今年最後のビックイベントだったクリスマスも終り、いよいよ年の瀬が押し迫ってきました。
街中をキラキラ美しく飾ったクリスマス・イルミーションの灯も落ち、
一気に街はお正月へ‘和’の装い一色へ移ってきました。
ショッピングセンターの飾りも「ツリーから門松へ」模様替えがはじまり、
ディスプレイ屋さんも大忙しいといったところでしょうか。
ワクワク、華やいだクリスマスムードから、年の瀬へ向かう、
あわただしさの中に去りゆく年の姿を感じさせられます。
一年の中でこの時ほど、一夜で街の雰囲気が一変し、気持ちが
切り替わる季節はないと思います。
一夜にして‘洋’風から‘和’風へと街の風景を変化させるだけではなく、
神様も‘イエス様’から‘八百万の神々’へと変えても全く違和感なしに
受け入れてしてしまうの日本人独特の宗教観並びに精神構造を見る思いがします。
でもこのような精神構造を根底に持つ国民性だからこそ、日本人は有史以来、
中国や欧米などの最先端の科学技術や政治体制を謙虚に学び取り入れる姿勢が
生まれ、明治以降はアジアで最初の経済発展・技術的進歩を図ることが
可能だったのでしょう。
他国の宗教や文化であっても、いいものや楽しいもの、興味を引くものなら
こだわることなくすんなり受け入れ、自らの文化と融合させ独自のアレンジ文化を
創造してきたことは異論のないところであり、またいい所取りでいい加減な中途半端なものを
創るのではなく、世界に通用する完成度の高いものに創造していく
そのテクニックには脱帽さされます。
そういえば、
「その人種の歴史的に受け継がれた思考も遺伝情報に組み込まれ、今の人の心の動き作用する」
と遺伝子の専門家の方に聞いたことがあります。
日本という国は、古代国創りの時から‘八百万の神々’によって建国された
神話を持つくらいですから、色んな神様がその時代、場面に登場しても、よい
作用を起こすものなら、何の違和感もなく受け入れる「DNA」が組み込まれて
いるのかもしれませんね。
「精神的な支柱となる神聖であるべき‘祈る対象’をコロコロと
変えるのはいい加減な人種の表れ」という批判も確かによく耳にします。
しかし、この柔軟さとバランス感覚が健全である限り、世界中の不幸や悲劇の
原因となっている原理的な宗教紛争や狭少なナショナリズムも日本には育ちにくく、
常に広い視野で共通点を見つけ出し、その中から新しい感性や発想を生み出す
土壌が根づく精神は、これからの国際社会で最も求めれらる‘モデル’
となるのではないでしょうか?
現にキリスト教の聖地・バチカンにあるローマ法王庁では
「カトリックによる他宗教のとの対話」が積極的に行われていますし、
民族の壁を取り払う活動も世界的規模で広がりを見せています。
地球が迎える「新時代の主軸」となるひとつの精神モデルを、日本は
明確に示していける立場にあると考えるのは私だけではないはず・・・
街の装いがめまぐるしく移り変わる姿を眺めながら、日本人の持つ伝統的な
精神構造の‘コア’な部分を探るという、なんとも大げさな思考展開
となりましたが、慌しいこんな時でも、少し立ち止まり‘自分のアイデンティティ’
という、暇な思考遊びにふけるゆとりを持つのもまんざら悪くないと
感じるのでした。
街中をキラキラ美しく飾ったクリスマス・イルミーションの灯も落ち、
一気に街はお正月へ‘和’の装い一色へ移ってきました。
ショッピングセンターの飾りも「ツリーから門松へ」模様替えがはじまり、
ディスプレイ屋さんも大忙しいといったところでしょうか。
ワクワク、華やいだクリスマスムードから、年の瀬へ向かう、
あわただしさの中に去りゆく年の姿を感じさせられます。
一年の中でこの時ほど、一夜で街の雰囲気が一変し、気持ちが
切り替わる季節はないと思います。
一夜にして‘洋’風から‘和’風へと街の風景を変化させるだけではなく、
神様も‘イエス様’から‘八百万の神々’へと変えても全く違和感なしに
受け入れてしてしまうの日本人独特の宗教観並びに精神構造を見る思いがします。
でもこのような精神構造を根底に持つ国民性だからこそ、日本人は有史以来、
中国や欧米などの最先端の科学技術や政治体制を謙虚に学び取り入れる姿勢が
生まれ、明治以降はアジアで最初の経済発展・技術的進歩を図ることが
可能だったのでしょう。
他国の宗教や文化であっても、いいものや楽しいもの、興味を引くものなら
こだわることなくすんなり受け入れ、自らの文化と融合させ独自のアレンジ文化を
創造してきたことは異論のないところであり、またいい所取りでいい加減な中途半端なものを
創るのではなく、世界に通用する完成度の高いものに創造していく
そのテクニックには脱帽さされます。
そういえば、
「その人種の歴史的に受け継がれた思考も遺伝情報に組み込まれ、今の人の心の動き作用する」
と遺伝子の専門家の方に聞いたことがあります。
日本という国は、古代国創りの時から‘八百万の神々’によって建国された
神話を持つくらいですから、色んな神様がその時代、場面に登場しても、よい
作用を起こすものなら、何の違和感もなく受け入れる「DNA」が組み込まれて
いるのかもしれませんね。
「精神的な支柱となる神聖であるべき‘祈る対象’をコロコロと
変えるのはいい加減な人種の表れ」という批判も確かによく耳にします。
しかし、この柔軟さとバランス感覚が健全である限り、世界中の不幸や悲劇の
原因となっている原理的な宗教紛争や狭少なナショナリズムも日本には育ちにくく、
常に広い視野で共通点を見つけ出し、その中から新しい感性や発想を生み出す
土壌が根づく精神は、これからの国際社会で最も求めれらる‘モデル’
となるのではないでしょうか?
現にキリスト教の聖地・バチカンにあるローマ法王庁では
「カトリックによる他宗教のとの対話」が積極的に行われていますし、
民族の壁を取り払う活動も世界的規模で広がりを見せています。
地球が迎える「新時代の主軸」となるひとつの精神モデルを、日本は
明確に示していける立場にあると考えるのは私だけではないはず・・・
街の装いがめまぐるしく移り変わる姿を眺めながら、日本人の持つ伝統的な
精神構造の‘コア’な部分を探るという、なんとも大げさな思考展開
となりましたが、慌しいこんな時でも、少し立ち止まり‘自分のアイデンティティ’
という、暇な思考遊びにふけるゆとりを持つのもまんざら悪くないと
感じるのでした。