月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

215.小野市久保木町住吉神社秋祭概要(月刊「祭」2019.10月14号)

2019-11-01 15:53:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●「播州祭り行脚」で知った祭と屋台
 管理人は小野市久保木町住吉神社の屋台と祭を、「播州祭り行脚」で知りました。このサイトの功績については後に書きます。管理人は縁あって、この祭に関わる機会を賜りました。今回は久保木屋台をふくむ、住吉神社の祭の概要を紹介します。
 
●住吉神社概要と祭礼日
 所在地(兵庫県小野市久保木町978)
 祭礼日(十月最終土日)
 
 氏子は現在の久保木町(旧久保木村)全域に加え、加東市の古瀬と出水にも何件かずつあるそうです。現在の本殿は棟札により享保三年(1718)により造営されたことが知られており(小野市史編纂専門委員会『小野市史別巻』(小野市)平成8年)、また、菅田の住吉神を勧請したことによって創始されたとも伝わっています。祭のために久保木の中を東から春井、東、宮ノ下上、宮ノ下下、西の五組の日参講と呼ばれる組織に分けて年番制で祭を担当していましたが、近年宮ノ下の上と下が合併し四年に一回の当番制で祭を担当しているそうです。 


 
 祭礼日は、10年くらい前は体育の日の次の土日でしたが、稲刈りの都合で十月の最終土日に近年変更になりました。
 
 
●祭の準備と屋台・神輿
 管理人が挨拶に伺った1日目の正午のときは下の写真のようにすでに屋台が組み上がっておりました。
 屋台は近年修理がなされました。彫刻師が花岡富蔵たる人物によるもので、刺繍は絹常製のものと思われ、水引幕にはカタカナで「ヤシロ」の銘が縫い付けられています。この銘の入った物は現在のところこの一枚しか知られていません。
大正初期に神輿と屋台をほぼ同時期に購入したそうです。
 
 
●神輿の渡御

 ↑1日目の午後五時頃から神輿に祭神を移す神事が行なわれました。
 今年は神輿の修理に際してのお祓いが祭が始まる一時間前に行なわれました。管理人も参列の機会を賜り写真は撮れませんでした。写真は、五時からの神事の様子です。
 
 
↑ビデオカメラで撮影していましたが、暗闇の中の渡御で映像の画質は最悪でした(ToT
 白い○に少し神輿の屋根が写っています。屋台が神輿を先導していました。
 
 


 
↑山上の八幡神社が御旅所になっており、そこで神輿は一晩を過ごします。
 住吉神社は東條川の近くの平地にあり、川から山への御旅と言えるでしょう。また、住吉四神は上筒男、中筒男、底筒男と神宮皇后を表します。八幡神は応神天皇、神功皇后の御子神です。神仏のお渡りは西と東、親と子、夫と妻などの対になる施設の行き来が多く見られます。このお渡りも親と子、川と山の対になる施設のお渡り式であると言えます。もしかしたら、来年も山から東條川に注ぐ水が適度であるようにという祈りを込めているのかもしれません。

↑屋台は住吉神社の収蔵庫に戻り、明日、八幡神社にお迎えにあがります。
 
●獅子の門つけ
 獅子は夜12時に神事を行なったあと、門つけを氏子域全家庭をしていきます。元々は当番の日参講がしていましたが、20年ほど前から消防団が一手に引き受けています。
  門つけは日参講の春井の決まった家から始めるのがならわしとなっています。門つけをされる家が祝儀を出し、獅子側はお札を渡し獅子舞を舞います。途中村の中の稲荷社にも舞を奉納していました。久保木の中の東側から西側に向かうという順路になります。
↑演目は玄関の中で行う鈴と御幣を持った「コウジンバラ」と、それよりは動きが大きく必ずしも玄関の中で行われない剣をもった「ツルギ」の一人舞が一セットのようで、見た限りでは全ての舞で行っていました。ツルギの方は動きが上の画像は「ツルギ」の場面で、後の人は補佐をしながら笛を吹いています。補佐役が笛を吹かない姫路市の英賀神社のものとは少し違います。
 そして、この一セットの一人舞のあと、家庭やご祝儀などによって「ランギョク」とよばれるものか、「ヤシマ」と呼ばれる二人舞の獅子が舞われます。「ランギョク」の方は横への回転が伴う激しい舞で、ときおり拍手がおこっていました。

 住吉神社近くの公民館で朝の三時から四時ごろ休憩をとり、住吉神社の西側に門つけに再びいきます。出水の方へは車で出かけました。

↑出水を回る頃にはすっかり夜が明けています。
 
●還御

朝8時半ころ屋台は住吉神社を出発し、御旅所近くの老人ホームにやって来ました。出水から戻り、老人ホーム付近での門つけを終えた獅子が合流し、2匹の獅子が屋台の前で入所されている方々の前で舞を披露しました。

↑御旅所から獅子のお帰りの道中の辻で、祭の間たった一度だけ「ハナガカリ」が舞われました。


↑神輿が宮へ戻ると、神輿の祭神を宮に戻す前に最後の獅子が舞われます。演目は「コウジンバラ」と「ツルギ」のあとに「タニワタリ」。足の使い方が難しそうな演目でした。
 

↑やがて神輿からお宮さんに祭神が戻り、久保木の秋祭の神輿の渡御、還御は終わりました。
 
●屋台の再出発とお楽しみと片付け
↑神輿の祭神がお宮にお戻りになるのを確認した屋台は、久保木の村内を巡行します。忘れられつつあった伊勢音頭を復活させようと、かつての録音した音源に子どもたちが太鼓をあわせて巡行します。
 かつては、せまい道も担いでまわったとのことです。



↑子どもたちは、祭の太鼓と小学校で習った演目を披露してくれました。司会を久保木の歴史保存会の方がおこなっていました。村の人たちの暖かい拍手に、村全体で子どもを育てようという思いが感じられました。

↑最後は福引です。

↑その日のうちに片付けられます。

↑のぼりをゆっくり倒します。

↑修理した屋台を埃から守るカーテン。
 
久保木住吉神社の秋祭の構成
 祭は、以下のように構成されていました。
一日目
①神社から御旅所までの行幸
②獅子の門つけ-夜通し-
二日目
③御旅所から神社までの還御
④屋台巡行、太鼓披露、福引などの楽しみの時間
 
 日参構から消防団に獅子の担い手が変わったり、新しく組み込まれた太鼓演奏を新しい組織である歴史保存会が主催したりと祭を担う組織が再編成されている過程が見られました。
 また、神輿の御渡りには親と子、川と山の対の関係が見られるのも興味深い点でした。
 そして、少ない件数でなんとかしてここまでの規模の大きい祭を保存しようとする努力に頭が下がりました。
 
最後に
 忙しい中、見学にご協力くださった氏子の皆様方に深く感謝申し上げます。
 

214.韓国版桂離宮-廣寒楼苑-韓国南原市の石像の特徴1/3(月刊「祭」2019.10月13号)

2019-11-01 00:09:23 | 韓国旅行案内
●韓国南原市の観光名所
 韓国南原市(詳しくは、ウィキpディア)内にある二つの観光名所-廣寒楼苑と萬福寺跡-にまつわる石像の特徴について、三本立てで書いていきます。一本目と二本目でそれぞれの観光地の簡単な紹介をして、三本目で石像の意外な特徴を見出します。今回一本目は廣寒楼苑の紹介です。

1 廣寒楼苑・カンハルルウォン・광한루원の概略
(アクセス、ウェブページ<日本語韓国語(한국어)>)
 詳しくは、ウェブページを見ていただけると分かります。以下、上記の日本語ページを参考に解説します。1419年に創建され、広通楼と呼ばれていました。1434年に修復され現在残るものは1638年の再建されたものだそうです。
 1434年修復後は広寒清虚府と称されるようになり、その後、広寒楼と呼ばれるようになりました。

●天界の再現 -韓国版桂離宮-

↑1638年再建の廣寒楼 
 広寒清虚府は、月の宮の玉皇上帝が住む宮殿を意味するそうです(上記日本語参考ページ)
 特にこの建物は月の国の宮殿を再現した物と言われています。美しい仙女が見えるかも知れません。



↑ この建物にかかる橋が烏鵲橋(오작교・オジッキョ)で天の川に架かる橋と言われています。

 まさしく、これらで天界を再現した建物と言えます。


↑その廣寒楼を鑑賞するために建てられたウァンウォル亭。
 月の国を再現したり、それを鑑賞したりする建物、庭園群は韓国版桂離宮とも言えるかも知れません。

●韓国版ロミオとジュリエット(ハッピーエンドバージョン)
 南原は韓国の古典ラブストーリー春香伝(参考:Wikiぺdア)の舞台です。寒廣楼苑の中にも春香を祀る春香祀堂(チュンニャンサダン)が残ります。



↑春香像。宮沢りえさんに似ていると思うのは管理人だけでしょうか。

 

↑正面なら彫刻は亀の背にのるうさぎ


↑裏にまで続く面白い構図です。

 この彫刻は次のような説話を題材にしていると思われます。こちらのサイトを参考にしました。
「海の龍王は病気になり、陸と海を往復することができる亀に病気に効くウサギの肝を取ってくるように命じた。亀はうさぎに楽しいところへ連れて行ってあげるといって龍宮まで連れてきて縛りあげた。肝が必要だと知ったうさぎは肝は森に置いてきたから連れ返しておくれと言った。亀はうさぎを背に乗せ海を行く(彫刻の場面はこの場面と思われます。)。陸に着くとうさぎはとっとと逃げてしまった。」

●韓国版◯◯
 寒廣楼苑は韓国版◯◯といえるところでした。建物群と庭園は本当に美しくおすすめです。

編集後記
 首里城の復興を願います。
 首里城火災は祭が好きな人ほど、自分の宮とか屋台、だんじりやったらどうしようという想像力が働いてしまう事件でした。