人は何かを‘信じる’生き物だ。
人によってはそれが「神仏」や国家、恋人や家族の愛で
あったり、師の教えや友の友情だったりする。
人は意識しようとしまいと、実はこれら
‘不確か’なものを‘信じて’生きているのだ。
しかし、人は往々にその‘信じる’という行為の主体が
自分自身であるということを忘れていることがよくある。
信じるということは、その信ずるに値するものを、自らが
勝手に信じているだけのことで、自分に対して客観的に
存在するものへの一方的な期待感である場合が多いのだ。
このことに気が付いていないから、人は信じていたものに
裏切られると、怒り、恨み、苦しみ、悲しい気持ちになる。
自分が勝手に自分の責任において‘信じた’だけのことなのに。
よく人は「信頼」という言葉を使う。これも同じだ。
自分とは相対的な相手(他者)に一方的に期待し、それが
自分の思い通り、期待通りにならないと「信頼を裏切られた」
簡単に言ってしまう。
つまり、信じるという行為の主体を履き違え、他者の心情に
全面的な主体を置いてしまい、自分の全く都合のいい勝手な
期待と異なる結果になると、その責任を全面的に他者に押し付ける。
以前、私もこれと同じ感情を抱いた経験がある。
激しい怒りと失望のあとに、絶望的な疎外感と孤独感が
私の心を深く覆った。
その時‘師’の言葉が私を救った。
「自分と他者は孤立して個別に存在するものではなく、
一切は自己同一し、他者の中に自分を観ろ」
師は信頼などは、相手に一切の責任を押し付ける無責任な感傷的、
幻想的な期待感で、その思考には自己の責任が全くなく、
自己を観ることも全く欠けていると言う事を言いたかったのだと
思った。
信じることは他者の責任においてではなく、自分の責任において
生ずるという事実を教えられた私はそれまでの自分の身勝手な
考え方を大いに恥じた。
自分の責任において勝手に他者を‘信ずる’。
それは自分も含めて人間は必ず向上しようと欲する生き物だと
いう絶対次元での確信に基ずく‘信頼’なのかもしれない。
‘信じる’という不確かものを絶対の確信へと感じられる、
その日が来るまで私の人生修行は果てしなく続くのだ。
人によってはそれが「神仏」や国家、恋人や家族の愛で
あったり、師の教えや友の友情だったりする。
人は意識しようとしまいと、実はこれら
‘不確か’なものを‘信じて’生きているのだ。
しかし、人は往々にその‘信じる’という行為の主体が
自分自身であるということを忘れていることがよくある。
信じるということは、その信ずるに値するものを、自らが
勝手に信じているだけのことで、自分に対して客観的に
存在するものへの一方的な期待感である場合が多いのだ。
このことに気が付いていないから、人は信じていたものに
裏切られると、怒り、恨み、苦しみ、悲しい気持ちになる。
自分が勝手に自分の責任において‘信じた’だけのことなのに。
よく人は「信頼」という言葉を使う。これも同じだ。
自分とは相対的な相手(他者)に一方的に期待し、それが
自分の思い通り、期待通りにならないと「信頼を裏切られた」
簡単に言ってしまう。
つまり、信じるという行為の主体を履き違え、他者の心情に
全面的な主体を置いてしまい、自分の全く都合のいい勝手な
期待と異なる結果になると、その責任を全面的に他者に押し付ける。
以前、私もこれと同じ感情を抱いた経験がある。
激しい怒りと失望のあとに、絶望的な疎外感と孤独感が
私の心を深く覆った。
その時‘師’の言葉が私を救った。
「自分と他者は孤立して個別に存在するものではなく、
一切は自己同一し、他者の中に自分を観ろ」
師は信頼などは、相手に一切の責任を押し付ける無責任な感傷的、
幻想的な期待感で、その思考には自己の責任が全くなく、
自己を観ることも全く欠けていると言う事を言いたかったのだと
思った。
信じることは他者の責任においてではなく、自分の責任において
生ずるという事実を教えられた私はそれまでの自分の身勝手な
考え方を大いに恥じた。
自分の責任において勝手に他者を‘信ずる’。
それは自分も含めて人間は必ず向上しようと欲する生き物だと
いう絶対次元での確信に基ずく‘信頼’なのかもしれない。
‘信じる’という不確かものを絶対の確信へと感じられる、
その日が来るまで私の人生修行は果てしなく続くのだ。