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素人がアイヌ語から見たクラムボン。多くの小学校6年生が習うやまなし。「アイヌ語」から「クラムボン、イサド、かぷかぷ、カニ、青い幻灯」を考察しました。
また、このホームページをきっかけに、高知大学の宮沢賢治研究会の雑誌に掲載の機会を賜りました。
鈴木健司先生をはじめ、会員の学生のみなさまに本当にお世話になりました。この場を借りてあらためて御礼申し上げます。
参考文献として挙げたホームページが今となっては、なくなってしまっているものもありますので、他に同様の内容がのっているものがありましたら、斜体字で掲載いたします。
――――――――――――――――これより (斜体字のみ2019年1月9日以降につけた注釈。
本文は2006年に完成、その後加筆修正を2007年頃まで加筆修正を加えた。名前は管理人の本名だったが2011年頃に「本ページ管理人」と書き換え、後書きは2015年頃に書き換えた。――――――――――――――――――――――
news!!
高知大学宮沢賢治研究会・注文の多い土佐料理店の同名会誌第十一号に論文を掲載していただきました。 このページより内容は詳しいものになっています。かなり多くの方が読まれる会誌だそうで、光栄なことと感じてやみません。 このような機会を下さった、会の皆さま、前顧問の鈴木先生、現顧問の田鎖先生にお礼を申し上げます。 興味のある方は、このページ下のメルアドか、直接会に問い合わせる貸していただくよう、お願いいたします。
レポート提出に併せてのウェブページ公開
宮澤賢治 「やまなし」 の研究
-アイヌ語による、クラムボン、イサド、かぷかぷ、「私の青い幻燈」の考察-
■本題に入る前に
アイヌの文化継承・権利擁護のために奮闘された、萱野茂氏のご冥福を祈ります。
■従来の「やまなし」の捉え方への疑問
「やまなし」は、果たして抽象的な作品なのだろうか。極めて幻想的な印象は変わらない。しかし抽象的かどうかに関しては、改めて読んでみると、そうは感じなかった。自然の中における蟹の親子の具体的な日常生活を描いた作品ではないだろうか。より、その具体的な世界を見出だすために、登場する生物・言葉の具体的な分析を行う。
■登場する動物の考察
まずは、「やまなし」で登場する動物について考えていく。
・蟹の種類の特定
まずは、この物語の主人公である蟹は、どのような蟹なのかを考えていく。
春・冬ともに川に棲息しているので、淡水に住む蟹であろう。そして、やまなしを大きなものとして捉らえている。それらを考え合わせると、主人公の蟹達はサワガニの一種である可能性が高い。
・かわせみ
かわせみは鳥の一種であり、小魚の他にサワガニも食料としている。かわせみが飛び込んで、魚を取ったときにそれを見て怖がる子ども達をみて、父親が「大丈夫おれたちはかまわないんだから」と宥めている。だが、実際は、前述のように、子ども達が魚のようになる可能性もあったのである。それでも、あえて「やさしい嘘」をつくところに、父親のキャラクターが現れている。
■イサドとクラムボンは果たして意味不明なのか
この物語での抽象性を高める言葉は、作者の造語とされるクラムボンとイサドだろう。この言葉の意味がわかれば、より具体的な話しの道筋が見えるのではないだろうか。この言葉のルーツを考えてゆく。
・宮澤賢治とアイヌ
やまなしの作者・宮澤賢治は日蓮宗の一派である国柱会の熱烈な信者であった *1。
日蓮宗においては妙見信仰がさかんである。賢治の作品においては、烏の北斗七星などにその影響がみられる。賢治の生まれ育った岩手県を含む東北地方においての妙見信仰は、アテルイや坂上田村麻呂に代表される征夷伝説と関連のあるものが多い。
やまなしが書かれたのは、大正十二年か十三年とされている。その同時代には、千里幸恵「アイヌ神謡集」が出版されている *2。千里幸恵の師であり、賢治の盛岡中学の先輩でもある金田一京助も、大正3年に「北蝦夷古謡遺篇」を出版している *3。現に「土神ときつね」の表現には、「アイヌ神謡集」と酷似した表現が診られるという*4 。
賢治のアイヌ文化に対する関心は高く、クラムボン・イサドのルーツをアイヌ語に求めることは十分に意義があるであろう。
・アイヌ語としてのクラムボン
クラムボンをアイヌ語に分解すると、kur・人、男 ram・低い pon(bon)・子どもとなる 。多くのアイヌ語辞典などの表記においては、ほとんどbの音は使われていない*5。だが、なまりによって変化することもあり、pとbを混同して表記されることは当時ではよくあった *6。「やまなし」の初めての連載においても、「クラムポン」と「クラムボン」の記述は一定していなかったという *7。
クラムボンは、単語の意味をあわせると、アイヌ各地に分布する伝説の小人・コロボックルだと考えられる。
十勝の伝説においては、十勝川で溺死させれたコロボックルが、「お前たちも魚皮(カップ)の焼け焦げるような運命に逢うだろう」という呪いの言葉を残したと伝わっている*8。コロボックルに通じる意味を持つクラムボンが「カプカプ笑った」「殺された」というのは、このようなアイヌの伝説を元にしているとも考えられる 。
②さらに、賢治の作品である「祭の晩」に出てくる山男は、 ごつごつした顔(アイヌ人やコロボックルの特徴)、丸い金色の眼(遮光器をかけたころボックル)、夜中に物を置いてくれる(コロボックル伝説)、素直な性格(賢治作「樺太鉄道」の詩「すなほなコロボックル」の記述あり)と、コロボックル伝説をモチーフにしたものであると考えられる。
②はレポート提出後の追記。文脈を考え、レポートの文の後に付け足すことにした。
・アイヌ語としてのイサド
もう一つ出てくる謎の言葉・イサドもアイヌ語で解くことができる。i・そこの、その sat・乾いた to・沼 で、合わせると「例の乾いた沼」となる *9。
ところで、この物語の主人公だと考えられるサワガニは、自らが住む水辺を離れて歩き行く性質を持つ。となると、イサドという乾いた沼への旅は、サワガニの水辺を離れて歩き回る習性を反映していると思われる。
クラムボンが十勝のコロボックル伝説に関連が深い可能性を前述したが、十勝には沼地が多く存在している。さらに火の神と沼に関する伝説も残っており、乾いた沼に通じるとも考えられる 。
イサドが出てくる賢治の作品として、「風の又三郎」があげられる。又三郎こと三郎も北海道からの転校生となっているのも興味深い。①もう一つ出てくる作品としては、「種山が原」がある。これも坂上田村麻呂の征夷伝説に関連する剣体舞連という儀式を主題にしている。「風の又三郎」「種山が原」ともに、「伊佐戸」という字で夢に出てくる架空の地名として描いている。ただ、これも「札幌」「釧路」などのような、「アイヌ語の地名」としての原風景を描いていると考えられよう。
①もレポート提出後の追記である。文の流れを考え、レポートの文に後から付け足すことにした。
・「私の青い幻燈」が何故「かに」の物語なのか -レポート提出後の追記-
「やまなし」でのかにの親子の物語は、「私の青い幻燈」とされている。では、私の青い幻燈が、何故「かに」の親子なのだろうか。
アイヌ語での「カニkani」は、「私」を意味する*11。そうなると、「私・カニ」の青い幻燈ということで、「カニの物語」が展開されていると考えられる。
また、前述の秋枝美保氏は、「『アイヌ神謡集』と賢治の童話―鬼神・魔神・修羅の鎮魂―」において、賢治童話の冒頭部に関する、以下のような興味深い指摘をしている。
宮沢賢治は,童話集『注文の多い料理店』の「序」において,「これらのわたくしのおはなしは,みんな林や野はらや鉄道線路やらで,虹や月あかりからもらつてきたのです。」と述べており,彼の物語は向こう側からやってくる声を聞き取るという意味で,『アイヌ神謡集』の語りの姿勢に極めて近いと思われる。
「注文の多い料理店」の「序」にみられるような、「これからのX(物語)は、××です。」といった形は、「やまなし」の「二枚の青い幻燈」の出だしにも共通している。しかし、「やまなし」の執筆は、「アイヌ神謡集」の出版前と考えられている。
ただ、知里幸恵が「アイヌ神謡集」を寄稿しつづけた先は、賢治の盛岡中学校の先輩の金田一京介であり、「賢治が知里の寄稿内容を知っていた」可能性は否定できない。もしくは、賢治が、別の手段でアイヌユカラの口承文芸の語り口調」を知っていた可能性もあるかもしれないが、それは後の研究課題とする。
・「やまなし」に類似した表現を用いた賢治の心象スケッチ -レポート提出後の追記2-
賢治は、そうれぞれの童話等の作品を髣髴とさせる、「心象スケッチ」とも呼ばれる詩を書いてあることが多い。例えば、「種山が原」の作品においては、「種山が原」の主題ともいえる「原体剣舞連」という名の詩を書いているのである。
「やまなし」の「心象スケッチ」にあたるものの一つとして考えられるのが「樺太鉄道(←リンク先は、『宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス』の中にあるもの)」だといえよう。「やまなし」「樺太鉄道」共に、「流れ・川」がある場所について、「光の反射」、「樺」、「現実にはありえない発酵」が描かれている。
そして、「やまなし」と似た表現をする「樺太鉄道」という詩に登場するのが、「伝説の小人・コロボックル」である。「コロボックル」というアイヌ語に対応する言葉が、「やまなし」に出ていても不思議はないであろう。 そして、それが「クラムボン(背の小さい人)」であると考えられる。
■「やまなし」の新たな可能性
「やまなし」という作品は、アイヌ語を使って幻想的な雰囲気を出しつつも、具体的な話の流れを持つ作品である可能性が強い。「やまなし」は、日本国境内で使われる言語・国語が、決してこのレポートを書いているような「やまとことば・シャモ語」だけではないということを伝える材料ともなりうる。
また、このようなコロボックル伝説を持つアイヌ民族も、「やまなし」が書かれた当時は和人による同化政策の真っ只中であり、その文化は危機に瀕していた。このような時代背景をふまえながら読むことで、より「やまなし」という物語に深みが与えられるように思われる。
■注釈
1 国史大辞典編集委員会「国史大辞典第13巻」(吉川弘文館)1979-1997
2 http://www.yamanasi.net/seiritsu.html
『やまなしの成立時期』「賢治/やまなし」
http://www.kenji.ne.jp/gr/kaiho/kaiho30/
秋枝美保『冬季セミナー講演(要旨)宮沢賢治「土神ときつね」と知里幸恵「アイヌ神謡集」』「宮沢賢治学会・会報第30」
秋枝美保「『アイヌ神謡集』と賢治の童話―鬼神・魔神・修羅の鎮魂―」「国際言語文化研究所紀要第16巻3号」2005
3 http://www.hachinohe-ct.ac.jp/~tos_home/kanpo30/30-1.htm
富田實「たまには啄木」
柳田国男『郷土研究』第二巻第三号、雑報、大正3年5月5日、(郷土研究社) 「柳田国男全集24」(筑摩書房)1999
4 2の「宮沢賢治学会・会報30」に同じ
5 田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』(草風館)1996
もっと正確に言うと、ponは若いとか小さいの意味。
kurは本来なら接尾語になる。頭にkurが来る場合は、影を意味する場合がほとんどであり、それがこの論の問題点ともいえる。
だが、「kur人は、背が低くram 小さいpon。」という風にも考えられよう。
6 例えば明治時代においては、コロボックルとコロポックルの表記はよく混同されていた。『日本の人類学文献選集 近代篇 第一巻』(クレス出版)2005
7 http://www.yamanasi.net/
「賢治/やまなし」
8 更科源蔵「アイヌ伝説集」(みやま書房)S.56
酒井章太郎「十勝史」(帯広町)1907
9 5に同じ。
もしくは、isa・実る to 沼で実りの沼とも考えられよう。
10 8に同じ。
11 5に同じ。
■後書きに変えて -見えてきた「やまなし」と「日本における国語について」-
「クラムボンがかぷかぷ笑ったよ」
の出だしで始まる、宮沢賢治の童話「やまなし」。
小学校の教科書にもなっています。
なんじゃらほい?
ワケワカメ。。。。
そう思った人は少なくないでしょう。
そこで、最近、ふと疑問に思いました。
実は、クラムボンはワケワカメな言葉じゃなくて、なんかの意味をもっているんではないか??
「アイヌ」。
突然、僕の脳裏をこのキーワードがかすめました。
日本という国境の中で使われる言語・国語は、決して「やまとことば・シャモ語」だけではありません。「もう一つの国語・アイヌ語」。
そこから、「やまなし」の謎に挑んでみました。
そして、見えてきた「やまなし」の姿は、十勝に伝わるコロボックルや沼にまつわる伝説です。その伝説には、共通点があります。
それは、殺し殺されの世界、激しい呪詛。
童話や童謡の世界が実は恐ろしいというのは、よく語られています。例えば、「はないちもんめ」は人身売買の風習を反映したものといわれています。そして、「やまなし」もその例外ではなかったということです。さらに、この伝説を伝えてきたアイヌの文化は、当時、和人による同化政策により、風前の灯となりつつありました。このような時代背景を考えると、親子のやり取りを描いた「やまなし」の世界に、より深みを感じさせるものとなるでしょう。
この「やまなし」は小学校の教科書にも掲載されています。
僕は、「このようなおそろしい話は教科書に掲載すべきではない。」とは思いません。
「おそろしい話」ができる背景はなんだったのか。そういったことを考える格好の教材なのではないかと考えます。
また、そのような「やまなし」のモデルになったと思われる話を伝えてきたアイヌ文化や、その他の北方先住民族・文化・言語の存在を教えることが、「日本という国境内での言語教育」・「国語教育」で必要でしょう。それが、便宜上一つの言葉を公用語として使っている国家の義務であると考えます。
本ページ管理人