近世の京都。日本の近代商業システムをつくりあげたと言われる実業家が生まれた。
その名は角倉了以。
時代の最先端の知識と技術で、経済構造の先を読み、当時では先進的なグローバル感覚と価値観に基づき、ビジネスを展開した、日本が誇るべき実業家だ。しかし!
その人物を紹介した史料は乏しく、故林屋辰三郎先生の著作以外にほどんどないのが現状だ。
「なぜ、歴史の表舞台に紹介されないのか?」
これは「角倉一族」の研究が進めれた国際日本文化研究センターの研究会でもよく議論に挙がっていた。
「彼は事業家だから史料は残ってない」とか「角倉家は幕末に幕臣になっていたから、新政府の歴史では省かれた」
また「江戸期の火災で史料が消滅している」などの学問的見地から意見が出された。
だが、宗家である「嵯峨の吉田家」は足利将軍の主治医を任された医家の名門であり、
祖父や父は三条家や山科家などの公卿や文化人の書き物に、その名が頻繁に記されている。
その力の源は土倉や酒屋などで培った財力だ。
それを引継ぎ、さらに日本規模の財力までに発展させた了以の史料は、もっと存在していいはずだ。
まさに、何か意図的に記録が消されたように了以の史料は少ないのだ。
一説には了以自らが「我が業績を称えることなかれ」と子孫に戒めたともいわれる。
河川開削により舟運が開通し、流域の各地域が経済発展をしても了以は
「この水運を誰が開いたなど、忘れられていい。ただ、それで便宜する人々が増えれば充分。」
と言っていたとも伝えられている。
了以ほどの人物の偉業が世に知られていないのか?その事実に迫るなど、私にはおこがましいことであり、
了以の本意ではないかもしれない。でも、これからも「了以」を追いかけることは止められそうにない。
了以をはじめとする角倉一族の実像とその企業家精神の価値を、現代の日本人、また世界の人々に問いかけていきたい。
この気持ちの発露が「了以伝」を書こう思う、最も大きな動機なのだ。
その名は角倉了以。
時代の最先端の知識と技術で、経済構造の先を読み、当時では先進的なグローバル感覚と価値観に基づき、ビジネスを展開した、日本が誇るべき実業家だ。しかし!
その人物を紹介した史料は乏しく、故林屋辰三郎先生の著作以外にほどんどないのが現状だ。
「なぜ、歴史の表舞台に紹介されないのか?」
これは「角倉一族」の研究が進めれた国際日本文化研究センターの研究会でもよく議論に挙がっていた。
「彼は事業家だから史料は残ってない」とか「角倉家は幕末に幕臣になっていたから、新政府の歴史では省かれた」
また「江戸期の火災で史料が消滅している」などの学問的見地から意見が出された。
だが、宗家である「嵯峨の吉田家」は足利将軍の主治医を任された医家の名門であり、
祖父や父は三条家や山科家などの公卿や文化人の書き物に、その名が頻繁に記されている。
その力の源は土倉や酒屋などで培った財力だ。
それを引継ぎ、さらに日本規模の財力までに発展させた了以の史料は、もっと存在していいはずだ。
まさに、何か意図的に記録が消されたように了以の史料は少ないのだ。
一説には了以自らが「我が業績を称えることなかれ」と子孫に戒めたともいわれる。
河川開削により舟運が開通し、流域の各地域が経済発展をしても了以は
「この水運を誰が開いたなど、忘れられていい。ただ、それで便宜する人々が増えれば充分。」
と言っていたとも伝えられている。
了以ほどの人物の偉業が世に知られていないのか?その事実に迫るなど、私にはおこがましいことであり、
了以の本意ではないかもしれない。でも、これからも「了以」を追いかけることは止められそうにない。
了以をはじめとする角倉一族の実像とその企業家精神の価値を、現代の日本人、また世界の人々に問いかけていきたい。
この気持ちの発露が「了以伝」を書こう思う、最も大きな動機なのだ。