--慶州、韓国の四天王寺式、薬師寺式、石窟庵の伽藍配置、と韓国、日本の王陵について--
韓国の仏塔について
仏塔と言うと、日本では法隆寺の五重塔や京都駅から見える五重塔など、人によって思い浮かべる塔は違いますが、木造の塔ということは一致しているかと思います。ところが、韓国においての仏塔は、必ずしも木造の建造物ではなく、超大型の石灯篭のような石塔が一般的になっています(写真29)。
写真29
仏国寺の西側の三層石塔と東側の多宝塔。本堂である大雄殿を北側要の位置におき、双塔が並び立つ薬師寺式の伽藍配置
私が訪ねた慶州においても、東西両塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置のルーツともいえる、仏国寺も双方石塔(写真29)でした。また、仏像も石窟庵のように石造のものが多く、韓国の方がやや「石の文化」が重宝されている感じがしました。この、石窟庵、石塔双方ともに、新羅の時代のもので、日本と対立していた新羅の石の文化はやや浸透するのが遅れたのでしょうか。
新羅式伽藍配置、百済式伽藍配置
前述の通り、東西に仏塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置がなされている仏国寺は、新羅の支配下において作られたものです。薬師寺式伽藍配置は韓国においては新羅の時代のものが多く、新羅式伽藍配置ともいえるでしょう。
一方の同じく皇龍寺は新羅の時代のものでありながら、塔を中心にした四天王寺式のルーツともいえる伽藍配置となっております(写真30)。皇龍寺の伽藍配置は中金堂の他に東西の金堂を残しており、その点は違いますが、塔を中心にすえる配置は百済の寺院に多いそうです。
なお、皇龍寺はもとは黄龍寺(高霊黄龍寺と同じ名前になります。)とよばれていました。その理由は、宮殿造営中に黄龍があらわれたので、そこを寺院としたことによるといいます。「黄」龍は中心を意味する架空の動物であり、それを象徴するのが、伽藍の中心に位置する木造の塔だったといえるでしょう。
写真30 皇龍寺の伽藍配置図と仏塔跡から金堂跡を眺望した写真。
背後の神体山とみられるものが気になるが、遺跡らしいものを探すことができなかった。
ストゥーパと首露王稜
このような塔を中心にすえる伽藍配置のルーツは、古代インドの寺院にあります。古代インドの仏教においては偶像崇拝は禁止され、崇拝の対象は釈迦のお骨であり、そのありかをストゥーパとしていました。ストゥーパは、鳥居の原型ともされるトーラナという東西南北の門の中心に位置し、ドーム状の形をしています(写真31)。言い換えれば、元来のストゥーパとは、門の先にあるドーム状の形をした聖人の墓といえるでしょう。
では、韓国の聖人たる王の墓、王陵はどんな形をしているのでしょうか。そこで、韓国でも最古の王稜の一つ、金官駕洛の始祖である首露王の墓を見てみます。これを見るとまさしく、ストゥーパを思わせるドーム型の形をしています(写真32)。
だからといって、これを即ストゥーパと言うのはあまりよくありませんよね。ですが、これらの王稜がやはりストゥーパの一種ではないかという思いをもたせるのは、首露王の妃の出自にあります。というのは、首露王の妃はインドの王家の出身とされ、首露王妃稜もドーム型をしています(写真32)。これらのことを考えると、韓国や日本の円墳は、ストゥーパの一種と考えることができるのかもしれません。
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石窟庵と前方後円墳
仏教において偶像崇拝が禁ぜられたとはいえ、仏教は元々「神の掟」というより、「哲学」や「考え方」に近い宗教です。民衆に教えを理解させるための方便となるならば、とばかりにお釈迦様の像が広まり、様々な仏が派生しました。やがて、その仏像がストゥーパに取って代わります。日本や韓国においては、塔の下や、ストゥーパを現す宝珠の下に仏像が作られるようになります。つまりは、墓であるストゥーパと仏像があるお堂は、ある意味同じものという視点が生まれます。
そこで、慶州の石窟庵を上から見ると、前方後円の形になっており、後ろのドーム型のところに中心仏が配され、ストゥーパの変形ともいうべき状態になってます。そして、前の方形のところは、拝殿の役割をなしており、ストゥーパに拝殿がついた形のものとなっております(写真33)。
写真32 左から、石窟庵内部の図、ドーム型の石窟庵主堂内部、石窟庵外景。前方後円墳を思わせる形のお堂になっている。
石窟庵ができた新羅の時代は古墳時代より後のことなのですが、その以前からこのような形の「ストゥーパ」が韓国では多数つくられていたのではないでしょうか。日本に多数分布する前方後円墳もまた、このようなストゥーパを元に作られているのではないかと、思い、今後の研究テーマの一つにしたいと考えております。
2011年ジオシティーズウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。