京都には「野」がつく地名が多くありますが、古い京都本によると
「野」のつく地名の場所は「葬送の場」だったといいます。
奥嵯峨にあるこの「化野(あだしの)の念仏寺」もそのひとつ。
元々古来より葬送方法は風葬…つまり遺骸をそのまま、この野原に捨てていました。
嵯峨小倉山麓の地、愛宕山の参道沿いのこの野に、約千百年前に野ざらしになっていた土葬仏を
弘法大師が智山如来寺という寺を建立し、埋葬して石仏を作って死者の霊を慰めました。
その後、法然上人の常念仏道場となり、念仏寺と称されました。
散乱し埋没していた多くの無縁仏の石仏は明治36年ごろに境内に集められ、
賽の(さい)河原に模して「西院の河原」と名付け現在の姿になったといわれています。
ちなみに我が家先祖の墓も‘この念仏寺’にあります。
あだしの」って珍しい呼び方は、儚さ、虚しさの意味で、
漢字では「化野」と書き「生」が化して「死」となり、
この世に再び生まれ化る事、極楽浄土に往来する願いを込めた意味だそうです。
奥嵯峨がかもし出す、静寂感は人の生死という聖俗の境をあらわしているからかもしれませんね。
「野」のつく地名の場所は「葬送の場」だったといいます。
奥嵯峨にあるこの「化野(あだしの)の念仏寺」もそのひとつ。
元々古来より葬送方法は風葬…つまり遺骸をそのまま、この野原に捨てていました。
嵯峨小倉山麓の地、愛宕山の参道沿いのこの野に、約千百年前に野ざらしになっていた土葬仏を
弘法大師が智山如来寺という寺を建立し、埋葬して石仏を作って死者の霊を慰めました。
その後、法然上人の常念仏道場となり、念仏寺と称されました。
散乱し埋没していた多くの無縁仏の石仏は明治36年ごろに境内に集められ、
賽の(さい)河原に模して「西院の河原」と名付け現在の姿になったといわれています。
ちなみに我が家先祖の墓も‘この念仏寺’にあります。
あだしの」って珍しい呼び方は、儚さ、虚しさの意味で、
漢字では「化野」と書き「生」が化して「死」となり、
この世に再び生まれ化る事、極楽浄土に往来する願いを込めた意味だそうです。
奥嵯峨がかもし出す、静寂感は人の生死という聖俗の境をあらわしているからかもしれませんね。