嵐山・亀山公園に建つ角倉了以像。
江戸時代初期に保津川(大堰川)や高瀬川に舟運を整備し、
近世の京都経済を救った恩人として建立されている。
私がこの像を眺める時、保津川下りの創設者の像だけではない、
私の過去と現在との不思議な因縁めいたつながりを感じずにはいられない。
実はこの像は二代目である。
初代は大正元年に建立されたが、第二次大戦時に金属提供に協力して取り壊され、
長く座台だけが放置されていた。
それを再建した人たちを私はよく知っている。
再建を思いつかれ、はたらきかけたのは元京都市会議員の小西恭二郎さんという
京都高瀬川が流れる立誠学区の方だった。ある日、夢に神様が出てこられ
『角倉了以像を再建し大堰川の舟運の功績を後世に伝えよ!』というお告げあったという。
そして、その為の資金提供をしたのが山段芳春氏だった。
山段芳春氏・・・この名を聞いて‘ピン!’ときた人がいたら、かなりの京都通だろう。
氏については以前このブログで詳しく書いたことがあるので、そちらを参照していただきたいが、
一時代、京都で大きな影響を持ち、様々な分野で手腕を振るった人物だ。
氏は、年老いて足元もおぼつかない小西老が、何度も通い再建資金の協力を懇願する姿に
感動し、再建計画を引き受けた。
まず、自らが主催する京都自治経済協議会の会員企業から寄付を集めると同時に
当時、名物市会議員であった木俣秋水氏に声を掛け、政界への協力を依頼した。
この木俣秋水氏こそ、学生時代、書生的にジャーナリズム論や政治学を指導してもらい、
前職である新聞記者になるきっかけをつくって下さり、師と仰いだ方であった。
山段氏と木俣師。
若き多感な時期に、私が邂逅した人物二人の尽力により
亀山公園の角倉了以像は昭和63年5月28日、再建され今日に至っている。
私が新聞記者を辞め、20年が経とうとしている。
私は今、角倉了以が興し、唯一現存している事業・保津川下りで働いている。
そして、その立場でこの亀山公園の角倉了以像を眺めている。
像の横に建つ石碑に刻まれた名を眺めていると当時のエピソードが
スライドショーの様によみがえる。
この亀山公園の角倉了以像は、了以を軸に、自分の「過去」と「現代」が
一つの線でつながる、大切な場所でもあるのだ。
江戸時代初期に保津川(大堰川)や高瀬川に舟運を整備し、
近世の京都経済を救った恩人として建立されている。
私がこの像を眺める時、保津川下りの創設者の像だけではない、
私の過去と現在との不思議な因縁めいたつながりを感じずにはいられない。
実はこの像は二代目である。
初代は大正元年に建立されたが、第二次大戦時に金属提供に協力して取り壊され、
長く座台だけが放置されていた。
それを再建した人たちを私はよく知っている。
再建を思いつかれ、はたらきかけたのは元京都市会議員の小西恭二郎さんという
京都高瀬川が流れる立誠学区の方だった。ある日、夢に神様が出てこられ
『角倉了以像を再建し大堰川の舟運の功績を後世に伝えよ!』というお告げあったという。
そして、その為の資金提供をしたのが山段芳春氏だった。
山段芳春氏・・・この名を聞いて‘ピン!’ときた人がいたら、かなりの京都通だろう。
氏については以前このブログで詳しく書いたことがあるので、そちらを参照していただきたいが、
一時代、京都で大きな影響を持ち、様々な分野で手腕を振るった人物だ。
氏は、年老いて足元もおぼつかない小西老が、何度も通い再建資金の協力を懇願する姿に
感動し、再建計画を引き受けた。
まず、自らが主催する京都自治経済協議会の会員企業から寄付を集めると同時に
当時、名物市会議員であった木俣秋水氏に声を掛け、政界への協力を依頼した。
この木俣秋水氏こそ、学生時代、書生的にジャーナリズム論や政治学を指導してもらい、
前職である新聞記者になるきっかけをつくって下さり、師と仰いだ方であった。
山段氏と木俣師。
若き多感な時期に、私が邂逅した人物二人の尽力により
亀山公園の角倉了以像は昭和63年5月28日、再建され今日に至っている。
私が新聞記者を辞め、20年が経とうとしている。
私は今、角倉了以が興し、唯一現存している事業・保津川下りで働いている。
そして、その立場でこの亀山公園の角倉了以像を眺めている。
像の横に建つ石碑に刻まれた名を眺めていると当時のエピソードが
スライドショーの様によみがえる。
この亀山公園の角倉了以像は、了以を軸に、自分の「過去」と「現代」が
一つの線でつながる、大切な場所でもあるのだ。
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