月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

6 王陵はストゥーパか??

2019-01-14 11:36:03 | コリア、外国



--慶州、韓国の四天王寺式、薬師寺式、石窟庵の伽藍配置、と韓国、日本の王陵について--  

韓国の仏塔について
 仏塔と言うと、日本では法隆寺の五重塔や京都駅から見える五重塔など、人によって思い浮かべる塔は違いますが、木造の塔ということは一致しているかと思います。ところが、韓国においての仏塔は、必ずしも木造の建造物ではなく、超大型の石灯篭のような石塔が一般的になっています(写真29
 
写真29
仏国寺の西側の三層石塔と東側の多宝塔。本堂である大雄殿を北側要の位置におき、双塔が並び立つ薬師寺式の伽藍配置

 

 私が訪ねた慶州においても、東西両塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置のルーツともいえる、仏国寺も双方石塔(写真29でした。また、仏像も石窟庵のように石造のものが多く、韓国の方がやや「石の文化」が重宝されている感じがしました。この、石窟庵、石塔双方ともに、新羅の時代のもので、日本と対立していた新羅の石の文化はやや浸透するのが遅れたのでしょうか。

 

新羅式伽藍配置、百済式伽藍配置
 前述の通り、東西に仏塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置がなされている仏国寺は、新羅の支配下において作られたものです。薬師寺式伽藍配置は韓国においては新羅の時代のものが多く、新羅式伽藍配置ともいえるでしょう。

 一方の同じく皇龍寺は新羅の時代のものでありながら、塔を中心にした四天王寺式のルーツともいえる伽藍配置となっております(写真30。皇龍寺の伽藍配置は中金堂の他に東西の金堂を残しており、その点は違いますが、塔を中心にすえる配置は百済の寺院に多いそうです。

なお、皇龍寺はもとは黄龍寺(高霊黄龍寺と同じ名前になります。)とよばれていました。その理由は、宮殿造営中に黄龍があらわれたので、そこを寺院としたことによるといいます。「黄」龍は中心を意味する架空の動物であり、それを象徴するのが、伽藍の中心に位置する木造の塔だったといえるでしょう。


 
写真30 皇龍寺の伽藍配置図と仏塔跡から金堂跡を眺望した写真。 
              背後の神体山とみられるものが気になるが、遺跡らしいものを探すことができなかった。

 

ストゥーパと首露王稜

 このような塔を中心にすえる伽藍配置のルーツは、古代インドの寺院にあります。古代インドの仏教においては偶像崇拝は禁止され、崇拝の対象は釈迦のお骨であり、そのありかをストゥーパとしていました。ストゥーパは、鳥居の原型ともされるトーラナという東西南北の門の中心に位置し、ドーム状の形をしています(写真31。言い換えれば、元来のストゥーパとは、門の先にあるドーム状の形をした聖人の墓といえるでしょう。
 では、韓国の聖人たる王の墓、王陵はどんな形をしているのでしょうか。そこで、韓国でも最古の王稜の一つ、金官駕洛の始祖である首露王の墓を見てみます。これを見るとまさしく、ストゥーパを思わせるドーム型の形をしています
(写真32
 だからといって、これを即ストゥーパと言うのはあまりよくありませんよね。ですが、これらの王稜がやはりストゥーパの一種ではないかという思いをもたせるのは、首露王の妃の出自にあります。というのは、首露王の妃はインドの王家の出身とされ、首露王妃稜もドーム型をしています
(写真32。これらのことを考えると、韓国や日本の円墳は、ストゥーパの一種と考えることができるのかもしれません。


写真31 インドのサンチ仏塔。トーラナと呼ばれる門が四方にあり、その中心に仏塔が経つ。


写真32 上がインドから来たとされる首王露王妃陵 左下はそのさいに船に乗せていたとされる婆娑石塔 下が首露王陵 インドの仏塔と似た形の円墳。 

 

石窟庵と前方後円墳

  仏教において偶像崇拝が禁ぜられたとはいえ、仏教は元々「神の掟」というより、「哲学」や「考え方」に近い宗教です。民衆に教えを理解させるための方便となるならば、とばかりにお釈迦様の像が広まり、様々な仏が派生しました。やがて、その仏像がストゥーパに取って代わります。日本や韓国においては、塔の下や、ストゥーパを現す宝珠の下に仏像が作られるようになります。つまりは、墓であるストゥーパと仏像があるお堂は、ある意味同じものという視点が生まれます。

そこで、慶州の石窟庵を上から見ると、前方後円の形になっており、後ろのドーム型のところに中心仏が配され、ストゥーパの変形ともいうべき状態になってます。そして、前の方形のところは、拝殿の役割をなしており、ストゥーパに拝殿がついた形のものとなっております(写真33

 写真32 左から、石窟庵内部の図、ドーム型の石窟庵主堂内部、石窟庵外景。前方後円墳を思わせる形のお堂になっている。

石窟庵ができた新羅の時代は古墳時代より後のことなのですが、その以前からこのような形の「ストゥーパ」が韓国では多数つくられていたのではないでしょうか。日本に多数分布する前方後円墳もまた、このようなストゥーパを元に作られているのではないかと、思い、今後の研究テーマの一つにしたいと考えております。

2011年ジオシティーズウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。

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5 高霊、釜山と日本の寺院神 ―山の神と川の神―

2019-01-14 11:34:35 | コリア、外国

 

 日本の寺院には神仏習合の歴史があり、神仏分離令がしかれた後も、寺院に神祇がまつられたり、神社内に仏塔が残っていたりします。浄土寺も北側要の位置に八幡宮を配置するなど、一見すると神社ともいえそうな配置がなされています(写真26。他にも、比叡山延暦寺のように、比叡山には麓の日吉大社の祭神である大山咋神がいたとされることなど、元々山の神の居場所に寺院が創建されたという伝説はたくさん残っています。

 
写真26 浄土寺境内の八幡宮。薬師阿弥陀両如来を東西に見渡せる、北側要の位置に鎮座する
 

 一方の韓国でも、寺院内に寺院創立前からいたとされる山の神が祭られたり、伝説に残っ
ていたりしました。海印寺の局司壇に祭られている伽?山の局司壇に祭られる山ノ神、梵魚寺にのこる、山頂の鯉の伝説や山霊閣などです
(写真27。そして、注目したいのは、高霊黄龍寺の小川にある祠です(写真28。ご奉仕されているお坊さんの方に聞いたところ、この寺の山の神だそうです。川面に向いているところから、川を渡る性質を持つと思われ、加古川を越えると見立てられた浄土寺の迎講を想起させます。
 


 写真27 上が魚沼寺の北端にある山霊閣、下が海印寺入り口そばにある局司檀


 写真28 上が黄龍寺全景、山の麓を流れる小川をむいて岸に立てられた
     「山神」を祭るお堂

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4 韓国、日本、阿弥陀如来像および、ネパール来迎印像

2019-01-14 11:34:04 | コリア、外国

 

 次は韓国の阿弥陀如来像についてです。
   阿弥陀如来を含む多くの仏像は、色がはげないように上塗りを繰り返されており、髪は青くなっています。
   そして、何よりも目をひくのが、阿弥陀如来の印相(指の形)です。浄土寺浄土堂をはじめとする日本の阿弥陀如意来が親指といずれかの指で輪を作るのに対し、慶州仏国寺極楽殿、伽?山海印寺冥府殿などのものは、指と指の間が離れていました
(写真22。さらに、高霊市黄龍寺の阿弥陀如来は、普通に手を開いたものでした(写真23

 


 写真22 海印寺冥府殿の阿弥陀如来 写真では分かりづらいが、親指と中指は少し離れている。


 写真23 高霊、黄龍寺の阿弥陀如来。来迎印を結んでいない。

そこで、ネパールの仏像、神像を見ると、阿弥陀如来は仏舎利を持っています(写真24。ネパールで、親指と他の指で輪を作る来迎印相は文殊菩薩など、如来と比べて華やかな衣装を纏う尊像に多いようです(写真25


 写真24 ネパールの阿弥陀如来(国立民族学博物館) 仏舎利を両手で持ち、来迎印相を結んでいない。


写真25 国立民族学博物館に展示されているネパールの文殊菩薩。左手は来迎印を結んでいる。

  では、なぜ、日本において、阿弥陀如来に来迎印が普及したのでしょうか。それは、『観無量寿経』の普及度によるものでしょう。阿弥陀如来の来迎印は親指と何指をつけるか、その手をどうむけるかで、九段階の往生、九品を表します。そのことを説いている『観無量寿経』は、九品中正という制度をもちいた漢代の儒教的な影響をうけたものとして日本に入ってきました。その『観無量寿経』を「阿弥陀三経」の一として重要視したゆえに、日本においては阿弥陀の来迎印が普及したといえそうです。

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2 韓国寺院習俗

2019-01-14 10:15:21 | コリア、外国



 
韓国のお坊さんは日本のそれと似ているようで随分違うようです。
 一目で分かるのは、その服装。上下同じ色で、麻か何かの生地。ズボンはニッカポッカのような形のものを履いています。正装時?はそれの上に長い上着を着て袈裟をかけます。(写真2)また、日本では丸刈りにしていない僧侶がたくさんみられますが、韓国では丸刈りも徹底されているようにう見受けられました。
 そして、その外見以上にその習俗に違いがみられます。韓国の僧侶は、日本とは違い、今も肉食妻帯は強く禁じられているそうです。この違いは、鎌倉期に肉食妻帯をした親鸞という僧侶が活躍したかしないかに端を発するのかもしれません

img1.jpg 
写真2 普段着のお坊さん。麦藁帽子は聖俗関わらずご年配の男性や工事関係者が好んでかぶっていました 

 

信者
 ここでは、信者と書いていますが、寺院や王凌をとりまく人々の生活について書きたいと思います。
 まずは、寺院を訪れる熱心な信者の方々。これは、日本と変わらずご年配の方が多いようです。
 興味深いのは、堂内の本尊への拝礼の仕方です。本尊に正対せず斜めから起立土下座(五体投地)を三回繰り返し拝礼します。これは本尊に正対するのが失礼にあたるという理由だそうで、王凌への拝礼も土下座こそ見られませんでしたが、横、もしくは斜めからの拝礼でした。(写真3)

img2.jpg
写真3 魚沼寺観音殿にて。五体投地で拝礼する信者が見える。

 一方の若者の観光客は、日本と同じく寺院で目に付くのは、女性二人、もしくは一人の旅行者が多いことでした。これは、決して私が若い女性ばかり目で追っていたという理由だけではないと思います(笑)。
 そして、興味深かったのが、「テンプルステイ」という習慣です。これは、写真ではわかりにくいのですが、おおよそ、8疊ほどの部屋が細長い建物に並んでいて、その宿坊に一般の方が寝泊りするという休日を過ごす方が多いそうです(写真4)。幼い子どもを連れたご夫婦や、学生さんの一人旅で利用されていました。学生さんは、お坊さんがはくようなズボンを履いていました。
 上のテンプルステイとも関係するのですが、韓国のいくつかの寺院では無料の精進料理を参拝客に振舞っているようでした。先の写真の深源寺でも、宿泊中の学生さんに無料の精進料理があるのでどうかと誘われました。残念ながら、時間の都合上ご一緒はできませんでしたが、釜山市の梵魚寺では、大きな食堂で頂きました。配膳、食器の返却、洗浄はセルフサービスです。(写真5)


写真4 高霊、深源寺の宿坊の側面。前面には部屋が何部屋も並び、テンプルステイなどに利用される。


写真5 魚沼寺で、信者に無料で振舞われる精進料理。セルフサービス


 そして、浄土寺の法華山一乗寺で見られる賽の河原のような石積みを仏国寺、海印寺で見ました。いづれも寺のはずれにあることを考えると、この世とあの世の境界を表しているのでしょうか(写真6)。
 
写真6 法華山一乗寺を思わせる賽の河原を思わせる石積み。左は仏国寺羅漢殿、右は海印寺の参詣道 右下は加西市法華山一乗寺。いずれも寺のはずれにこういった石積みがつくられていた。

2011年ジオシティーズウェブページ「韓国寺院旅行記」『祭と民俗の旅』に掲載。
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1 2011夏 韓国旅行 行くまでの経緯と行程概略

2019-01-14 10:14:39 | コリア、外国

 
行くまでの経緯 1
 祭り好きが乗じて、京都の祇園祭をテーマに卒業、修士論文を書き、祇園社の祭神、牛頭天王・素戔鳴尊に興味を持ち、下の『日本書紀』の記述に出会いました。
 「素戔鳴尊、其の子五十猛神を師ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します」
 素戔鳴尊がいる「曾尸茂梨」とはどこなのか。私の頭に常に残りました。


行くまでの経緯 2
 
その疑問に答えがでないまま、書き上げたのが浄土寺に関する二つの拙稿・「(論文?)浄土寺伽藍配置私考(『小野史談 5152号 それぞれ20082009年』)」、「(研究ノート)東大寺播磨別所・浄土寺伽藍配置考 -重源の迎講との関連-『京都民俗 27号 2010年』」です。
 内容は耳にタコができるかもしれませんが、①~③の内容です。①浄土寺境内の八幡宮は、東大寺復興のスポンサー源氏への敬意を表すもの。②古法華山を背面軸に配し、そこに日が沈む旧暦
315日ごろに、迎講を行い、当麻寺のような山越え阿弥陀を表現する ③その際に、加古川は三途の川、古法華山は重源が訪ねたとされる宋の天台山・西の異国の浄土と見立てられている。 
 このような異国の浄土観と浄土寺の大仏様・天竺様という建築様式の垂木部分が韓国の民家と類似していることにも関心を持ちました
(写真1) 

行程概略 

 上の二つが韓国への憧憬の理由でした。そして、円高、閑職という熱い思いと、公私の条件整い、2011824日より30日(朝)まで、私は56日の韓国への旅を決意しました。

 行程の基本方針と目的は、曾尸茂梨とされる諸説の場所を巡ること、その中で、韓国の寺院習俗や伽藍配置から浄土寺との関係を見つけ出すことです。

訪れた寺院や王陵、遺跡は以下の通りです。

慶州市―芬皇寺、皇龍寺、瞻星台、仏国寺、石窟庵 伽?山、高霊周辺―海印寺、深源寺、法水寺址三重石塔、黄龍寺 釜山、金海-梵魚寺、三光寺、首露王稜、首露妃稜

 残念ながら研究上の大発見はありませんでした。

 それでもなお、今後の研究や人生において、大きな意味をもつ旅になりました。そこで、できるかぎり、小野市の浄土寺と照らし合わせながら、韓国の寺院のあれこれを紹介します。

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韓国寺院旅行記(ハングクサウォンニョヘンギ)

2019-01-14 10:11:55 | コリア、外国

韓国寺院旅行記(ハングクサウォンニョヘンギ)
-<できるだけ>浄土寺と照らし合わせつつ-

2011年8月24日から30日までの韓国珍道中。
時系列ではなく、テーマごとに分類してまとめてみました。
写真だけでもお楽しみください。

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82.ほとけさまの旅の果て(月刊「祭」2018.8)

2018-09-23 09:30:16 | コリア、外国
ようやく、遅れを取り戻しました。
九月発行の八月号です。
わけあって九月号は先に発行しているので、これで遅れは取り戻せます。
今号は、韓国の霊鷲山通度寺(영축산통도사・ヨンチュクサントンドサ)の伽藍配置についてです。

●上中下に分かれる伽藍
通度寺は上壇、中壇、下壇にその伽藍は分かれています。
それぞれの壇で中心的な仏様(仏舎利)が北側中心に位置し、南側に伽藍が広がっています。これは日本でもよく見られる配置です。




●下壇の伽藍配置
下壇は東西の建物が向かい合っております。
このような配置は日本でも小野市の浄土寺、加古川市の鶴林寺、加西市の酒見寺、一乗寺などに見られます。

↑兵庫県小野市浄土寺東方の薬師堂

↑兵庫県小野市浄土寺西方の浄土堂

↑兵庫県小野市浄土寺西方の浄土堂裏の日の入り
西日を背に受けて御来迎する様子が堂の内部ではあらわされている。


ところが下壇の伽藍配置は日本でよく見られるものとは大きな違いもあります。下壇も北方に中心仏を配置し、南側東西に向かうように、西方極楽浄土の阿弥陀如来と東方瑠璃光浄土の薬師如来を配置しています。しかし、西方極楽浄土阿弥陀如来の極楽宝殿は東に、東方瑠璃光浄土薬師如来の薬師宝殿は西と播州で見られるものとは逆に建っているのです。


↑東に位置し阿弥陀如来がもといた西側をみるように建つ極楽宝殿

↑西に位置し薬師如来がもといた東側をみるように建つ薬師殿

お坊さんに聞いたところ、東方薬師も西方阿弥陀も自らの故郷を、向いているからだそうです。通度寺の山号は霊鷲山でお釈迦さまが説法をされたところだといいます。この通度寺は悟りを開き仏徳を説く行き着いたところを表しているので、自分が来た道をほとけさまが見るという配置になっているのかもしれません。

●上壇の拝殿
上壇の大方廣殿は、実質拝殿のみの建物といえます。御本尊は建物内になく、蔀戸の向こうの仏舎利塔を拝むことになっています。リンク先1分頃



●編集後記
ようやく追いつきました。今年の夏も、韓国に行って来ました。旅行のたびにたくさんの方々にお世話になっております。
本記事は通度寺の僧侶龍潭玄機さまのご厚意により書くことができました。あらためて御礼申し上げます。
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74)韓国の仏輦(月刊「祭」2018.1)

2018-02-10 21:44:35 | コリア、外国

  昨年もなんとか韓国へ行きました。
 その目的は輦(연・ヨン)。韓国の辞典などを見ると、高貴な人を乗せたり、位牌や仏牌を乗せたりするものだとありました。
 形はまさしく、神輿そのものでしたが、韓国の固有宗教というよりは、仏教や仏教と習合した儒教のものという印象です。
 日本の神輿も鳳凰や擬宝珠があることを考えると、神仏習合、どちらかといえば、仏教のものというほうが自然といえそうです。

 

 とりあえず、ソウル(仁川)行きの飛行機を予約してから、どの寺に輦があるかを検索してみました。
 見れそうなものは慶尚道(釜山の近く)に多くあるようでした。

大慌てで、釜山(金海)行きのチケットをとり、ソウルはそのままキャンセルしました^_^;

 訪れたのは慶尚北道蔚珍郡佛影寺(ウルジン郡プリョン寺)、慶尚南道統営市安静寺(トンヨン市アンジョン寺)、釜山市梵魚寺(プサン市ポモ寺)です。


佛影寺


安静寺


梵魚寺

●梵魚寺金魚輦●
 そのうち古いもので見れたのは、佛影寺だけでした。しかも、安静寺ではもう輦はもうなくて、梵魚寺は修理中でした。そして、佛影寺は博物館そのものが閉鎖中だったのですが、特別に開けて見せてくださいました。勝手に公開するのは気が引けるので、ここでは写真を掲載できません。

 とはいえ、全く掲載できないのは、あまりにもあまりなので、こちらを

 この輦は、釜山市の梵魚寺駅の中にあった、梵魚寺関係の展示場に展示されていた「金魚輦」と呼ばれるものです。


↑棒端は龍のものが、多いようです。

 


↑螺鈿の細工。お日様が海の向こうから昇る絵のようです。海の向こうには「日本」があります。

 


 作られたのは最近で、南北統一を祈願して作られたものだそうです。
 南北の争いによって我が国は経済的に繁栄したことを考えると、少し複雑な気持ちになります。
 統一が平和のうちになされることを願ってやみません。

編集後記
かなり遅れての1月号です。でもこの記事を発行したのは、2月も半ば。。
 2月号3月号は3月にまとめて出す予定です。

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72.韓国仏教寺院文化⓪大雄殿仏 ①稲作 ②解(月刊「祭」」2017.10)

2017-08-19 14:07:21 | コリア、外国

 今年も夏に韓国へ行ってきました。
 今回は韓国の仏教寺院文化のついて見ていきます。


⓪大雄殿仏
日本でいうご本堂にあたるのが韓国の大雄殿です。日本の場合は、観音寺だと如来より下位である菩薩のお堂の方が本堂になったり、大きかったりとかがあります。ですが、曹渓宗はお釈迦様が大雄殿の本尊仏となり、華厳宗では毘盧遮那仏が本尊仏となることがほとんどで、日本のような如来と菩薩の逆転現象はほとんど見られません。

↑梵魚寺大雄殿

①稲作
 仏教寺院には米を納める習慣が残っていました。分かりやすいのが釜山市の梵魚寺です。
 写真のように信者の方が納めたお米がたくさんありました。
↑梵魚寺観音殿

慶尚南道統営市の安静寺では福田函という賽銭箱にあたるものが設置されていますが、これも修行している方たちに米をおさめるという意識があるように思います。仏教の発祥地であるインドと稲の原産地がかなり近いことを考えると韓国において仏教と稲作が近い関係になるのは無理もないことなのかもしれません。
↑安静寺羅漢殿

②解
 解脱橋と呼ばれる橋が 韓国には数多くあります。 寺域内に入る橋で、この橋を渡ることで解脱にいたるということでしょうか。
安静寺解脱橋
全羅道南原市実相寺にも、解脱橋はありました。
 川を渡ることで、あの世という解脱の世界に行くことを意味するのかもしれません。 下の写真は慶尚北道蔚珍郡の仏影寺のトイレにあった写真です。
韓国語でトイレは、化粧室の韓国語読みでファジャンシルと言います。が、お寺では「ヘウソ」と言います。漢字では「解憂所」となります。仏さまに合掌礼拝のあと、出るものが出れば、憂いも解けるのかもしれません。憂いを無くすのではなく、解くとするのが素敵です。
⚫︎編集後記
 本号の執筆にあたり、梵魚寺、仏影寺、安静寺の僧侶、および信者のみなさまにご厚情を賜りました。改めて感謝申し上げます。食事を賜ったり、本来なら公開していないものを見せて下さったりと、またまたお世話になりました。

 ジャーナリスト?の櫻井よしこ氏が韓国は内戦状態と煽る記事(とはもはや呼べません)のようなものを書いていましたが、内戦の気配を感じることができませんでした。 この煽りっぷりの酷さに開いた口はふさがりません。ようは、対外的な不安を煽り内側の腐敗から目を反らすという為政者の常套手段の援護射撃といったところでしょうか。
 氏の講演、所属会社のウェブページによると100万から150万円が目安なのだそうです。金をドブに捨てるとはこのことを言うのでしょう。 月刊「祭」の講演はその100分の1以下でやりました。頭は櫻井氏より随分悪いはずですが、氏よりマシな話はできました。

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58.韓国京畿道の屋根は天竺への道?(月刊「祭」2016.9月)

2016-08-16 20:29:41 | コリア、外国


京畿道の宮殿や城の屋根を見ると、降棟の上に、動物や人間のご一行が列をなしています。これを雑像・チャプサン・잡상というようですが、なんのことかさっぱりわかりません。なので、文献を探そうかとも思ったのですが、そんな暇もないので、屋根の上の人や動物は何者なのか韓国文化財庁ウェブページをみて調べてみます。
その上に乗っているのは多くが西遊記•ソユギ•서유기の登場人、怪物です。特に先頭3体は外から
1大唐法師•テダンポプサ•대기업사(三蔵法師)
2孫行者 •ソンヘンジャ・손행자(孫悟空)
3猪八戒・チョパルケ・저팔계(猪八戒)
が並ぶそうです。
規模が大きい建物だと、その後ろに沙和尚・サファサン・사화상(沙悟浄)などが並ぶそうです。

現存の屋根にある雑像は朝鮮時代以降のものになります。が、この時期は仏教が廃仏棄釈などで廃れた時期。月刊祭説(妄想)によると、この時期の仏教衰退が韓国・朝鮮の山車、神輿文化がほとんど見られない原因となっています。にもかかわらずなぜ、仏教説話とも言える西遊記が宮殿や城にのこってるのでしょうか?

◯江華島出土雑像
江華島・カンファド・강화도では雑像が出土しました。時代は13世紀。13世紀といえば、高麗・コリョ・고려の時代です。高麗の時代は各地に寺院が創建され海印寺・ヘインサ・해인사に見られる大蔵経が編纂、刊行された時期です。この時代だと、天竺よりお経を持ち帰った大東法師・三蔵法師はまさしく英雄といえるでしょう。天に飾りたくなるのも理解できます。
朝鮮時代の雑像は、高麗時代の仏教隆盛期の名残と言えるものかもしれません。







◎編集後記
今年も韓国に行ってきました。
かれこれ通いつめて五年。いくたびにこの国の文化を理解することなく、我々の祭文化を理解するのは不可能であると痛感しています。
この記事には反映されていませんが、今回は図書館ずくめの旅になりました。釜山大学校や延世大学校、水原市の各図書館、京畿道博物館の資料室の方々には突然の訪問にもかかわらず、資料の閲覧やコピーに骨を折ってくださいました。
本当に感謝申し上げます。

올해도 한국에 갔다왔습니다.
이것저것 다닌지 5년. 갈수록 이웃나라(한국) 문화이해없이 우리나라(일본) 축제문화를 이해할 수가 없다고 통감합니다.
이 기사에는 반영하지 않습니다만, 이번여행은 도서관 여행 이었습니다. 부산,연셰 양대학교 도서관, 경기도 박물관 직원들께서 자료열란이나 복사위해 신세 많이 바닸습니다.
진심으로 감사 드립니다.


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