月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

231.バンコクの弁天?(月刊「祭」2019.11.15号)

2019-11-18 05:17:00 | コリア、外国

●日本の弁天
 日本ではたくさんの弁天さんがまつられています。有名なのは、厳島神社でしょう。厳島神社について、あれこれ考えたのはこちら





明治の神仏分離政策により、今は隣の寺院に弁天さんは移っています。

 日本各地の神社や寺院にも弁天さん、つまり弁財天は、現在では厳島神社と名乗るなどしてまつられています。宮島の厳島神社がその名の通り海の鳥居を持つ海上にせり出した神社です。弁天さん・弁財天は、七福神のひとつであるように、水の神でもあります。なので、それぞれの神社や寺院で祀られる場合にも、池の中の島に祀られることが多くなります。





↑京都市禅林寺境内の弁財天社
 池の島に建てられいます。


●タイの弁天さま!?
 タイにも弁財天はいらっしゃいます。ヒンドゥー教の女神でサラスヴァティというそうです。へっぽこ祭ブログ管理人の御用達サイト-某wikiぺdアによると、サラスヴァティも水の神。下の写真の神像?仏像?は、バンコク市内ベーリン通りで見つけたレストランにありました。
 池の島に立っている様子はまさに弁天さんです。しかし、手に持っているのは蓮のようで、楽器ではありません。となると、管理人愛用ページにある、サラスヴァティのように楽器を持っていません。
 グーグルで画像を検索してみると、ラクシュミーと呼ばれる女神が蓮を持ち、蓮の花の上に立っていました。この点では写真と共通します。また、弁天を脇侍としていふ画像をよくみかけます。ラクシュミーと弁財天がまざった姿が日本の弁天信仰なのかとも思いましが、ウィキpディアによると、ラクシュミーは4本あるとのことで、この像とは異なります。
 そこで、「蓮の花を手に持つ」、「蓮の花の上に立つ」ところから考えてみると、行き着くのは観音さんでしょうか。あくまで管理人の主観ですが、この像はやや中国風にも見えます。例えば、「台湾、観音」でグーグルなどで検索すると雰囲気の似たものが画像で見ることができます。
 バンコク市内特には八掛鏡ともいえる、鏡を掛けた商店がいくつも見られ、中国の宗教的影響が見られました。なので、中国風の観音像であっても不思議はありませんが、管理人は断定できません。
 
 





↑地図上では近く見えますが、ベーリン通りを車で10分から20分ほど走りました。



↑ベーリン駅近くにかけられてたハ掛鏡。


編集後記
 親友t君の結婚祝いに渡ったタイ。彼がタイに旅立つ直前に一緒に旅行に行ったのが宮島でした。そして、式の後、管理人がタイをたつまえに新郎ご家族と新婦ご家族と共に食事をしたのが、画像のレストランでした。「弁天さんや」と思って、何かの縁を感じつつ記事を書いてみたら、必ずしもそうではなかったようです^_^:
 とにもかくにも、T君、Jちゃん、本当におめでとう。そして、旅行期間中お世話になったT君ご家族のみなさま、本当にありがとうございました😊
 






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230.タイワットポー巨大涅槃物の大きさ以外の見所(月刊「祭」2019.11月15号)

2019-11-17 04:45:00 | コリア、外国
●タイ王国バンコクワットポーの巨大涅槃仏
(アクセス【公式】タイ国政府観光庁のワットポー解説)
 ワットポーの涅槃仏は当時チャクリー王朝のシャム国王であったラーマ3世(在位1824-1851)の命令によってつくられました。
 高さは15メートルで、頭が建物を突き破らんばかりになっているし、全長は46メートルで小学生が走り抜けられる距離になっています。しかし、この涅槃仏の魅力は大きさだけではありませんでした。とはいえ、やっぱり大きさもおどろきでしたので、まずはそれがわかる写真を見ていきましょう。


↑献花や入口とくらべてらと大きさはわかります。


↑見上げて撮った枕と後頭部。



↑パノラマでとると、両端の入口と出口が豆粒のように見えます。

●脱帽、靴を脱ぐ習慣
 入場するためには、条件がつけられています。脱帽と土足厳禁です。


↑入口にNO HATの文字。

↑土足厳禁はで歩いたところは石畳でした。

 土足厳禁ではあるものの、高床にもなっておらず、石畳での土足厳禁でした。これは、他の建物でも適用されているところがありました↓。




●工芸
 涅槃仏を囲む工芸ではその高い技術が総結集されていることがわかります。

台座

↑眠る仏さんの蓮の台座。重層的に彫刻?がされています。葉の葉脈を立体的に表し、葉脈は金箔が貼られ、そうでないところは緑色になっています。一枚一枚の葉に一つずつ青い石がついています。

絵画

↑柱にも細かい植物などの絵がていねいに描かれていました。



↑扉は黒の下地に金色で細かい絵が描かれていました。


↑建物上部などには物語の絵などがえがかれています。場所によっては、板に直接描かれていました。

螺鈿
 そして、螺鈿細工です。


↑足の指の指紋を象って螺鈿細工でがされています。

↑足の指でないところには、仏様たちが象られています。

↑一つ一つを見ると非常に細かくできています。これが、日本では煩悩の数とも言える108の世界に分けて描かれているそうです↓




●原始仏教と新仏教が統合された究極の芸術
 原始的な仏教では、仏の姿を描いて崇拝することは禁じられていました。しかし、それでは、庶民への教化がむずかしく、やがて仏像をの制作は解禁されていきます。
 その過渡期として、仏さまの足跡、仏足跡を崇拝する信仰が、インドなどの仏教発祥地付近ではその遺物が比較的よく残っているようです。ワットポーの涅槃仏の足の裏の工芸が、芸術の粋を集めたものになっているのは、仏の姿を忌む習慣から生まれた足跡崇拝の名残と言えます。
 その一方でワットポートの涅槃仏の足の裏に見事な螺鈿細工で描かれているのは、かつては禁じられていた仏さまたちのお姿が形作られています。

●ワットポーの涅槃仏
 ワットポーの涅槃仏には、超巨大な彫刻に超繊細な芸術が組み込まれていました。ワットポーの足の裏には、かつての足跡信仰の名残が、新しい仏像信仰という形で見事な螺鈿細工で表現されていました。

ワットポーの魅力の一部を紹介しました。

謝辞
 お忙しい中式前日に案内してくれた、新郎のT君、新婦のJさん、同行してくれたご家族のみなさま、ほんとうにコップンクラップ(ありがとうございました)



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222.昔から今へ受け継がれた伝統-韓国全羅道南原市の石像の特徴3/3-(月刊「祭」2019.11月7号)

2019-11-06 23:03:00 | コリア、外国
●韓国南原市の観光名所
 今回は韓国南原市(詳しくは、ウィキpディア)内にある二つの観光名所-廣寒楼苑と萬福寺跡-の石像の特徴についてです。石像をいきなり出す前にそれぞれの観光地の簡単な紹介をします。今回はそれぞれの石造の特徴についてです。

●萬福寺趾、만복사지、マンポクサジ
(アクセスウェブページともに同じサイト)
  記事

●廣寒楼苑・カンハルルウォン・광한루원
(アクセス、ウェブページ<日本語韓国語(한국어)>)

●萬福寺趾の石像
 元々、前の記事に紹介した竿頭支柱の前に立てられていたそうです。裏面には穴が開けられており、同様のものがもう一体あったそうです。よって、幡のようなものを立てる役割もこの石像はしていたことが推測されます。入り口にあり、一対の石像だったことを考えると、仁王像のようなものと考えられるでしょう。
 よく見ると、この像は斜めを向いていることがわかります。
 









●廣寒楼苑北川の石造
 場所は下の地図の通り、廣寒楼苑の北側にあります。南原城の南門趾を表す石碑としてたてられていました。裏側には文字がはっきりと読めませんでしたが、「南原の沿革」が西暦年代で書いてあり、1981年のものが一番新しい年代になります。よって、1981年以降に作られたものですが、やはりこれも斜めを向いています。






●受け継がれた?伝統
 萬福寺の石人像は、何年に建てられたものかはわかりません。ですが、わざわざ案内板が書かれるくらいなので、案内板が書かれた時代に生きている方が生まれる前にはすでに立てられていたものであるとは、考えられます。一方で南原城趾のものは、1981年以降であることは確実で、いわゆる「現代」に建てられたものと言えます。
 しかし、時を経ても
 ①門前に建てられる
 ②斜めを向いている
 という「南原萬福寺式」の石像は受け継がれたと言えるのかもしれません。



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218.萬福寺趾-韓国の石仏文化-南原市の石像の特徴2/3(月刊「祭」2019.11月3号)

2019-11-03 20:15:00 | コリア、外国
●韓国南原市の観光名所
 今回は韓国南原市(詳しくは、ウィキpディア)内にある二つの観光名所-廣寒楼苑と萬福寺跡-の石像の特徴についてです。石像をいきなり出す前にそれぞれの観光地の簡単な紹介をします。今回は萬福寺趾の紹介です。基本は案内文の日本語訳になります。

1 萬福寺趾、만복사지、マンポクサジ
(アクセスウェブページともに同じサイト)
 うえのリンク先は簡潔に分かりやすく萬福寺跡の概要が書いてあります。下の文章を読んで分かりにくい方は上のリンクへ^_^  とりあへず、管理人は案内板を訳してみます。である体はですます体になおしました。
 訳の部分は---これより---線と---これまで----の間とします。また、各宝物に関しては、全訳ではなく要約とします。

---これより----
●萬福寺趾
史跡第349号 
全羅南道南原市 ヴァンジョン洞
 ここは高麗の文宗帝(1046-1083)の時代に、初めて萬福寺がつくられた場所です。
はじめてつくられた時、境内には銅製の仏像を安置した二層の法堂と五重木塔があったと伝わっています。近年の発掘調査によると、朝鮮時代に萬福寺は中心に木塔を擁し、東、西、北側に法堂を擁する一塔三金堂式の配置だったことが分かりました。この寺刹は、金シスプの小説「金鰲(日本語読みだとキンゴウ)新話」に載っている「萬福寺樗浦記(日本語読みだとチョホキ?)」の舞台としてもよく知られています。朝鮮中期まで繁栄した萬福寺は丁酉再乱(慶長の役・1597)で灰塵に帰しました。長い年月を経ても残った石塔と石の遺物いくつかが、寺院の面影を残しており、断片的に当時の面影を窺い知ることができます。

境内の国家指定文化財
五重石塔(宝物第30号)
石造台座(宝物第31号)
幢竿支柱(宝物第32号)
石造如来立像(宝物第43号)
---これまで---

 一塔三金堂形式の伽藍配置は、日本では飛鳥寺(法興寺)がかつてそうだったと発掘で判明しました。韓国では慶州市などいくつか例が残っています。
 三金堂ではかつての興福寺がそうでしたが、興福寺は三金堂二塔もいえる東西に塔がたっています。




↑看板越しに北側を見ました。

↑寺院の立地については日を改めて。

●五重石塔(宝物第30号)
---これから---
高麗時代に作られたもので、背の高い基壇のうえに五重に屋根が連なっています。屋根の最上部は長い年月で落ちてしまいました。1968年の修理の時に一層目から仏舎利用の箱が見つかりました。高麗時代らしい簡素な作りですが、二層目より屋根と各層の間に石板があるのが特徴的です。





●幢竿支柱(宝物第32号)
 

---これより---
 幢は寺院で行事を施行する時に門前に掲げる一種の旗で、そこには仏の功徳を称える絵を、描いていました。幢竿支柱は旗の竿を支えるためにつくられた柱です。
 この幢竿支柱は高麗時代に巨大な石を飾り気なく打って整え、どっしりとしながら素朴な味わいを漂わせています。地中に埋まっている部分も考慮に入れると全高は5mほどになると思われます。
 巨大な幢竿支柱から旺時の萬福寺の様子が思い浮かぶようです。
---ここまで---



●石造台座(宝物第31号)
---ここから---
この石座は仏像を安置していた六角形の土台で、萬福寺の創建と共につくられたものと考えられています。下の部分は花の装飾を含む象の目模様(眼象)があしらわれ、その上に蓮華が彫られています。中間部は下部より幅が狭くなっていて、各縁に短い柱模様が彫られています。上部は再び幅が広がり、側面は蓮華で飾られています。上底面には仏像を固定するための穴が開けられています。この石座は高さ1.4mほどの一つの岩から作られており、六角形が特徴的です。
---ここまで---
 建物の中心あたりと思われる場所にありました。つまり、その建物の中心仏の台座が石でできていたことになり、木製や漆喰、銅がおもな材料となる日本の違いが見れて面白いです。
 また、次に書く石仏のことを考えるとこの台座上の仏像も石仏の可能性は高く、建物内の主尊仏が木や漆喰などで作られることが多い日本との違いがより際立ちます。







●石造如来立像(宝物第43号)
 この仏像は高麗時代に萬福寺が創始された時に作られたもので、岩に仏像なの立っている作品です。仏像の背部には体から発光している様子を表した光背が彫刻されていますが、うえがの一部は欠損していますす。頭部の輪郭ははっきりしており、巻髪は簡略に表現されています。顔は温和で慈愛に満ちており微笑みを浮かべ、まるで生きているようです。肩から柔らかに流れる衣装とスムーズな曲線を描く体つきとよく似合い、自然体でありながら優雅な雰囲気を醸し出しています。後面には仏の立ち姿が線刻されています。








🇰🇷韓国の仏教文化と石🇰🇷
 韓国の仏教文化には日本より多く石を利用しています。
 たとえば、日本では塔は木造の建造物を好んでつくるのにたいして韓国では、石塔でそれを表したりしています。また仏像でもその堂の主尊となるのは、日本では木造仏であるのに対して韓国では石造台座に見られるように大規模な建造物の中心仏として石仏が用いられることもあったようです。
 萬福寺趾は、日韓の仏教文化のちょっとした違いも教えてくれます。


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152.土産も有るかも!? ソウルメイン宮通りと東の仏教通り(月刊「祭」2019.8月7号)

2019-08-07 11:07:30 | コリア、外国
●ソウルのメインストリートは宮通り!?
ソウルのメイン通りと言えば、光化門(カンファムン・광화문)、景福宮(キョンボックン・경복궁)などの世宗大路(セジョンテロ・세정대로 )を思い浮かべます。地下鉄光化門駅のギャラリーに展示されていた1550年に描かれた備辺司契会図(비병사계회도・ピビョンサゲフェド・비변사계회도)を見ると既に門前の大通りができていたことがわかります。

名だたる光化門、景福宮を北にしてその南に大通りができています。通りの両側には名だたる大企業が並び、その中央線にハングルを考えた世宗大王、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・イムジンウェラン・임진왜란 、丁酉再乱・チョンユジェラン・정유재란)で日本軍と戦った李舜臣という二大英雄を軸線に置き威容を示しています。南に行くと徳寿宮(トクスグン・덕수궁)や南大門があります。
言わば、ソウル、朝鮮の王の宮通りともいえる様相です。
この通りの歴史は語ると長くなりそうなので、下の写真との掲載で省略します。

↑光化門の奥には景福宮があります。14世紀李氏朝鮮時代より建てられたが、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・イムジンウェラン・임진왜란 、丁酉再乱・チョンユジェラン・정유재란)や韓国併合による破壊を通じて再建移築を繰り返しています。今、復元作業の最中だそうです。


世宗大王像 セジョン大路・세종대로の名前の元になった王。世宗王(1397-1450)は、訓民正音つまりハングルを制定した王として知られています。像の建立は2009年。






李舜臣像。 李舜臣は文禄・慶長の役(壬辰倭乱・イムジンウェラン・임진왜란 、丁酉再乱・チョンユジェラン・정유재란)で朝鮮水軍を率いて日本軍と対峙しました。




●そして東の通りは仏教通り!?
・郵政総局の通り
先述の世宗大路が宮通りに対して、仏教通りといる通りもありました。それが世宗大路の東側にある郵政局路(ウジョングクロ・우정국로)です。漢字を見たら分かるようにこの地で、郵政総局が1882年に設置されたことにより、この道路も名前が付けられたようです(同所案内板による)。

郵政総局だった建物。創設後間も無く甲申政変によってしばらく機能は停止したそうです。後には教育期間などに使用されたと案内板に書かれていました。

・大韓仏教総本山曹渓寺
この郵政総局が仏教通りともいえる様相を呈しているのは、曹渓寺(チョゲサ・조계사)があるからでしょう。この寺は案内板によると、覚皇寺を1937年に移転し、1941年に太古寺と改名たそうです。大戦後の1954年に仏教浄化運動を経て大韓仏教曹渓宗の中心寺院として曹渓寺と名前を改めました。
下の四天王門の写真の扁額に「大韓仏教総本山曹渓寺」と名乗るように、韓国首都中心部にあるまさに中心となっています。
盂蘭盆が近いからか、形や色も様々な提灯で飾られていました。韓国はどこの寺院でもこのような提灯をたくさん飾る風習が見られます。このような風習が巨大化したものが韓国では燃燈会(연등회・ヨントゥンフェ)となり、日本ではキリコねぶた灯篭流しに現れ、タイにも同様の風習があると聞きましたし、インドや中国にもありそうです。






このように綺麗にライトアップされていたので、観光客や外国の方もたくさんいらっしゃいました。その一方で大雄殿、つまり本堂では信者の方が熱心に頭を下げていらっしゃいました。そして、韓国の寺院に行くとよく感じることですが、圧倒的に女性の割合が多かったです。

下の写真をクリックすると、曹渓寺への道のりが分かります。



・曹渓寺近くに立ち並ぶ店
曹渓寺近くの通り沿いに目を向けてみると、有る特徴が浮かんできます。殆どが仏教に関係した店でした。写真と一緒に見ていきましょう。













仏教関係の店が立ち並んでいますね。今回管理人は夜に訪れたので、店には入っていませんが、こういう店にはお土産になる小物が多いものです。是非、メイン通りの少し東側、ミョンドンの少し西側にも寄ってみてください。
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151.花道も流川もいない!?韓国語版スラムダンクに見る儒教(月刊「祭」2019.8月6号)

2019-08-06 08:31:16 | コリア、外国
日本のアニメや漫画は世界中で人気で、韓国も例外ではありません。しかし、国が違えば言葉も文化も違います。その翻訳の仕方に韓国の儒教文化が見えてきました。スラムダンクの最終巻から見ていきましょう。

桜木花道も流川楓もいないスラムダンク
まずは登場人物です。
プクサン高校 漢字で書いたら北山高校? 湘北ではなくなっています。
・カンペコ
赤い髪のパワーフォワード。一年生。高校生からバスケを始める。チェソヨンに一目惚れ。

・ソテウン
一年生のスーパールーキー。寡黙だが、極度の負けず嫌い。スモールフォワード

・チェチス
ゴリラ顔のキャプテン。バスケにかける情熱はすさまじいものがある。

・チェソヨン
チェチスの妹。ソテウンにゾッコン。夏の大会以後はマネージャーになる。

・ソンテソプ
イハナにゾッコンの2年生。スピード命のポイントガード

・チョンテマン
中学MVPのシューティングガード。一時期グレてたけど、再びバスケ部に戻る。

・イハナ
2年生のマネージャー。

サンワン(工業?)高校 漢字で書くと山王!?
・シンヒョンチル
元ガードの全国トップクラスのセンター。ゴリラを丸くした感じ。3年

・イミョンホン
キャプテンで、冷静沈着。語尾にいろんな言葉を使う。3年

・チョンウソン
強い相手だと燃える天才フォワード。2年生。張り合いがないと集中力を切らす場面も。



桜木花道・カンペコの言葉遣い
誰が誰だか分かったでしょうか。
一番上だけ答えをいうと、カンペコは桜木花道ですね。
花道は元ヤンの単純王で、マネージャーと晴子さんには敬語を使いますが、他には一切敬語を使いません。ある時はマネージャーのアヤコさんに「なんで私に敬語で安西先生には敬語じゃないの?」と突っ込まれる始末。こんなシーンもありました。背中を痛めて試合に出るのを咎められた花道・カンペコが、安西先生に話すシーンです。

(安西先生のアゴをビーとのばす。)
オヤジ。おまえの栄光の時代はいつだよ?
日本代表の時か?
オレは今だよ。

こんな感じだったはずです。

では、韓国語版ではどうでしょうか。

영감님의영강의 시대는 언제였죠

ヨンガンニムエ ヨンガンシデヌン オンジェヨッチョ?
국가대표였을 때였나?
クッカデピョ テヨンナ
난 지금입니다.
ナンチグムイムニダ


영감님ヨンガンニム
先生を呼ぶ場合、先生の韓国語読み선생ソンセンとなります。そして、儒教の国らしく様に該当する님ニムをつけます。ですが、カンペコ(花道)はそれは使いません。年配の男性の呼称の영감ヨンガンを使います。ですが、やっぱり敬称のニムを使っています。ではニムを外したらいいのかというとそういうわけでもなく、そうなると花道でもキツいニュアンスになるということでしょうか。

요ヨ
요ヨは口語の「です、ます」に該当します。韓国では子どもが両親に対しても요ヨを使います。これも、花道くらいワンパクでも、ヨを安西先生に使わないのは不自然な感じがするのでしょう。

입니다イムニダ
입니다イムニダは、文章にも使える-ですを表します。요ヨより改まった表現になるので、カンペコ(花道)が使っていることに少し驚きました。

敬語のハードル
韓国では儒教文化が今も大切にされています。なので、目上の人に対して敬語を使う範囲も広くなりました。かといって、先生や親とも他人行儀というわけでもないので、直訳すると「花道が敬語使ってる」ということもあるみたいです。








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148.日韓神話比較の面白さ‐ピョンピョン逃げる編‐(月刊「祭」2019.8月3号)

2019-08-03 02:13:33 | コリア、外国

●嗚呼、天につばはくこと無きように
 氏神の八幡さん、隣のダイニッタン(大日如来)、長治さん、ご先祖さんをはじめ、管理人は日本の祭のことを調べているだけあって、日本の神仏を敬っています。ここで勘違いなきようにしたいのは、(神仏を敬う、国を愛する)ことは、(隣の国を誹謗中傷する)ではないということです。「政(まつりごと)の悪しき常套手段として、差別する対象をつくり、為政者への不満をそらす。」に乗っかると、我らが神さんの天下りされた地を冒涜することになります。
 例えば素戔嗚尊は、新羅の曽之茂利(そしもり)の山に天下りされたと「日本書紀」の一書にあり、天日矛は新羅の王子の子で、その何代か後の直系の子孫が八幡さん・応神天皇になります。「政(まつりごと)」の悪しき常套手段にのっかって、横の国を誹謗中傷することは、氏神さんに唾はくようなものだと肝に銘じたいものです。


慶尚北道海印寺 一説によるとこのあたりが新羅の曽之茂利と言われています。

扶余のピョンピョン(参考文献 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(中公新書)1992)

 『後漢書』東夷列伝には、下のような話が残っています。
 北夷索離国の王が出ている間に侍女が身ごもった。王はこれを殺そうとしたが、侍女が言うには、天上の大きな気が来臨したから身ごもったという。
 生まれた男の子を豚の檻に入れたら、豚はこれを口でふき、馬小屋でも似たようなことが起きた。王は是を神として東明と名付けた。しかし、東明の弓矢の腕を見て、またこれを殺そうとした。東明は逃げ行く。
 そして、次のようなことが起きます。

 水にいたり、弓をもって水を撃てば、魚鼈(ぎょべつ・魚や亀)みな水上にあつまり浮き、東明は之に乗りて渡ることを得、因りて夫余に至りて王となる。
 魚や亀が集まって、東明はを渡ります。『北史』のほうは「掩滞水」とあり、「掩」が覆う、滞水が滞るという意味から、湖となるのでしょうか。そして、王となります。『後漢書』はこれでおわりですが、『北史』ではやがて東明は百済の王となると書いています。

出雲のピョンピョン

 大国主は、80人の兄弟の荷物を持って従者として一番遅れて旅をしていました。そこに、皮がむけただれた兎が寝ています。兎の話を聞くとこうです。
「シ於岐(おき)の島に渡ろうとしたが、方法がなかった。だから海の鮫に、
『我ら兎と鮫の一族どっちが多いか比べよう。おきの島からこっちにむかってならんでごらん。私が渡って数えるから。』
ともちかけた。ピョンピョンとわたって、
『だまされたなー』とわらったら皮をむかれた。
 ないていたら、80人の兄神・八十神(やそがみ)が、海水を浴びて、風にあたるといいよっといわれてそのとおりしたら痛い痛い。」

 大国主は河口の真水で体を洗って蒲の葉を敷いてその上にねたらよくなると教え、その通りにすると傷がいえました。兎は言いました。
 「八上比売(ひめ)のハートは君のものさ」
 で、そのとおりになりました。
 フラれた80人の兄神・八十神は残念大国主を殺そうとしますが、失敗に終わります。

 

・水を渡るのは扶余は後に王となる東明、出雲は大国主が後に王となることを予言する兎
・扶余・東明は湖の魚鼈を渡り、出雲・兎は海の鮫を渡る。
・扶余・東明は牢に入れられ、出雲・大国主は従者となる。
・扶余・東明の敵は父、出雲・大国主の敵は兄
・扶余・東明は渡る前に命を狙われる。出雲大国主は渡った後に命を狙われる。

似ている
・水を水の生き物をつかって渡る。
・家族の目上の男に不遇の目にあわされ、命を狙われる。
・やがて一国の王となる。

後漢書の成立が記紀神話より早いことを考えると、出雲神話の源流も朝鮮半島に求めることができそうに思えます。


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110.韓国の長方形座布団(月刊「祭」2019.6月20号)

2019-06-19 20:27:24 | コリア、外国

●信心深さ
韓国の寺院に行って感じるのはその信心の深さです。日本のように仏教徒が90%をこえることもなく、30%くらいですが、その信心は強いように感じます。
管理人は一人旅で異国に来た開放的な気分もあり、上着のアロハシャツを脱いでランニングシャツで寺域内を歩いていたところ、優しく諭されました。
その一方で、節約のために昨日のご飯の残りで作っていただいたおにぎりをたべようと、寺内の売店で海苔(約40円)だけ買うと、自家製のキムチやおにぎり、デザートの饅頭まで頂くということもありました。正直儲けよりいただいた食材のほうが高くついているはずなのに、、と優しい国民性に触れることもできました。



↓慶尚道海印寺 世界遺産の八萬大蔵経を、安置する経蔵


また、釜山市梵魚寺のように昼食を無料で提供していただける寺院もあります。寺院がセーフティネットになっているともいえるかもしれません。


●長方形の座布団
この写真を見てください。長方形の座布団です。

この形のものが韓国ではよく使われます。
その理由は
リンク先の55秒あたりのところに答えがあります。



信者の方達は立っては膝をつき、礼拝するという行為をなん度も繰り返します。なので、長方形の座布団だと膝あたりまでカバーできるので礼拝しやすいのです。

●韓国の宗教への帰属意識
韓国は檀家制度はなく、また、小単位の地域ごとに寺院があるというわけでもなさそうでした。なので、町内会の延長で寺の行事に参加するということもあまり見られませんでした。
なので、土俗的な仏教というよりも、より、教義に即したものを求めるという一面が日本よりも強いようです。よって、ひたすらに仏への帰依を表現する手段として何回も膝をついての礼拝が残るのでしょう。その習慣が長方形座布団を作ったといえそうです。
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103.韓国寺院の本堂・大雄殿仏と祭(月刊「祭」2019.6月13号)

2019-06-15 18:08:22 | コリア、外国
韓国の仏教寺院に行くと、その雰囲気が日本と非常に似ており、また日本でお馴染みの仏様がいらっしゃることに親近感を覚えます。
ですが、やはり、異なる言語で異なる政治体制の元=異なる文化の元育まれた信仰や寺院、そして祭は日本とは異なるものに発展していました。

●新羅や高句麗、高麗においては仏教は手厚く保護されてきました。ところが李氏朝鮮時代になると、儒教が国教となり廃仏策が吹き荒れました。

第3代 太宗 七年(1407) 宗派を7つ(曹渓宗・天台宗・摠南宗・華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗)に統合します。

第4代 世宗 六年(1424)さらに7つの宗派を禅、教の2つに統合しました。
曹渓宗・天台宗・摠南宗→禅宗
華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗→教宗

ちなみに世宗は訓民正音=ハングルを作った人物であり、朝鮮半島の人々にとっては文化的、精神的な拠り所となっています。

朝鮮の廃仏策の根拠となったのは、その迷信性でした。逆に言えば、寺院として政府の弾圧から生き残るためには、迷信性や御利益を求めるものより必要だったのは、その学問としての性質や、原理主義的な信仰だったと言えます。

●韓国の大雄殿仏・(本堂)
仏教の教理に従っての仏教は、伽藍配置にも忠実に現れてきます。例えば日本では観音菩薩や閻魔大王、そして神社においては護法のための善神が本堂仏(神)となります。韓国の寺院では最近では観音宗などという教団があるのですが、基本は如来が大雄殿にきます。しかも、「東方薬師」や「西国阿弥陀」なども大雄殿仏となることはほとんどありません。少なくとも管理人は見たことありません。

↑南原市実相寺、阿弥陀如来をまつる極楽殿

↑南原市実相寺、十王がいる冥府殿

大雄殿仏となるのは、教宗だと毘盧舎那仏(奈良の東大寺=大花厳寺でもまつられています。)、禅宗だと釈迦牟尼仏が多いようです。
釜山市 梵魚寺の大雄殿


南原市 実相寺の普光殿(本堂)

実相寺伽藍配置図


●韓国の法会
韓国の法会も盛大なものになります。地域で法会を盛り上げるというよりも、信者で盛り上げるという要素が強いように見えることが多いです。
近所で祭を盛り上げるというわけではないので、盛り上がったとしても、飲酒もなく日本の祭のような混沌としたものにはなかなかなりません。
そして、メインイベントは有名な僧による講話となります。




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 あとがき ―日本における韓国文化に対する姿勢を振り返って―(韓国寺院旅行記)

2019-01-14 11:39:00 | コリア、外国

この旅は、私にとっては一生忘れられない旅になりました。日本では、韓流芸能批判騒動真最中での旅行だったので、現地での冷遇を心配しましたが、全くの杞憂でした。韓国の人たちは本当に親切で、本当に感謝の言葉もありません。
 そのような親切に甘えながら、慶州、海印寺、高霊、釜山、金海を歩き回りました。少しかたむいた瓦、少し違う人たち、少し低い床、少し違うファッション、少し違う道路の風景。学生のころに外国の一人旅をしたことはありません。ですが、地図を片手に道を訪ねながら歩き、見たことのない景色が目の前に広がるたびに、熱いたぎりが戻ってくるようでした。 
その旅のなかで、荷物を預かってもらいました。キムチやカップ麺、まんじゅうをわけてもらいました。車で送ってもらいました。両替ができない時はバス代をまけてもらいました。ささやかな親切にふれる度に、この国が好きになり、また来たいという思いが強くなりました。


 驚いたのは、日本語を話す若い人が多いことです。昨今の韓流芸能の席巻の理由は、円高や会社の戦略だけではありません。その根幹には日本語力があります。
 一方の日本においても、「外来語」の教育があります。ですが、カルテやカードという外来語を教えても、キムチなどを外来語として紹介するように教科書ではなっていないようです。隣の国の言葉や文化に無関心なまま、韓国芸能だけをあれこれ言うのでは、進歩はありえません。韓国の人たちがしているように、隣国の言葉や文化をまず学ぶことから全ては始まるのではないでしょうか。

 とにもかくにも、今思い出しても胸が熱くなる旅になりましたが、拙文ゆえにそのたぎりの半分も伝わっていないかもしれませんが、ひとまずの旅行記の締めくくりにしたいと思います。
 

謝辞
 この旅は、私一人の力でなしえたものではありません。以下の方々に感謝申し上げます。
・この旅を快く許可してくださった職場の方々、同居の父母。
・右も左も分からぬ私に、親切に接してくださった、現地の方々。
 食事を頂いたり、荷物を預かってくれたり、道案内や車での送り迎えをしてくださった方もいました。
―特に、慶州市在住の済さん、海印寺バス停横の売店の方、高霊市
coffee story オーナー 金善英さん、金海市テウォンドゥリン代表 イ・ジョンデさん、釜山大学卒業生 Won-Junさん、
 本当に本当にありがとうございました。


2011年 本文を作成しgeocitiesのウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』 掲載、2019年本ブログに復刻移設

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