安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
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国は今こそ貨物列車迂回対策を!

匿名であるということ

2006-02-02 23:57:27 | その他(国内)
西正さんのブログで、匿名投稿をめぐる議論が盛り上がりを見せている。この問題では、ブログがインターネットの主流になる前のBBS時代からしばしば激しい議論が行われてきた。
ちなみに私は、匿名で発言したい者はすればいいし、実名で発言したい者もすればいい、と思っている。別に賛成でも反対でもない。

匿名コメントは無責任な内容のものが多いから匿名制は認めるべきでない、と主張する人たちはどういう根拠でそう断定しているのだろうか。
確かに匿名をいいことに無責任なコメントをする人たちもいるにはいるが、それは各人の資質や人格の問題である。例えば匿名でも書き込み内容がほぼ正確な人と、実名だが書き込み内容が間違いだらけの人がいるとしたら、信頼されるのは前者であり、後者が信頼されることはあり得ないからである。

それに、芸能人など特に有名な人を除いては、実名も匿名もさほど変わらないように思う。フリーライターの久保博司さんは、日本で犯罪者・容疑者などの名前が原則として実名報道であることについて、「もともと読者にとって、どこの誰かもわからない名前を報道されても意味のないことである。それなのに、このように実名報道がつづいているのは、みせしめとしては最大の効果が期待できるからであろうか」と述べている(「日本の検察」久保博司・著、講談社文庫、1989年)。
確かに、例えば3ヶ月前に○○市で起きた強盗事件の被疑者の名前は何だったか、と聞かれて即答できる人は少ないだろう。手口が猟奇的であったり残酷であったりするなど顕著な特徴を持った事件は別だが、ありふれた普通の強盗事件の被疑者の名前を一般の人はいちいち覚えていないのが普通である。したがって、無名の一般人に関して言えば、実名も匿名も変わりない、ということができる。
しかし一方、それならば、久保さんが主張している「みせしめ効果」とは何か、ということになるわけだが、これは実名が報道された当人をよく知る、いわば当人に近い立場にある人から受ける様々な不利益を指している。当人にとって関わりのない、ブラウン管の向こう側にいる人は簡単に自分の名前を忘れてくれるが、家族、親類、学校や職場といった実社会で当人と身近に関わりのある人たちはそうはいかないからだ。被疑者として実名報道されようものなら、こうした「近いところの人たち」から当人は白い目を向けられるのである。
「そうなるのがイヤなら新聞に被疑者として名前が載るような真似はするな」という圧力の中に犯罪抑止効果があるために、日本では実名報道が一般に行われているのではないか、というのが久保さんの主張だろう。

このように考えるなら、ネット上で誰かが匿名で発言をしなければならない状況があるとすれば、それは「本人にとって身近に付き合いがある人たちの圧力から本人を守る必要があるとき」以外に考えられない。
引用先のブログの運営者である西正さんは今のところ匿名を名乗らなければならない事態には追い込まれていないようだが、もし彼がそうなるとすればメディア業界内部から圧力を受けたときに限られるだろう。

そういえば、匿名掲示板として時に社会を騒がせてきた「2ちゃんねる」管理人の「ひろゆき」こと西村博之氏が、かつてPC雑誌(だったと思う)で2ちゃんねるに匿名制を導入しようと思った理由についてインタビューに答えていたのを記憶している。西村氏の答えは、確か「企業の内部告発者など、実名は出せないが社会のために有意義な行動を起こそうとする人々を保護するために匿名制を導入したが、それがやがて“便所の落書き”的な無責任な言論へとつながっていった面もある」といった内容だったと思う。
今の2ちゃんねるからすれば信じがたいことだが、匿名制は無責任な言論を放任するために導入したのではなく、社会的強者の圧力によって言いたいことが言えないでいる人たちに言論空間を開放することが目的だった、というのである。誰を誰から守るときに匿名制が最もその効果を発揮するのか、たった今検証したばかりである。西村氏のこの発言は本音と見ていいのではないかと私は思っている。

人は誰でも「社会的に認められたい」「ここに自分という人間がいて、こういうふうに物事を考えているんだということを知ってほしい」という欲求を当然のものとして持っている。一方で、子供が親に言えない悩みを友人には打ち明けられる場合があるのと同じように、身近な人には話せないことでも、自分と利害関係を持たない全くの他人になら話せる、という場合もあるだろう。そういう場合の手軽なツールとしてネットやブログが台頭してきただけのことで、取り立てて大騒ぎするような話ではないようにも思うのである。

そういうわけだから、ネット上の匿名であっても、他人からその人を区別できる程度のオリジナリティーがある名前であって、かつその人が信頼に足る言論をしているならば全く問題はない。
むしろ、実名か匿名かは上記のような事情を総合的に考慮して決められるべきものである。

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