昨日の夜、一人の詩人がお亡くなりになった。
名は栗原貞子さん、自らが広島で原爆により
被爆、戦争の悲惨さを生涯をかけて訴え続けた
女性詩人であります。
1946年に代表作「生ましめんかな」を含む
「黒い卵」を発表し、原爆の恐ろしさ、戦争の
非人間性を詩により表現され、反戦反核運動の
先頭にも立たれていた方なのです。
私がこの詩と栗原さんを初めて知ったのは、
平成12年の7月12日に放送されたNHKテレビでした。
そのテレビでは、女優の吉永小百合さんがアメリカで
「生ましめんかな」という原爆詩を朗読されていました。
長い間、アメリカでは原爆の詩は翻訳の許可すら
許されなかったらしいのですが、その時は
吉永小百合さんが英語に翻訳された詩を静かに
朗読されていたのです。
この詩の朗読を聞いた時、私の心を鋭い刃物が突き刺さった
ような、苦しく痛い感情と魂を揺さぶられる
ほどの感動を覚え涙を禁じえませんでした。
「生ましめんかな」という詩は、原爆が投下された
翌日未明のこと、旧広島貯金支局の地下室で実際に
あった話をもとに書かれたものです。
原爆の被害者達であふれ返る、ローソク一つない
暗い地下室はまさにこの世にあらわれた地獄絵図。
このような所でそれは起こりました。
一人の若い女性が産気づいていると
一人の助産婦が「私が生まれさしましょう」
と名乗り出てて、極限の地獄絵図の中で
新しい命を生まれ出させるという内容の詩です。
この名乗り出た助産婦も地下室の大勢の人と
同じくさっきまでうめき苦しんでいた重傷者で、
新たな命を生まれ出した後、夜明けを待たず
血まみれのまま死んでいくのです。
私は政治思想というよりは、この詩に
こめられた人間の生と死の表現に
心うたれました。
極限の苦痛で自らの命すら知れぬ身体の者が
新たに生まれようとする命の為に、わが身を
忘れて手助けをする、そして新たな命の誕生を
看取って、死んでゆく。
人はここまで、気高い尊厳をもつことできるのです。
人は新たな生命の為に、自らの命を差し出すことが
出来る存在なのです。極限状態の中でも、新しい
生命の誕生に、人は言い知れぬいとおしさを
覚えることが出来ることを教えてくれます。
私達は日頃生きていることを至極当たり前のこととして
その事実に深い目を向けることを怠りがてですが、
この地球上に生きるものの命を支えているのは
紛れもなく他の命の死なのでしょう。
私がそしてあなたが今、存在する為に、どれだけの多くの
命の生と死があったことか。
一切の命は私達に無縁に存在しているわけではなく
多くの命が死に、今、一瞬も私を支えています。
私の生は多くの死んでいった命の集積が姿を変えて
生きているという証拠とも考えられます。
死は、いのちの終局を意味しない。生まれ変わり出変わりして
この世界に永遠にいき続けるもの。
この詩を読んで、生と死、そして‘いのち’について
考えました。
最後にこの詩の最後の言葉を紹介します。
生ましめんかな 生ましめんかな
己が命捨つとも
名は栗原貞子さん、自らが広島で原爆により
被爆、戦争の悲惨さを生涯をかけて訴え続けた
女性詩人であります。
1946年に代表作「生ましめんかな」を含む
「黒い卵」を発表し、原爆の恐ろしさ、戦争の
非人間性を詩により表現され、反戦反核運動の
先頭にも立たれていた方なのです。
私がこの詩と栗原さんを初めて知ったのは、
平成12年の7月12日に放送されたNHKテレビでした。
そのテレビでは、女優の吉永小百合さんがアメリカで
「生ましめんかな」という原爆詩を朗読されていました。
長い間、アメリカでは原爆の詩は翻訳の許可すら
許されなかったらしいのですが、その時は
吉永小百合さんが英語に翻訳された詩を静かに
朗読されていたのです。
この詩の朗読を聞いた時、私の心を鋭い刃物が突き刺さった
ような、苦しく痛い感情と魂を揺さぶられる
ほどの感動を覚え涙を禁じえませんでした。
「生ましめんかな」という詩は、原爆が投下された
翌日未明のこと、旧広島貯金支局の地下室で実際に
あった話をもとに書かれたものです。
原爆の被害者達であふれ返る、ローソク一つない
暗い地下室はまさにこの世にあらわれた地獄絵図。
このような所でそれは起こりました。
一人の若い女性が産気づいていると
一人の助産婦が「私が生まれさしましょう」
と名乗り出てて、極限の地獄絵図の中で
新しい命を生まれ出させるという内容の詩です。
この名乗り出た助産婦も地下室の大勢の人と
同じくさっきまでうめき苦しんでいた重傷者で、
新たな命を生まれ出した後、夜明けを待たず
血まみれのまま死んでいくのです。
私は政治思想というよりは、この詩に
こめられた人間の生と死の表現に
心うたれました。
極限の苦痛で自らの命すら知れぬ身体の者が
新たに生まれようとする命の為に、わが身を
忘れて手助けをする、そして新たな命の誕生を
看取って、死んでゆく。
人はここまで、気高い尊厳をもつことできるのです。
人は新たな生命の為に、自らの命を差し出すことが
出来る存在なのです。極限状態の中でも、新しい
生命の誕生に、人は言い知れぬいとおしさを
覚えることが出来ることを教えてくれます。
私達は日頃生きていることを至極当たり前のこととして
その事実に深い目を向けることを怠りがてですが、
この地球上に生きるものの命を支えているのは
紛れもなく他の命の死なのでしょう。
私がそしてあなたが今、存在する為に、どれだけの多くの
命の生と死があったことか。
一切の命は私達に無縁に存在しているわけではなく
多くの命が死に、今、一瞬も私を支えています。
私の生は多くの死んでいった命の集積が姿を変えて
生きているという証拠とも考えられます。
死は、いのちの終局を意味しない。生まれ変わり出変わりして
この世界に永遠にいき続けるもの。
この詩を読んで、生と死、そして‘いのち’について
考えました。
最後にこの詩の最後の言葉を紹介します。
生ましめんかな 生ましめんかな
己が命捨つとも
戦争のことは少しは知ってるつもりが、このことに関しては一切知らなかった!こんな詩があったなんて!
ちょっと本屋さんで探してみます。
日本に原爆が落とされたこと、これはあまりアメリカ国民は知らないみたいです。
それは友達がアメリカ留学して初めて知った実態です。
知らない、というよりか、教えられてない。と言ったほうが正しいかな。と言ってました。
やったことに関しては忘れてしまうのか、これは人間の特性なのか、日本も同じことをやってるのですから、あまり偉そうな事は言えないですがね。
しかしやったことも、やられたことも含めて後世に残していく義務があると思います。
減殺の日本は自分さえ良ければいいという風潮です。これは人間としてすごく哀しいことですよね。思いやる心と想像力(想像力の無い人は相手を平気で傷つける感じがします)をいつまでも持ち続けたいですね。
そして手に入れた世界トップの豊かさ。そのお膳立てをして頂いた私達の世代は、物質面だけを受け入れ、精神性を引き継ぐのを忘れたみたいです。豊かになったゆえに、今さえよけば、我さえよければという刹那主義でも生きることが出来、その心が蔓延したのは、反省しなくてはならないといつも思っています。
今、私達が生きているという厳然たる事実は、多くのいのちの死によって支えられています。私達が生きる為には他のいのちを食べなくてはならないのです。それは菜食主義などという誤魔化しではありません。生命とは動物、植物すべてに存在します。そして私達もいつかは死に土に帰り微生物の食料となります。
世界中の全てのいのちは決して私達が今、生きているいるという事に無縁ではないと思います。このいのちを大事に使い、世に役立てていくことこそ、私達が生かされている意味だと思っています。
世界に目をやると、今この瞬間も多くのいのちが戦争やテロで亡くなっています。日本一国だけが平和であっていいのか?日本がいま豊かなのは、内戦や紛争で苦しんでいる
人々の国を搾取し貧しくしたことに原因があることに気付く感性が必要と思います。今も衣食住に事欠く絶対的貧困者12億人が苦しんでいるのは、私達の豊かな暮らしと無関係ではないと思います。
私達は‘意識は世界へ、行動は足元から’と思っています。
生きたいのに生きることが出来ない人々もいるのに…そのような若者が支える日本は、これからどうなるのでしょうか。
話はかわりますが、昨日心霊写真のtvを観てて、家にも怪しい写真があることを思い出してしまいました。なんか気持ち悪いのでアルバムから外してしまい、記憶を封印してしまったのです。tvに出してみようかと思っていた時期もあったのですが…やはり持っているのは嫌なので処分しようと思います。
家で簡単にできるお祓いの方法とかご存知でしたら教えて下さい。
共通の思いを共有できるものと信じます。まずは知ること、認識することで人は価値観を変革できるものだと思います。
心霊写真ですが、いうからお持ちですか?それから何か不幸なのことが起こりましたか?基本的にはその写真を持っていることが原因で何か起こるという力は霊にはないと思います。
心配なら、家に仏壇や神棚などがあれば、お経なり、拍手を打つなりしてから、破棄されるといいのではないでしょうか?はっちんも心霊写真もどきを持っていますが、今もアルバムに入ってます。
でも仏壇も神棚もあるので、供養して処分します。
人の常ですから、ご心配になられるのもよく分かります。
その写真がどの様な場所で、どういった形で写っているのかわからないのでなんとも申し上げにくいですが、写真に写っている人(?)に心当たりとかないですか?
なければ、何の関わりもないもので、ご心配ないでしょ
う。病気とかは悪霊というより、いのちを創造したもの
からのメッセージだという人もいますね。
はっちんもアレルギーの持病を持っていて、時々活動不可能になることもありますが、病気も今、生きている証拠と思い、喜んで受け入れています。
病気になったことで、健康時に気がつかなかった、色々なことが分かり人間として深みが増したかな?と喜んでいます。病気は決して悪いものではないと、今は思いますね。