月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

76)法相宗興福寺の弘法大師(月刊「祭」2018.3)

2018-06-09 14:54:23 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
法相宗総本山興福寺。
国宝や国指定重要文化財でない建物がほとんどないといっても過言ではないでしょう。

東金堂

五重塔、日本で二番目に高い塔だそうです。

三重塔

北円堂

●不動堂の中の弘法大師
しかし、不動堂はそれらには指定されていません。ただ、不動堂の存在は興福寺にとって外せないもののようです。
中を見ると、お不動さんの前に護摩壇があります。そして、向かって右側、お不動さんの左手横にいらっしゃるお坊さん。真言宗の祖、弘法大師空海さんです。

不動堂内部の不動明王と空海像


法相宗の寺に何故?と思われるかも知れません。
ですが、空海さんがいらっしゃる理由はそのお向かいの建物にありました。
その建物は南円堂。

↑南円堂。向かって右側(左近)に藤、右近に橘が植えられている。


不動堂

南円堂は9世紀に藤原冬嗣が父内麻呂の冥福を祈り発願し、空海が助言したと伝わります。
この南円堂創建を顕彰するために不動堂があるとも言えそうです。


●大きな南円堂、縮小された中金堂、再建されなかった西金堂
現在の南円堂は寛保元年、1741年ころ再建されたものだそうです。享保二年、1721年に講堂から出火、南円堂、西金堂、中金堂、南金堂などが焼けてしまいました。
そこから一番に復興したのが南円堂です。西国三十三箇所の九番に指定されていたので、復興は必須だったようです。
一方、興福寺のメインの建物である中金堂はそれから約一生紀後の文政期に縮小して再建されました。そして、西金堂、南金堂は未だに再建されていません。

そして、写真のように南円堂前には左近の藤、右近の橘が植えられています。右近の橘、左近の桜は御所などでは、紫宸殿など中心的な建物の前に植えられます。藤原氏の氏寺である興福寺では桜が藤にかわります。ですが、左右の「近」があるのは金堂ではなく、南円堂であり、江戸期頃より中心的な建造物が南円堂になったと言えるでしょう。


興福寺南円堂左側の左近の藤

興福寺南円堂右側の右近の橘

これらのことから、当時の人々が、西国三十三箇所への信仰や利害関係、弘法大師への信仰や利害関係が大きかったことが分かります。

●そして現在
今回は何が再建されて、何が再建されなかったかから、当時の人々の信仰にせまってみました。
現在中金堂を復元工事中です。現在は宗派の原点回帰、行政の観光資源創造などが重視されているのかもしれません。



●編集後記●
かれこれ通いつめて15年をこえた奈良。
はじめは、とにかく古いものから自分の仮説を立証するものをひたすら探していました。
しかし、時代を下るごとの変容に目をやると、より面白い歴史があることに、マツオタ歴21年目でようやく気づきました。




75)祭や屋台を研究する意義(月刊「祭」2018.2)

2018-06-09 13:16:01 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

久しぶりの投稿になります。
今は6月になろうというのに、本ブログでは未だ2月号。年末には取り戻せているでしょうか。

さて、今回は久しぶりの投稿となります。その間に志染御坂神社の祭り関係者のみなさまや、各神社の御神職の方にはご厚情を賜りました。その中で、祭への取り組み方、熱い想い、そして伝承の難しさなどを感じることができました。本当にありがとうございました。

一方で、社会的な立場がおありでありながらも、祭文化の研究の必要性をあまり認識していないなと感じる方にもお会いしました。そこで、祭文化を知ることの重要性について、あらためてここで指摘したいと思います。

●「祭休めず会社辞める」屋台・だんじり文化
以前紹介したブッキーランキンさん(清児地車、レゲエ歌手)とあいはら雅一さん(下野町地車、吉本興業、メッセンジャー)の歌にあるように、祭の日に仕事休めず会社を辞める人は普通にいました。または、就職の第一条件が祭の日は休みたいという人もざらにいます*。そこまで、多くの人々の心を捉えて話さない日本文化というのは、他に例をみません。







*例えば下のような例が20年ほど前にありました。
・高卒後、祭を休めず仕事を辞めた。その後、社員の祭と田んぼの都合は最大限尊重するという会社に転職。
・塾講師の面接の第一条件に、祭を休むこと


ここまで、人の心を捉えて離さない文化の研究なしに、日本文化や歴史を語ることは出来ません。

●まつりに反映するもの
「まつり」の字には祭、祀、纏、政などがあります。
もとは生贄をなんたらという意味だそうですが、にぎやかな「祭」、神さまへの祈りなどに重点がおかれたニュアンスがある「祀」、まといなど幟などににたものを意味する「纏」、占いや祭、祀によってその国の方針を決める「政まつりごと」。
このように字義を見るだけでも、「まつり」には「社」会が反映されていることが分かることと思います。

また、下のように逆に祭や屋台を見ることで、その社会を見ることもできます。
1 花(ご祝儀)・・・経済状況
2 何をどこでどう祭るか・・・当時の政の考え方や、ムラ、マチの考え方
3 屋台や神輿本体・・・当時の技術や産業、上の 1、2

民俗学ができた当時は、屋台は多くは新しい文化でした。よって、民俗学者や歴史学者がその研究に重点をおくことはほとんどなかったようです。
しかし、今となっては、絶対に外せない分野となっています。

●屋台文化保存のために
そして、なによりもこれらの文化が継承される際に、美術的な価値、民俗学的な価値を知らないままに祭をすることで起きうる損失は計り知れません。
痛みが激しく、時代の流れで変質せざるを得ないのが、祭の常ですが、何を残して何を残さないのかの選択のための資料提供が、祭研究の大きな役割と言えそうです。


●編集後記
思うところがあり、今回は原点に戻った記事となりました。