月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

226.生業と祭と屋台-農業と祭礼日-月刊「祭」2019.11月10号)

2019-11-12 18:45:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●祭で祈られる生業の発展
 祭の大きな目的の一つとして、生業の発展があります。その中でも、農業の発展・「作物がよくとれる」ことを祈るのは、人間が物を食べて生きる生物である限り、続く行為になることでしょう。そのような、「農」と祭を見ていきましょう。
 
●歌われる「農」
三木市内の中で、旧の町方である明石町では、歌われることのない歌が、「今年やなあ、豊年年---」の歌です。地域や屋台によって少しずつ違いますが、農村部の屋台ほど歌われていることが多いようです。
 例えば、下の地域でも「豊年どし系」の歌が歌われています。

↑三木市八雲神社久留美屋台



↑三木市志染町御坂神社


↑三木市岩壺神社を出る若宮八幡神社宿原屋台
 
●農業と祭
三木市吉川町細田神社



↑祭が終わって片付けが始まっているときに行きました。大きな各村ののぼりの中に菊正宗ののぼりが多数ありました。酒米山田錦の産地で、日本酒とはきってもきれない関係にあるみたいです。
 聞くところによると、山田錦は普通の米より背が高く、台風などで傷みやすいので、育てるのに神経を使うそうです。
 
丹波篠山市佐々婆神社



↑見事な刺繍を擁する山車を見せていただきました。


↑ご自宅まで案内してくださり、地域の歴史や村の様子についてのお話を聞かせていだきました。そして、やはり、話にあがるのは、農業のことでした。ブランドの黒豆を見せていただきました。「丹波篠山黒枝豆販売の店」の札がかかっている店は、「おいしい」の目印です。

小野市久保木町住吉神社


 
 詳しくは、こちら。祭礼の日程も稲刈りとの兼ね合いで、10月体育の日の次の土日から、10月最後の土日に変更になりました。
 
●仕事と農業と祭礼日
 今回あげた屋台に携わるほとんどの方が、仕事を持ち、田や畑を切り盛りし、そして、優れた祭文化の担い手になっています。このような地域の祭に行くと、やはり田んぼや畑を切り盛りする苦労があることも話題に出ます。逆に仕事をして、田畑を切り盛りしていると、祭への参加が難しくなる話も聞きます。会社によっては、「祭と田んぼ(畑)」優先を認めてくれるところもあると聞きますが、やはり少数でしょう。
 祭礼日を固定ではなく、土日開催を批判する声もあります。ですが、専業農家が立ち行かない現代では、特に農村部での平日開催はかなり厳しい現状があるようです。
 
 
 
 
 













コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

225.宮沢賢治の詩に見る北斗七星信仰(月刊「祭」2019.11.第9号)

2019-11-10 07:51:59 | 素人がアイヌ語から見たクラムボン2006
●管理人が書いた宮澤賢治の論文? 妄想?
 一応「論文」となっていますが、確固たる確証は持てない管理人が書いたクラムボンアイヌ語説*。とはいうものの、全く根拠はないというわけではありません。
 宮澤賢治は日蓮宗の熱心な信者であり、日蓮宗において大きな一角を占める妙見信仰、北斗七星信仰をベースにしていると思われる作品を多数作っています。その北斗七星信仰については、柳田國男ら民俗学者が誌上で取り上げ始めました。
 そのような北斗七星信仰や征服される民への賢治の眼差しを考えると、クラムボン アイヌ語説も確実だとはいかないまでも、あながち荒唐無稽でないようにも感じてしまいます。
 ここでは、管理人の説はさておき、宮澤賢治が、当時の民俗学の知見を取り入れて作品を書こうとしていたことを、主に一遍の詩の「下書き」を通して紹介します。
 今号は、下に記した管理人の論文(もどき)の一部を、簡潔に紹介する形で書いていきます。




 
●民俗学でとりあげられはじめた北斗七星信仰と征服された人たちの鎮魂
 宮澤賢治は、日蓮宗の信徒だったそうです。日蓮宗の寺院には多くの寺院で「妙見菩薩」が祀られています。妙見菩薩は「妙見神呪経」などとよばれる中世の書物なとでは、妙見菩薩は北辰や北斗七星の輔星と同体とされてきました。宮澤賢治の作品には「烏の北斗七星」など七星やそれにまつわる信仰をモチーフにしたと思われるものがよく見られます。
 例えば『烏の北斗七星』はタイトルがそうだし、「七ツ森」という言葉が『おきなぐさ』、『山男の四月』、『紫紺染について』という作品にも出てきます(もう内容はほとんど忘れました^_^)
 一方で当時は民俗学者柳田国男らの活躍で、国内の七星信仰を反映したと思われる塚などに注目が集まっていました。大正四年の『郷土研究3-7』では伊東東が豊後国に「七ツ森」があり、土蜘蛛の墓だという伝承があることを紹介しています。柳田国男は「七塚考」(『郷土研究3-5』所収)では、
①村や町の境において平将門など不遇の死を遂げた者を、七人、あるいは一人の体を七つにわけて葬ったという伝承があること
②七つ森、七つ石、七本杉なども同様の目的
といったようなことが書かれてい(たはずで)す。

 宮澤賢治の故郷である岩手だと「征服される者」はアイヌ民族だとも考えられる、アテルイや悪路王です。しかも、宮澤賢治の学友にはアイヌ研究の大家でもある金田一京助の弟がいました。「やまなし」を執筆するときか、そのすぐ前あたりに宮澤賢治は『アイヌ神謡集』の著者である千里幸恵が居候している金田一京介宅を訪れたそうです。
 ちなみに宮澤賢治の作品が『アイヌ神謡集』の影響をうけていることは、秋枝美保氏が「『アイヌ神謡集』と賢治の童話-鬼神・魔神・修羅の鎮魂-」(『国際言語文化研究所紀要16-3』2005所収)で指摘されています。どこぞの祭ブログ管理人の論文もどきと違い名著です^_^
 そして、その秋枝氏も引用した詩の下書きに見られます。秋枝氏は下書きから清書の違いを比較して、宮澤賢治の心の中で鎮魂が行われたということを書いています。
 管理人は、当時民俗学者達が指摘していた七星信仰や征服される人たちへの眼差しと宮澤賢治の作品を指摘した「つもり」です。


●宮澤賢治の詩に出てくるアイヌの鎮魂の七塚
 宮澤賢治が信仰していた日蓮宗においては三国四師の一人として伝教大師最澄が挙げられています。最澄は比叡山延暦寺の開祖でもあり、その麓には北斗七星信仰の神社ともいえる日吉大社を鎮守の社として擁しています。そんな「比叡」の詩もつくっており、そこには、6人の僧とともに立つ自分を描いています。つまり、宮澤賢治をあわせると7人になります。これも、北斗七星をあらわしているかも??しれません。

 「日はトパーズのかけらをそそぎ」の書き出しではじまる詩の下書きには、
 「その樹神のあつまりを考えるなら 花巻一方里なのあひだに七箇所を数え得る」
とあり、七塚を連想させます。さらにその詩に追加しようとした言葉には、「たゝりをもったアイヌの沼」という言葉もありました。
 これらの表現は、七塚が征服された者を祀るための塚であると民俗学会で指摘していたことをモチーフにしてできたものと考えるのが自然でしょう。

•無駄に長ーい題名の論文(もどき)
「〔やまなし〕の研究 宮沢賢治の北斗七星を通したアイヌの御霊信仰及びアイヌ語によるイサドの考察と、アイヌ語からみたクラムボン、かぷかぷ、「私の青い幻燈」の考察」
•韓国檀国大学校の朴京娫先生が、論文「宮沢賢治と北海道との関連性 -『ペンネンネンネンネンㆍネネ厶の伝記』を中心に-」に管理人の論文(もどき)を引用してくださいました。なぜか引用文の後の参照が萱野茂『アイヌ語辞典』(三省堂)1996になっていました。
 朴先生に問い合わせたところ、クラムボン ・アイヌ語説は私が先だと認めてくださいました。ちょっとした間違いだと思われますが、ご丁寧に「ご迷惑かけて申し訳ありません」の言葉をいただきました。管理人も、当時のウェブページには掲載した雑誌名の記載はしていましたが、当時の職業上、管理人の名前は伏せていました。朴先生にとっても、わかりにくかったと思われます(とはいえ、論題と雑誌名は明記していましたので容易に分かるはずでしたが^_^;。)。クラムボン アイヌ語説の話をするさいには、私のウェブページなども紹介して下さるそうです。
 また、朴先生はこの論文に関する講義はしていません。つまり、クラムボン アイヌ語説を、自分のものとして講義をしたことはありません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

224.間違い記録と研究の中の間違いについて(月刊「祭」2019.11月8号)

2019-11-08 13:43:00 | ブログ運営など
●祭を調べる中での間違い
 屋台やだんじり、太鼓台を調査公表していく中で必ず出くわすのが「間違い」です。どの分野でもそうだと思いますが、特にこの分野では、今までプロの方には見向きもされなかった面もあり、手探りの段階で、いくら注意しても間違いは避けられません。また、プロの方でも屋台やだんじりの祭に携わったり、担いだり引いたり、現場の方と友達になったりできていない場合だと、簡単に気付くようなことでも見落としているなんどということも多々見られます。
 ここでは、管理人が間違えたことのある例を紹介し、どのような点に気をつけてもらうかの参考にしてもらいます。そして、最後は、間違えた時はどうするかを考えていきたいと思います。

●嗚呼、多すぎて書ききれない管理人の間違い記録
 ここでは、星の数ほどある管理人の間違いの中から、主だったものを厳選して紹介します。厳選してもここまであります。

明石町の欄間(ここに間違えた記事)
管理人説--->
 a高倉天皇に臣下が報告している場面
 b馬場信春と本多忠勝の長篠の合戦

結果--->
 a仁徳天皇の民の竈門(粕谷氏の本から)
 b今のところ不明(t氏のご指摘で、本多忠勝と馬場信春の組み合わせで、馬場信春が馬で駆けている場面なら一言坂の戦いかもしれないとのこと。本多忠勝が撤退をしようとしている様子が見られるのでこちらが正しいと思います。)

三木市吉川町若宮神社の神輿製造年
 若宮神社の神輿製造年を戌(いぬ)を戊(つちのえ)と読み間違えました。お先だんじり(屋台)の創建が文政元年(1818)で戊寅(つちのえとら)の年だったことから、神輿も同じ年に作られたと報告書で書いたり発表したりしてしまいました。
 
小野市久保木の神輿
 これは、幸い制作年代を書かなかったのですが、文政期の墨書を見事に見落としていました。

神戸市灘区都賀の、だんじりはねずみのいない十一支と書いたけど、、、
都賀のだんじりはねずみのいない十一支だと書いたけど、ちゃんといました。

東這田の屋台の水引幕(ここに間違い記事)
 あきらかに女性ものっておらず、竹之内宿禰もいない水引幕を、神功皇后の三韓征伐としていました。

そのほかにも、、、
・今上天皇を年号と天皇で呼ぶ、記述。
・不明の彫刻師を、別の有名な彫刻師と記述。
などなど多すぎて全ては覚えきれません。

●このような間違いへの対応について
☆指摘してくださる方に感謝^_^
 幸いにも管理人は、間違っていたら優しく指摘してくださる方がまわりに沢山います。なるべく早く訂正していくといいと思います。

☆祭関係者に訂正を伝える
 若宮神社の場合だと、管理人は報告書を祭関係者の方々にもお渡ししていました。みき資料館の方に指摘を賜ったので、今年の祭に修正したものをお渡ししました。
 その時に「間違いを恐れずにこれからも頑張りよという温かい言葉も」かけていただけました。

☆間違いはあって当たり前、その後が大事
 もちろん、間違いをたとえば、本を出版する前に書ければ問題ありません。しかし、この分野は医学のように検証実験をするような時間もありません。なので、間違えたまま文章が出てしまうことも多々あります。
 なので、そこに気づいた時に、正誤表を読者に配るのが難しいのであれば、ホームページに記述するなどの配慮は必要かも知れません。

次号からは間違いについて
 播磨鑑の間違い記事とそこから見えるもので一本の記事を書きます。「もしかしたらもう一つ別の間違いについても書くかも知れません」と書いたのですが、無理そうです。。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

223.限界-教育の政(まつりごと)3-(月刊「祭」2019.11月特別号)

2019-11-07 16:39:00 | 教育の政(まつりごと)
●姫路市でも起きた教員同士の虐待事件
 また、教員同士の虐待事件が発覚しました。文章から察するに加害者は「いじり」のつもりであったのが、被害者きらすらば、受け入れられなかったのだと思われます。
 加害者はもちろん罰せられるべきですし、それ以上に退職した被害者への補償が急がれます。(例えば、自己都合で退職したならばと退職金は雀の涙です。)

●加害者気質の人は重宝されざるを得ない
 加害者の資質や人格攻撃するよりも、どのようにすれば、事件が起きないのかということを考える必要があります。そこで今の学校の現状を見てみましょう。

 日本の多くの小学校では学級制が敷かれています。一学級は5、6年は上限40名、それより下の学年は35名です。現状としては余裕をもったクラス割りではなく、上限に限りなく近い人に近い人数に学級が分けられます。
 もちろん、学業を志す40名ではなく、遊びたい盛りの40名です。中学生の勉強ができる子から九九もままならない子がいる40名です。運動能力にも例えば50メートル走で言えば、数秒差がある40名です。そのような能力に差があり、考え方も違い、必ずしも学業に心は向いていない子たちを「同じ方向」に向かわせるのが教員の仕事とも言えます。

 「40名がお互いの違いを尊重しながら、譲り合いながら、少し喧嘩することもあるけどそれを乗り越えて、成長する」というのが、理想です。現にその理想のためにほとんどの先生方は日々身を削って努力してらっしゃいます。しかし、上のように能力も価値観も違う子たちが同じ授業を受けるのもやはり限界があります。かつては、その限界を体罰で補っていた側面もあると言えます。しかし、体罰は結局いい方には働かないと言うことが、科学的に証明されたという記事を見たことがあります。結局は、クラスを同じ方向に向けるのに使われていた体罰も使うことは許されないということになります。

 そんな中で、「教師はさからったら怖い」と思わせることで、クラスを同じ方向をまかせなければなりません。もちろん「さからったら怖い」と感じる経験も子どもたちには必要ですが、その比重が大きすぎると弊害のほうが大きくなります。この弊害が大きくならないように40人を指導するのははっきり言えば超人なみの能力か、想像を絶する努力が求められます。
 
 現実では、「血の滲むような努力」言い換えれば、「給料の倍以上の労働」でそれらはなされています。管理人のような努力も能力も足りない人は当たり前ですが、血の滲むような努力をもってしても学級が、うまくいかないことも出てきます。そうならないための人を教員の採用試験では選ぶと思われます。
 授業の工夫だけで同じ方向に向く事ができない学級を「同じ方向」にむかせるには、「さからったら怖い」先生の方が重宝されます。言い換えれば、同じ能力、同じ情熱であれば、いじめられっ子ぽい人よりいじめっこぽい人の方が重宝されてしまいます。
 
 いじめっこ「ぽい」人も一歩間違えれば、現実の加害者になりえますし、「ぽい」人を多数とれば、間違えていじめっこ「そのもの」の人を採用する可能性も結局は増えてしまいます。このような人物を採用しなくていいようにするには、また、「ぽい」人が「そのもの」化しないためにはどうすればいいのでしょうか。

 
●今の制度の限界と新制度は。。。
 今の制度は概ねこのような制度です。
①35人から40人までが上限の学級
②能力もやる気も違う人が常時同じ時間を過ごす学級
③基本毎日同じ顔を突き合わす学級
+α
不法行為も学校内での解決が求められる学校

です。
 これらを変えないと児童生徒教師問わず学校での虐待事件は後を絶たないように思われます。そこで管理人として選択肢を考えてみました。

①学級上限20人
 まだ、これならいろんな子がいる中での学級が「さからったら怖い」を比較的比重を少なくして成り立つ限界でしょうか。
 教室を増やしたり改修したり、教師を雇う費用がかさみます。

②習熟度別の授業
 ある程度できる子は、先に進めることで、退屈さや不満は少なくなります。できるけど塾に行けない子にもチャンスが広がります。できない子をどれだけ手厚くできるかは、さける人員がどれだけかによるものと思われます。

③+α 学級制の撤廃と全科目専科制
 人間は閉鎖された環境で不法行為も外に出なければ、いじめは起きます。そのために人の流れを流動的にして、「仲良しを強制されない」という環境を作るというものです。
 こう聞くと有効な気がしますが、管理人には具体的なイメージがわきません。社会学者の内藤朝雄氏などが主張しています。

●-疑いの目を政(まつりごと)に-
 もはや、一人一人の先生方の努力だけではこのような虐待事件を減らすことはできないと思われます。ましてや、神戸方式害悪論という愚論だけで対処するのはもっての他のように思います。
 しかし、このような教育に例えば政治に携わる人が本気で取り組んでくれるという期待は、しないほうがいいと思われます。公教育の充実は給与の高い仕事や社会的影響力のある仕事につくチャンスを、今はそうでない家の子に与えるものです。今、高い給与をもらっていたり、社会的影響力のある人が、自分の身内意外にチャンスを与えるようなことを、わざわざするとは到底思えません。
 不祥事を好機として自分に都合のいい人間を作り出すための改革の可能性も高いでしょう。このような疑いの目で政(まつりごと)をする人を見ることが、政(まつりごと)をする人に対する本当の礼儀と言えるでしょう。

月刊「祭」管理人

 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

222.昔から今へ受け継がれた伝統-韓国全羅道南原市の石像の特徴3/3-(月刊「祭」2019.11月7号)

2019-11-06 23:03:00 | コリア、外国
●韓国南原市の観光名所
 今回は韓国南原市(詳しくは、ウィキpディア)内にある二つの観光名所-廣寒楼苑と萬福寺跡-の石像の特徴についてです。石像をいきなり出す前にそれぞれの観光地の簡単な紹介をします。今回はそれぞれの石造の特徴についてです。

●萬福寺趾、만복사지、マンポクサジ
(アクセスウェブページともに同じサイト)
  記事

●廣寒楼苑・カンハルルウォン・광한루원
(アクセス、ウェブページ<日本語韓国語(한국어)>)

●萬福寺趾の石像
 元々、前の記事に紹介した竿頭支柱の前に立てられていたそうです。裏面には穴が開けられており、同様のものがもう一体あったそうです。よって、幡のようなものを立てる役割もこの石像はしていたことが推測されます。入り口にあり、一対の石像だったことを考えると、仁王像のようなものと考えられるでしょう。
 よく見ると、この像は斜めを向いていることがわかります。
 









●廣寒楼苑北川の石造
 場所は下の地図の通り、廣寒楼苑の北側にあります。南原城の南門趾を表す石碑としてたてられていました。裏側には文字がはっきりと読めませんでしたが、「南原の沿革」が西暦年代で書いてあり、1981年のものが一番新しい年代になります。よって、1981年以降に作られたものですが、やはりこれも斜めを向いています。






●受け継がれた?伝統
 萬福寺の石人像は、何年に建てられたものかはわかりません。ですが、わざわざ案内板が書かれるくらいなので、案内板が書かれた時代に生きている方が生まれる前にはすでに立てられていたものであるとは、考えられます。一方で南原城趾のものは、1981年以降であることは確実で、いわゆる「現代」に建てられたものと言えます。
 しかし、時を経ても
 ①門前に建てられる
 ②斜めを向いている
 という「南原萬福寺式」の石像は受け継がれたと言えるのかもしれません。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

221.家島と坊勢の屋台とその周辺の文化(月刊「祭」2019.11月6号)

2019-11-06 22:59:00 | 屋台・だんじり・神輿-衣装、周辺用具、模型-
●播磨灘に浮かぶ島々
 播州で、祭月といえば、多くの人が十月を祭月と考えることと思います。しかし11月始めの連休に、姫路市の灘や飾磨、網干の海の向こうに見える島で、祭が行われます。その文化の特色を探っていきます。
 
家島

真浦神社(アクセス、祭礼日11月2.3日)

宮浦神社(アクセス、祭礼日11月2.3日)
坊勢島
恵美酒神社(アクセス、祭礼日11月3.4日)
 
 
 
●花でかざられた神輿
 屋台と一緒に子ども神輿が巡行し、ここにたくさんの花(ご祝儀をくれた方の名前を書いた紙)が飾られます。子ども神輿は神輿屋根型屋台を模したものがほとんどで、祭神が乗っているのかどうかは管理人は確認していません。

↑真浦神社の子ども神輿

↑宮浦神社の子ども神輿

 

↑恵美酒神社の屋台にも
 子ども神輿にも同様についていました。
 
●衣装

↑家島真浦神社

↑家島宮浦神社

↑坊勢島恵美酒神社
 
 上の写真で練り子を見ると衣装に坊勢島と家島の共通点はないように見えます。しかし、細かいところは共通しているところが見られました。
 
タオル
 泉州ではタオル巻きがよくされており、昨今では若い人を中心に三木市でも好んで使う人が増えてきました。
 真浦神社では緑、宮浦神社では黄色、恵美酒神社では黄色や白のものを使う人が目につきました。
 
ジャージ
 真浦神社では同じジャージを履いている練り子が見られました。宮浦神社では婦人会、子ども会、青年団で揃いのジャージを着ていました。恵美酒神社では青年団がそろいのジャージを着ていました。屋台を担ぐ時と竹割の時は特別な衣装がありましたが、女性を含む屋台を担がない団員はそろいのジャージを着ていました。
 
 

↑真浦神社
 

↑家島真浦神社
 

↑家島宮浦神社

↑坊勢島恵美酒神社
 
 

↑坊勢島恵美酒神社
 
 

浦安舞と湯たてとお守りとしての植物
 真浦神社では滞在時間が短く確認できませんでしたが、宮浦神社と恵美酒神社ともに、共通点が見られました。
 まずは、浦安舞では生演奏で太鼓と舞手の鈴で舞う演目があるようでした。
 湯たて神事も行なっているようでした。
 何の葉かは分かりませんが神事後に、葉がお守りとして宮浦神社では配られていました。恵美酒神社では、取り合いになると聞きました。
 

↑宮浦神社の湯たて神事
 

↑宮浦神社での植物の配布
 
●若い人たちが元気な島の祭
 現在の島と言えば、過疎化をすぐにイメージしがちです。聞くところによると、やはりこの2つの島でも人口は減っているそうです。また、坊勢島の竹割やのぼりの地付きは、もっと太いものを力一杯していたということも聞きました。
 しかし、2つの島では若い人が非常に元気に祭りをしているように見えました。それは、姫路市と比較的短い時間で渡れることと、かつて住んでいた人が島で過ごした楽しい思い出が大きく関係しているのかもしれません。
 「魚釣り」と「祭り」2つの「つり」がおすすめの島です。
 
*坊勢島のラーメン屋が12月に「相席食堂」という芸人コンビ千鳥の番組で、紹介されるそうです。撮影したのは、11月2日の祭の1日前で、アンミカさんが来られたそうです。同じく岡山県の離島出身の大悟さんと坊勢島の「島コラボ」が見ものです。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

220.姫路市家島の屋台の脇棒(月刊「祭」2019.11月5号)

2019-11-05 18:17:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
家島の屋台
 播磨灘に浮かぶ家島では11月2日、3日に屋台が出る祭が二つの神社(真浦神社、宮浦神社)で行われます。その屋台のとある特徴を見ていきます。その特徴について、真浦神社で問題提起をして、宮浦神社で考察します。
 
 
真浦神社(アクセス、祭礼日11月2.3日)
 二台とも小型の神輿屋根型屋台ですが、従来の神輿屋根型屋台より脇棒が長くなっています。



宮浦神社(アクセス、祭礼日11月2.3日)
 こちらの方は一見脇棒の短い仕様に見えますが、例えば大きめの屋台で知られる英賀神社の春日若倉の屋台よりも長い脇棒になっています。なぜこのようになっているのかは、本棒にありそうです。





 本棒の先端は鉄のカバーがついていました。聞いたところ、購入した際は屋台を収蔵する建物が小さく、本棒が入り切らず棒を切ったそうです。
 やがて大きな屋台蔵がたち、カバーをつけて本棒に鉄のカバーをつけて元の長さに戻したとのことです。そして、ここからは管理人の推測ですが、本棒が短くなった分、脇棒を伸ばして担ぎにくさを補ったものと思われます。


再び真浦神社の屋台について
 同じ島内の屋台は、本棒と脇棒が同じ長さだったのでそれと同様のものを購入か作るかしたものと管理人は考えます。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

219.少なくなってきた薄い屋根の屋台(月刊「祭」2019.11月4号)

2019-11-05 08:42:09 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の工芸、新調、改修、修復-
●薄い屋根
 三木市をはじめとして、平屋根三段の屋台が分布している地域では、屋台の顔はやはり屋根になります。また、屋台本体を改修せずとも比較的手軽に改修しやすい部分でもあります。
 屋台をうごかしているとどうしても大きな屋台を動かしたいというのが、正直なところです。 そのような中で、「センベイ屋根」と呼ばれる昔ながらの味わい深い屋根で運行している屋台も今はずいぶん数少なくなりましたが、いくつか残っています。
 かつてはセンベイ屋根とも呼ばれた薄い屋根の屋台を見ていきます。
 
●三木市
岩壺神社
(アクセス、祭礼日体育の日の次の土日)
東條町
 松本義廣作の欄間彫刻を近年購入しました。黒い布団台に透かしの金具などで、従来のバランスの良さをくずさない改修となりました。名工の欄間彫刻を見事なバランスで、組み入れているのを見た驚きは今も忘れられません。



滑原町
 小型の屋台から名作を結集した大人屋台になり、はや20年が過ぎました。2014年の市政60周年記念イベントでは、屋台の紹介でもバランスを意識した屋根であることがアナウンスされました。



大手町
 もともとは吉川の屋台ですが、昨今泥台を改修しました。螺鈿細工もひきついでいます。詳しくはこちら


三坂神社(加佐)
(アクセス、祭礼日5月2.3日)
加佐東
 精巧な彫刻が残っています。また、龍の天蓋彫刻が屋台四本柱内の天井に見られます。もともとは、たくし上げる仕様の水引を使用しており、差し上げたら見える仕掛けになっていたと思われます。


 
神戸市
淡河八幡神社
(アクセス、祭礼日10月第一日曜日)
海女の玉取りなどの人物物の金具や、橘正義の欄間や雲板彫刻が、薄い布団とよく合います。詳しくはこちら


 
加古郡稲美町
印南住吉神社(アクセス、祭礼日10月第一土曜とその翌日)
 
印西屋台
 精巧な彫刻と縫い物が薄い屋根によく合います。虹梁が反り返り狭間彫刻の上下幅は狭くなっています。


 


●少しずつ減る薄屋根屋台
 祭がさかんになるにつれ、屋台は大きくなります。その時にどうしても手をつけやすくなるのが、屋根です。比較的安価に大型化でき、祭が盛んなところほど屋根が大きくなる傾向が見られます。
 古い物好きの管理人としては、薄い屋根の屋台に魅力を感じており、末長く残って欲しいと願う次第です。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

218.萬福寺趾-韓国の石仏文化-南原市の石像の特徴2/3(月刊「祭」2019.11月3号)

2019-11-03 20:15:00 | コリア、外国
●韓国南原市の観光名所
 今回は韓国南原市(詳しくは、ウィキpディア)内にある二つの観光名所-廣寒楼苑と萬福寺跡-の石像の特徴についてです。石像をいきなり出す前にそれぞれの観光地の簡単な紹介をします。今回は萬福寺趾の紹介です。基本は案内文の日本語訳になります。

1 萬福寺趾、만복사지、マンポクサジ
(アクセスウェブページともに同じサイト)
 うえのリンク先は簡潔に分かりやすく萬福寺跡の概要が書いてあります。下の文章を読んで分かりにくい方は上のリンクへ^_^  とりあへず、管理人は案内板を訳してみます。である体はですます体になおしました。
 訳の部分は---これより---線と---これまで----の間とします。また、各宝物に関しては、全訳ではなく要約とします。

---これより----
●萬福寺趾
史跡第349号 
全羅南道南原市 ヴァンジョン洞
 ここは高麗の文宗帝(1046-1083)の時代に、初めて萬福寺がつくられた場所です。
はじめてつくられた時、境内には銅製の仏像を安置した二層の法堂と五重木塔があったと伝わっています。近年の発掘調査によると、朝鮮時代に萬福寺は中心に木塔を擁し、東、西、北側に法堂を擁する一塔三金堂式の配置だったことが分かりました。この寺刹は、金シスプの小説「金鰲(日本語読みだとキンゴウ)新話」に載っている「萬福寺樗浦記(日本語読みだとチョホキ?)」の舞台としてもよく知られています。朝鮮中期まで繁栄した萬福寺は丁酉再乱(慶長の役・1597)で灰塵に帰しました。長い年月を経ても残った石塔と石の遺物いくつかが、寺院の面影を残しており、断片的に当時の面影を窺い知ることができます。

境内の国家指定文化財
五重石塔(宝物第30号)
石造台座(宝物第31号)
幢竿支柱(宝物第32号)
石造如来立像(宝物第43号)
---これまで---

 一塔三金堂形式の伽藍配置は、日本では飛鳥寺(法興寺)がかつてそうだったと発掘で判明しました。韓国では慶州市などいくつか例が残っています。
 三金堂ではかつての興福寺がそうでしたが、興福寺は三金堂二塔もいえる東西に塔がたっています。




↑看板越しに北側を見ました。

↑寺院の立地については日を改めて。

●五重石塔(宝物第30号)
---これから---
高麗時代に作られたもので、背の高い基壇のうえに五重に屋根が連なっています。屋根の最上部は長い年月で落ちてしまいました。1968年の修理の時に一層目から仏舎利用の箱が見つかりました。高麗時代らしい簡素な作りですが、二層目より屋根と各層の間に石板があるのが特徴的です。





●幢竿支柱(宝物第32号)
 

---これより---
 幢は寺院で行事を施行する時に門前に掲げる一種の旗で、そこには仏の功徳を称える絵を、描いていました。幢竿支柱は旗の竿を支えるためにつくられた柱です。
 この幢竿支柱は高麗時代に巨大な石を飾り気なく打って整え、どっしりとしながら素朴な味わいを漂わせています。地中に埋まっている部分も考慮に入れると全高は5mほどになると思われます。
 巨大な幢竿支柱から旺時の萬福寺の様子が思い浮かぶようです。
---ここまで---



●石造台座(宝物第31号)
---ここから---
この石座は仏像を安置していた六角形の土台で、萬福寺の創建と共につくられたものと考えられています。下の部分は花の装飾を含む象の目模様(眼象)があしらわれ、その上に蓮華が彫られています。中間部は下部より幅が狭くなっていて、各縁に短い柱模様が彫られています。上部は再び幅が広がり、側面は蓮華で飾られています。上底面には仏像を固定するための穴が開けられています。この石座は高さ1.4mほどの一つの岩から作られており、六角形が特徴的です。
---ここまで---
 建物の中心あたりと思われる場所にありました。つまり、その建物の中心仏の台座が石でできていたことになり、木製や漆喰、銅がおもな材料となる日本の違いが見れて面白いです。
 また、次に書く石仏のことを考えるとこの台座上の仏像も石仏の可能性は高く、建物内の主尊仏が木や漆喰などで作られることが多い日本との違いがより際立ちます。







●石造如来立像(宝物第43号)
 この仏像は高麗時代に萬福寺が創始された時に作られたもので、岩に仏像なの立っている作品です。仏像の背部には体から発光している様子を表した光背が彫刻されていますが、うえがの一部は欠損していますす。頭部の輪郭ははっきりしており、巻髪は簡略に表現されています。顔は温和で慈愛に満ちており微笑みを浮かべ、まるで生きているようです。肩から柔らかに流れる衣装とスムーズな曲線を描く体つきとよく似合い、自然体でありながら優雅な雰囲気を醸し出しています。後面には仏の立ち姿が線刻されています。








🇰🇷韓国の仏教文化と石🇰🇷
 韓国の仏教文化には日本より多く石を利用しています。
 たとえば、日本では塔は木造の建造物を好んでつくるのにたいして韓国では、石塔でそれを表したりしています。また仏像でもその堂の主尊となるのは、日本では木造仏であるのに対して韓国では石造台座に見られるように大規模な建造物の中心仏として石仏が用いられることもあったようです。
 萬福寺趾は、日韓の仏教文化のちょっとした違いも教えてくれます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

217.金物神社の村の鍛冶屋(月刊「祭」2019.11月2号)

2019-11-03 01:24:00 | 旅行案内
●金物神社
 三木金物物販協同組合の呼びかけで、昭和十年(1935)に建てられたそうです。

↑神社境内に金物資料館もあります。

↑昭和九年にできた手水鉢。神社創建に先立ってできたようです。

↑本殿は現在工事中でした。

↑古式鍛錬を毎月第一日曜日に行っているそうです。

↑村の鍛冶屋の歌詞碑


↑金物神社を出るとこんなかんじで「村の鍛冶屋が流れます。
 悲劇の青年君主がいらっしゃった三木城の跡に、復興の象徴の音楽が流れます。

金物まつりについては↓



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする