木屋町二条・高瀬川一之舟入の斜め向かいに大きな
石垣が積まれた立派な屋敷が建っています。
このお屋敷今は「がんこ高瀬川二条苑」という料理屋さんに
なっていますが以前ここは保津川下りの生みの親
角倉了以・素庵親子の別邸だった建物なのです。
嵯峨に住いを構えていた了以は慶長16年(1611)
高瀬川開削事業の着手を機に同地に邸宅を建築しました。
一之舟入の周囲には角倉家の役所が幕府の公認を得て設置
され、このあたりをいつのまにか角倉町と呼ばれる様になりました。
今は日本銀行の京都支店になっています。
高瀬川開削に成功した了以は保津川と同じく幕府から許可を得て
京都~伏見港までの航行権を取得、徳川300年間、この
運河を支配下に置き代々角倉家は隆盛を極めたといわれます。
了以・素庵親子亡き後、角倉家は保津川を管理する「嵯峨角倉家」
と高瀬川を管理する「京角倉家」に分かれ水運事業を進めましたが
大坂など大きな経済圏と結ばれる高瀬川の流通が盛んになった事で
いつしか「京角倉家」が「本家」と呼ばれるようになったそうです。

高瀬川源流となる取水口にあたる邸宅内には、鴨川から引き入れた
水を利用した池泉回遊式庭園が整備されており、周囲の木々や
石灯籠などがすんなり自然に溶け込み風情を醸し出しています。
明治維新後、角倉家は高瀬川支配を罷免され、京都府に移管されました。
了以別邸はその後、明治の元勲・山縣有朋の別邸「第二無鄰庵」や
第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸、阿部信行首相別邸など
時の権力者の別邸として使用され現在まで保存されてきたのです。
石垣が積まれた立派な屋敷が建っています。
このお屋敷今は「がんこ高瀬川二条苑」という料理屋さんに
なっていますが以前ここは保津川下りの生みの親
角倉了以・素庵親子の別邸だった建物なのです。
嵯峨に住いを構えていた了以は慶長16年(1611)
高瀬川開削事業の着手を機に同地に邸宅を建築しました。
一之舟入の周囲には角倉家の役所が幕府の公認を得て設置
され、このあたりをいつのまにか角倉町と呼ばれる様になりました。
今は日本銀行の京都支店になっています。
高瀬川開削に成功した了以は保津川と同じく幕府から許可を得て
京都~伏見港までの航行権を取得、徳川300年間、この
運河を支配下に置き代々角倉家は隆盛を極めたといわれます。
了以・素庵親子亡き後、角倉家は保津川を管理する「嵯峨角倉家」
と高瀬川を管理する「京角倉家」に分かれ水運事業を進めましたが
大坂など大きな経済圏と結ばれる高瀬川の流通が盛んになった事で
いつしか「京角倉家」が「本家」と呼ばれるようになったそうです。

高瀬川源流となる取水口にあたる邸宅内には、鴨川から引き入れた
水を利用した池泉回遊式庭園が整備されており、周囲の木々や
石灯籠などがすんなり自然に溶け込み風情を醸し出しています。
明治維新後、角倉家は高瀬川支配を罷免され、京都府に移管されました。
了以別邸はその後、明治の元勲・山縣有朋の別邸「第二無鄰庵」や
第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸、阿部信行首相別邸など
時の権力者の別邸として使用され現在まで保存されてきたのです。