●日本の弁天
↑京都市禅林寺境内の弁財天社
●タイの弁天さま!?
↑地図上では近く見えますが、ベーリン通りを車で10分から20分ほど走りました。
↑ベーリン駅近くにかけられてたハ掛鏡。
●嗚呼、天につばはくこと無きように
氏神の八幡さん、隣のダイニッタン(大日如来)、長治さん、ご先祖さんをはじめ、管理人は日本の祭のことを調べているだけあって、日本の神仏を敬っています。ここで勘違いなきようにしたいのは、(神仏を敬う、国を愛する)ことは、(隣の国を誹謗中傷する)ではないということです。「政(まつりごと)の悪しき常套手段として、差別する対象をつくり、為政者への不満をそらす。」に乗っかると、我らが神さんの天下りされた地を冒涜することになります。
例えば素戔嗚尊は、新羅の曽之茂利(そしもり)の山に天下りされたと「日本書紀」の一書にあり、天日矛は新羅の王子の子で、その何代か後の直系の子孫が八幡さん・応神天皇になります。「政(まつりごと)」の悪しき常套手段にのっかって、横の国を誹謗中傷することは、氏神さんに唾はくようなものだと肝に銘じたいものです。
↑慶尚北道海印寺 一説によるとこのあたりが新羅の曽之茂利と言われています。
●扶余のピョンピョン(参考文献 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(中公新書)1992)
『後漢書』東夷列伝には、下のような話が残っています。
北夷索離国の王が出ている間に侍女が身ごもった。王はこれを殺そうとしたが、侍女が言うには、天上の大きな気が来臨したから身ごもったという。
生まれた男の子を豚の檻に入れたら、豚はこれを口でふき、馬小屋でも似たようなことが起きた。王は是を神として東明と名付けた。しかし、東明の弓矢の腕を見て、またこれを殺そうとした。東明は逃げ行く。
そして、次のようなことが起きます。
掩水にいたり、弓をもって水を撃てば、魚鼈(ぎょべつ・魚や亀)みな水上にあつまり浮き、東明は之に乗りて渡ることを得、因りて夫余に至りて王となる。
魚や亀が集まって、東明は掩水を渡ります。『北史』のほうは「掩滞水」とあり、「掩」が覆う、滞水が滞るという意味から、湖となるのでしょうか。そして、王となります。『後漢書』はこれでおわりですが、『北史』ではやがて東明は百済の王となると書いています。
●出雲のピョンピョン
大国主は、80人の兄弟の荷物を持って従者として一番遅れて旅をしていました。そこに、皮がむけただれた兎が寝ています。兎の話を聞くとこうです。
「シ於岐(おき)の島に渡ろうとしたが、方法がなかった。だから海の鮫に、
『我ら兎と鮫の一族どっちが多いか比べよう。おきの島からこっちにむかってならんでごらん。私が渡って数えるから。』
ともちかけた。ピョンピョンとわたって、
『だまされたなー』とわらったら皮をむかれた。
ないていたら、80人の兄神・八十神(やそがみ)が、海水を浴びて、風にあたるといいよっといわれてそのとおりしたら痛い痛い。」
大国主は河口の真水で体を洗って蒲の葉を敷いてその上にねたらよくなると教え、その通りにすると傷がいえました。兎は言いました。
「八上比売(ひめ)のハートは君のものさ」
で、そのとおりになりました。
フラれた80人の兄神・八十神は残念大国主を殺そうとしますが、失敗に終わります。
・水を渡るのは扶余は後に王となる東明、出雲は大国主が後に王となることを予言する兎
・扶余・東明は湖の魚鼈を渡り、出雲・兎は海の鮫を渡る。
・扶余・東明は牢に入れられ、出雲・大国主は従者となる。
・扶余・東明の敵は父、出雲・大国主の敵は兄
・扶余・東明は渡る前に命を狙われる。出雲大国主は渡った後に命を狙われる。
似ている
・水を水の生き物をつかって渡る。
・家族の目上の男に不遇の目にあわされ、命を狙われる。
・やがて一国の王となる。
後漢書の成立が記紀神話より早いことを考えると、出雲神話の源流も朝鮮半島に求めることができそうに思えます。
この旅は、私にとっては一生忘れられない旅になりました。日本では、韓流芸能批判騒動真最中での旅行だったので、現地での冷遇を心配しましたが、全くの杞憂でした。韓国の人たちは本当に親切で、本当に感謝の言葉もありません。
そのような親切に甘えながら、慶州、海印寺、高霊、釜山、金海を歩き回りました。少しかたむいた瓦、少し違う人たち、少し低い床、少し違うファッション、少し違う道路の風景。学生のころに外国の一人旅をしたことはありません。ですが、地図を片手に道を訪ねながら歩き、見たことのない景色が目の前に広がるたびに、熱いたぎりが戻ってくるようでした。
その旅のなかで、荷物を預かってもらいました。キムチやカップ麺、まんじゅうをわけてもらいました。車で送ってもらいました。両替ができない時はバス代をまけてもらいました。ささやかな親切にふれる度に、この国が好きになり、また来たいという思いが強くなりました。
驚いたのは、日本語を話す若い人が多いことです。昨今の韓流芸能の席巻の理由は、円高や会社の戦略だけではありません。その根幹には日本語力があります。
一方の日本においても、「外来語」の教育があります。ですが、カルテやカードという外来語を教えても、キムチなどを外来語として紹介するように教科書ではなっていないようです。隣の国の言葉や文化に無関心なまま、韓国芸能だけをあれこれ言うのでは、進歩はありえません。韓国の人たちがしているように、隣国の言葉や文化をまず学ぶことから全ては始まるのではないでしょうか。
とにもかくにも、今思い出しても胸が熱くなる旅になりましたが、拙文ゆえにそのたぎりの半分も伝わっていないかもしれませんが、ひとまずの旅行記の締めくくりにしたいと思います。
謝辞
この旅は、私一人の力でなしえたものではありません。以下の方々に感謝申し上げます。
・この旅を快く許可してくださった職場の方々、同居の父母。
・右も左も分からぬ私に、親切に接してくださった、現地の方々。
食事を頂いたり、荷物を預かってくれたり、道案内や車での送り迎えをしてくださった方もいました。
―特に、慶州市在住の済さん、海印寺バス停横の売店の方、高霊市coffee story オーナー 金善英さん、金海市テウォンドゥリン代表 イ・ジョンデさん、釜山大学卒業生 Won-Junさん、
本当に本当にありがとうございました。
2011年 本文を作成しgeocitiesのウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』 掲載、2019年本ブログに復刻移設