京都の洛中、河原町二条を鴨川に向かい東へ
入った所に流れている小さな川が高瀬川です。
高瀬川は保津川下りの生みの親・角倉了以と素庵の親子の
手によって慶長19年(1614)に開削された人工の運河です。
さかのぼること8年前、保津川の開削に成功し丹波地方の
豊富な農作物や産物を舟で輸送する事業を始めた角倉親子は
今度、京都の中心部から伏見港を運河により結ぶことを計画、
東横を流れる鴨川の水を引き込み、約10.5キロメートルを
3年掛けて開削し、伏見港まで結ぶことに成功しました。
また伏見港に着いた物資は、淀川を経て大坂まで船で
運ばれ京都と大坂を結ぶ物資輸送ルートが整備されました。
この高瀬川の完成により京都と大阪が直接水運で結ばれ
近世京都の経済は大きく発展しました。
丹波の物資を保津川で京都へ、京都の物資を高瀬川から伏見へ
そして淀川を下り大坂へ。また高瀬川は保津川とは異なり、人工に
開削した流れの穏やかな真っ直ぐな運河なので、帰りは大坂から
の物資も引き上げられて来たそうです。
いずれにしても高瀬川の完成で丹波・京都・大坂さらに海航路で
西国までという西日本最大の物資流通ルートが整備されたのです。
高瀬川の名前の由来は「高瀬舟」という種類の舟がだけが
往来する運河だからというという単純なもの。
高瀬舟とは舳先(船の首)がグッと上へ反り上がり艫(とも)という
船尾は低く幅の広くて船底がまっ平らな河川使用の船のこと。
つまり、今の保津川下りに使用している船と同型の船です。
高瀬川で使用していた船は今、木屋町二条下ル高瀬川起点
一之舟入の史跡の所に実物大の模型船が酒樽をあしらって
浮ばせてあります。
上の写真は高瀬川の起点・一之舟入(いちのふないり)です。
舟入とは荷物の積み下ろしと舟の方向転換をした場所で、現在は
この一之舟入だけが川右岸側に船溜りを残しています。
深く入り込んだ掘割は、今はずいぶん縮小されたそうですが
当時の面影を充分に残し風情が漂っています。
この小さな運河が多くの物資や人を乗せ、近世京都の経済発展と
物価の安定をもたらし江戸に政治の中心が移った後の
都・京都を支ええたと思うと感慨深いものがあります。
そしてこの川は私達の保津川と同じ角倉了以・素案という
同じ親を持つ川であることにをこの上ない愛着を感じるのです。
入った所に流れている小さな川が高瀬川です。
高瀬川は保津川下りの生みの親・角倉了以と素庵の親子の
手によって慶長19年(1614)に開削された人工の運河です。
さかのぼること8年前、保津川の開削に成功し丹波地方の
豊富な農作物や産物を舟で輸送する事業を始めた角倉親子は
今度、京都の中心部から伏見港を運河により結ぶことを計画、
東横を流れる鴨川の水を引き込み、約10.5キロメートルを
3年掛けて開削し、伏見港まで結ぶことに成功しました。
また伏見港に着いた物資は、淀川を経て大坂まで船で
運ばれ京都と大坂を結ぶ物資輸送ルートが整備されました。
この高瀬川の完成により京都と大阪が直接水運で結ばれ
近世京都の経済は大きく発展しました。
丹波の物資を保津川で京都へ、京都の物資を高瀬川から伏見へ
そして淀川を下り大坂へ。また高瀬川は保津川とは異なり、人工に
開削した流れの穏やかな真っ直ぐな運河なので、帰りは大坂から
の物資も引き上げられて来たそうです。
いずれにしても高瀬川の完成で丹波・京都・大坂さらに海航路で
西国までという西日本最大の物資流通ルートが整備されたのです。
高瀬川の名前の由来は「高瀬舟」という種類の舟がだけが
往来する運河だからというという単純なもの。
高瀬舟とは舳先(船の首)がグッと上へ反り上がり艫(とも)という
船尾は低く幅の広くて船底がまっ平らな河川使用の船のこと。
つまり、今の保津川下りに使用している船と同型の船です。
高瀬川で使用していた船は今、木屋町二条下ル高瀬川起点
一之舟入の史跡の所に実物大の模型船が酒樽をあしらって
浮ばせてあります。
上の写真は高瀬川の起点・一之舟入(いちのふないり)です。
舟入とは荷物の積み下ろしと舟の方向転換をした場所で、現在は
この一之舟入だけが川右岸側に船溜りを残しています。
深く入り込んだ掘割は、今はずいぶん縮小されたそうですが
当時の面影を充分に残し風情が漂っています。
この小さな運河が多くの物資や人を乗せ、近世京都の経済発展と
物価の安定をもたらし江戸に政治の中心が移った後の
都・京都を支ええたと思うと感慨深いものがあります。
そしてこの川は私達の保津川と同じ角倉了以・素案という
同じ親を持つ川であることにをこの上ない愛着を感じるのです。