍の中にはのちの彦根藩筆頭家老木俣守勝も居たとの説もあります。

片岡城は、川に挟まれた地にありその川を天然の堀のようにしていました。

東川の葛下川




西側の滝川



両川は北側で分岐しているので片岡城は三方に川があります。

山に向かうと掘削の跡があり、曲輪であったことが伺えます。




そして一番の見所は松永久秀が作らせた大堀切です。


この上に天守があったとも言われています。




麓との高低差も見応えあるものでした。



今は山の中に城の痕跡を残すだけですが、『麒麟がくる』の関連史跡のひとつでもあるのです。
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夜の彦根城

2020年10月04日 | 彦根城
2020年の秋は様々なイベントが中止になりましたが、野外のイベントは比較的行い易いようで彦根城でも夜に野外でのイベントが行われています。

ライトアップされた天守近くまで行けるイベント




玄宮園の夜の風景を楽しむイベント






そして唯一屋内になりますが、彦根城博物館にある能舞台のライトアップを見学することもできます。

せっかくなので、ひこにゃんを入れることができるアプリで、能舞台で楽しむひこにゃんを撮影。




これらの会場を巡るスタンスラリーでオリジナルの御城印も完成しました。


秋の恒例となりました佐和口多聞櫓のライトアップも楽しめて、夜の彦根城を楽しみ尽くすイベントでした。








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尾崎神社参拝

2020年10月02日 | 史跡
金沢城を出て、バス停に行く途中で尾崎神社に寄りました。

金沢城大手門跡の石垣に縦長に積まれた、鏡石であろう巨石に興味を覚えたりしながら



お堀沿いを進みます。



途中で入った屋敷跡は、宇喜多秀家の正室豪姫が晩年を過ごした地に建つそうです。






そしてふっと目に入り立ち寄った尾崎神社。

小ぶりながらも立派な朱塗りの本殿は、もともと金沢城にありました。
加賀藩四代藩主前田光高が幕府に願いでて、金沢城北ノ丸に東照宮を勧進し、天照大神、東照大権現(徳川家康)そして光高の父前田利常を祀ったのです。
この時は東照三所大権現社と呼ばれていました。

明治時代になり尾崎神社に改称。金沢城が陸軍省の管理下に置かれたために城外に移築されました。
「金沢の江戸、北陸の日光」とも呼ばれていたと言われています。
建物の移築はあったものの、建物の多くが寛永20年(1643)からの物ですので、その意味では尾崎神社も立派な金沢城遺構ともいえます。

拝殿




神門




ここの御朱印はとても力強いものでした。神職さんがご多忙でなかなか受けることができないそうなのですが、訪れたときにはいらっしゃり「暑さに気を付けて」とお声掛けもいただきました。




これで、福井・金沢を一日で巡る鈍行列車の旅は終わりです。
井伊谷行きからあっちこっちと、たくさんの話にお付き合いいただきありがとうございます。
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金沢城訪問⑤

2020年10月01日 | 日本100名城と続100名城
金沢城三ノ丸に入る門は、河北門の他にも石川門があります。









河北門が正門ならば、石川門は搦手門です。どうじか兼六園に向かう通用門のようなイメージでしょうか。
すでに紹介しました橋爪門、河北門と並んで「三御門」と呼ばれる門でしたが、河北門同様に宝暦の大火で焼失し、河北門が再建された後に石川門も再建されました。

その後、河北門は明治時代に取り壊されますが、石川門は残り続け、三十間長屋と共に江戸時代から現存する金沢城建物になったのです。

ちなみに、名前の由来は石川郡の方向に建てられた門だったからだそうですが、兼六園に一番近い門として一番知られた門でもあります。

ここも、金沢城特有の海鼠壁が見れますが、最大の面白いところは枡口に詰まれた石垣の積み方が違うことかもしれません。
江戸期に修繕があり、同じ積みかたをする計画もあったそうなのですが、敢えて時代に合わせた積みかたに変えたようです。






江戸時代から残る門も、再建された平成、令和の建物と遜色がない壮大な場所でした。

このまま兼六園に行ければ良かったのですが、この日は時間オーバー、また後日来ようと思います。
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