京都嵯峨の地で生を受けた了以は、幼きより桂川の流れをまじかに見て育った。
京の都でも一番の広さと流れを有するこの川は、嵯峨の大地を潤し、
上流部の丹波より良質な木材資源を筏流しで運び、都に恵みを届けてくれる
「親なる川」であった。
了以はこの川を眺めるたびに、ある人物を思い浮かべこうつぶやいた。
「いまの嵯峨の繁栄はこの桂川の水の恵みによるもの。我々は彼らぼ功績を忘れてはならない。」
彼らとは?「秦河勝率いる秦一族」だ。
秦氏は7世紀前半、山背国葛野(かどの)郡を本拠を活躍した渡来系豪族で、
奈良時代、聖徳太子に見出され、大和~山城の地で勢力を持っていた秦一族の族長的な人物。
「秦氏が造築したこの「葛野大堰」この堰を彼らが造らなければ、嵯峨の地はおろか、京の都すら出来てはいないだろう」
了以は幼い頃より父からよく聞かされた秦氏の活躍に、強く意識していった。
「この河勝率いる秦一族は桂川(大堰川~保津川)の流れを制し、
「京都」という新都プロジェクトの基盤となる土木・建築技術を保持していた。
地域の開拓は空想だけではできない。その計画を実行する為には確かな技術力が不可欠だ。
それを保持していたからこそ、秦氏は桓武帝をお導きし、新都を造営できたのだ。」
嵯峨はもとは「葛野郡」と呼ばれ、元々は川の氾濫原であり居住地としは敵しない
湿地帯だったが、流域は堆積物による肥沃な土壌が形成され水稲栽培をするには
願ってもない条件を満していた。
「その大地の潜在力を見抜いた河勝らの慧眼、おそるべし!、
暴れ川の桂川を自然の流れに任せていては
農耕どころか、人も安心して住めない。この流れを堰き止める大きな堰を建築し、
その水を送水することで稲作作用の灌漑用水を整備すれば、豊かな田畑に生まれ変わらせた」
その視点はまさに経済発展という視点だ。
「しかし、大雨が降れば桂川は、洪水となり、そのたびに流域は水没するうえ
、堆積土砂で流路すら安定しない。
その破壊的な悪条件が利用できるとは誰も思わないだろう。
秦氏はそこを逆手に取る「逆転の発想」で、農耕地化という突拍子ない発想に挑戦した。」
ではなぜ、このような発想が生まれたのか?
「それは秦氏が知識という武器を持っていたからだ。
高度な土木治水技術ももちろんだが、地域を潤わせるという公の精神が
根底に流れているからこそ、大きなリスクを覚悟してでも、
桂川の流れに果敢にも挑み、葛野大堰(一ノ井堰として今も機能している!)
を見事に完成させたのだ。」
「わしは、秦氏の「志」に強く惹かれるし、できることなら、
我もそのように「志」に生きたいのだ」
暴れ川を制し、堰築造事業を成功させたことで、
葛野郡は京都盆地で最も豊かな米作地帯へ開拓され、
嵯峨集落機能の基盤を確率した。
その事業には我が身、一族の繁栄だけを見ていたのではなく、地域、集落の発展という
大きな視野に立った思いがなければ、できるものではない。
その基盤の上に「長岡京」造営はもちろん「平安京」遷都があったことは間違いがない。
了以にとっては「同郷の誇り」であり「人生の目標」となる存在としてリスペクトしていた。
「嵯峨嵐山の地が景勝地として雅な風情を醸し出しているのも、
また葛野大堰の築造で川の水位が上がり、川溜まりができたことで、
都人が鵜飼や舟遊びに興じることができるのも秦氏の遺産によるものだ。」
「太古より現在まで、国の根本を支えているのは「経済」だ。
川の流れを制して大地を開拓し、豊かさを生み出すことで、
庶民は安定して暮らしていく事ができる。
政治はその上に、仕組みを作っているに過ぎない。
経済の視点抜きに、国を富ますことはできない。
経済の創造は人々を潤し、集落地域を潤し、そして末代に至るまで時代をつなぎ潤わせる。
その中から雅な文化、庶民の営みも生まれていくものだ」
「わしは秦氏のように、時代の先を読む知性と確かな技術、
その基盤を支える財力を生む経済に生きたい」
名門の医家で育った了以だが、その心には医学の道でなく、
実業という経済の道が確かに見えていた。
目の前に見える桂川の流れを見つめながら、了以の若き血潮が燃えてくるのを感じていた。
京の都でも一番の広さと流れを有するこの川は、嵯峨の大地を潤し、
上流部の丹波より良質な木材資源を筏流しで運び、都に恵みを届けてくれる
「親なる川」であった。
了以はこの川を眺めるたびに、ある人物を思い浮かべこうつぶやいた。
「いまの嵯峨の繁栄はこの桂川の水の恵みによるもの。我々は彼らぼ功績を忘れてはならない。」
彼らとは?「秦河勝率いる秦一族」だ。
秦氏は7世紀前半、山背国葛野(かどの)郡を本拠を活躍した渡来系豪族で、
奈良時代、聖徳太子に見出され、大和~山城の地で勢力を持っていた秦一族の族長的な人物。
「秦氏が造築したこの「葛野大堰」この堰を彼らが造らなければ、嵯峨の地はおろか、京の都すら出来てはいないだろう」
了以は幼い頃より父からよく聞かされた秦氏の活躍に、強く意識していった。
「この河勝率いる秦一族は桂川(大堰川~保津川)の流れを制し、
「京都」という新都プロジェクトの基盤となる土木・建築技術を保持していた。
地域の開拓は空想だけではできない。その計画を実行する為には確かな技術力が不可欠だ。
それを保持していたからこそ、秦氏は桓武帝をお導きし、新都を造営できたのだ。」
嵯峨はもとは「葛野郡」と呼ばれ、元々は川の氾濫原であり居住地としは敵しない
湿地帯だったが、流域は堆積物による肥沃な土壌が形成され水稲栽培をするには
願ってもない条件を満していた。
「その大地の潜在力を見抜いた河勝らの慧眼、おそるべし!、
暴れ川の桂川を自然の流れに任せていては
農耕どころか、人も安心して住めない。この流れを堰き止める大きな堰を建築し、
その水を送水することで稲作作用の灌漑用水を整備すれば、豊かな田畑に生まれ変わらせた」
その視点はまさに経済発展という視点だ。
「しかし、大雨が降れば桂川は、洪水となり、そのたびに流域は水没するうえ
、堆積土砂で流路すら安定しない。
その破壊的な悪条件が利用できるとは誰も思わないだろう。
秦氏はそこを逆手に取る「逆転の発想」で、農耕地化という突拍子ない発想に挑戦した。」
ではなぜ、このような発想が生まれたのか?
「それは秦氏が知識という武器を持っていたからだ。
高度な土木治水技術ももちろんだが、地域を潤わせるという公の精神が
根底に流れているからこそ、大きなリスクを覚悟してでも、
桂川の流れに果敢にも挑み、葛野大堰(一ノ井堰として今も機能している!)
を見事に完成させたのだ。」
「わしは、秦氏の「志」に強く惹かれるし、できることなら、
我もそのように「志」に生きたいのだ」
暴れ川を制し、堰築造事業を成功させたことで、
葛野郡は京都盆地で最も豊かな米作地帯へ開拓され、
嵯峨集落機能の基盤を確率した。
その事業には我が身、一族の繁栄だけを見ていたのではなく、地域、集落の発展という
大きな視野に立った思いがなければ、できるものではない。
その基盤の上に「長岡京」造営はもちろん「平安京」遷都があったことは間違いがない。
了以にとっては「同郷の誇り」であり「人生の目標」となる存在としてリスペクトしていた。
「嵯峨嵐山の地が景勝地として雅な風情を醸し出しているのも、
また葛野大堰の築造で川の水位が上がり、川溜まりができたことで、
都人が鵜飼や舟遊びに興じることができるのも秦氏の遺産によるものだ。」
「太古より現在まで、国の根本を支えているのは「経済」だ。
川の流れを制して大地を開拓し、豊かさを生み出すことで、
庶民は安定して暮らしていく事ができる。
政治はその上に、仕組みを作っているに過ぎない。
経済の視点抜きに、国を富ますことはできない。
経済の創造は人々を潤し、集落地域を潤し、そして末代に至るまで時代をつなぎ潤わせる。
その中から雅な文化、庶民の営みも生まれていくものだ」
「わしは秦氏のように、時代の先を読む知性と確かな技術、
その基盤を支える財力を生む経済に生きたい」
名門の医家で育った了以だが、その心には医学の道でなく、
実業という経済の道が確かに見えていた。
目の前に見える桂川の流れを見つめながら、了以の若き血潮が燃えてくるのを感じていた。