以前、東京に住む友人に、はっちんのお仕事、
保津川下りのことを話していた時のこと。
「保津川下りは聞いたことあるが、亀岡市は
聞いたことないな~」と言われたことがありました。
その人は世界中を股にかけ飛び回っている
いわゆるビジネスの世界のエリート中のエリート。
その意外な発言に「案外、無知な奴やな~」と
その時は思ったりしました。
しかし、今度は東北の友人に「亀岡市って京都なの?」
「保津峡って、天の橋立とかの方?」と言われたときは
さすがに我が街の全国的知名度の無さを疑ってきました。
それから日本中にいる友人に、我が街・亀岡市と保津川下りに
ついてどれだけ知っているか、リサーチしてみたことがあります。
結果は驚くべきものでした。
保津川下りについては殆ど人が知っていたり、乗った経験が
あったものの、亀岡市については80%を越える人が
「よく知らない」というものだったのです。
これは関西圏も人も例外ではないのは驚きました。
この調査結果には正直、愕然としました。
京都市で生まれ育ったはっちんには、京都の隣接地で生活圏内の
亀岡は子供のころからよく遊びに行ったりして知っていたので
こんなにも知名度が低いことに気付いていなかったのです。
そうなのです!一部のマニアックな人を除き、
日本の大多数の人達は保津川下りは聞いたことが
あっても亀岡市という街については殆ど知識が無く、
保津川下りと亀岡市が頭の中で、まったく繋がって
いないのです。
この事実はこの街に暮らすはっちんにとって、衝撃でした。
この危機感がはっちんにこのブログを立ち上げさせる
一つの動機にもなったのでした。
京都府亀岡市はその昔‘丹波国桑田郡’といわれ
山陰道八ヶ国の東端の国にあたり、奈良時代には
政治文化の中心・丹波国府が置かれており(正確な場所はまだ特定されていない)
今の京都よりも古くから栄えていた由緒ある土地柄なのです。
約1260年前には国家平安と豊作を祈願して、
奈良東大寺を総国分寺とする全国国分寺整備が
進められ、亀岡のこの地にも丹波国分寺と国分尼寺が
置かれるほど栄えていたのです。
今の京都に平安京の都が造営される時も亀岡は、
都へ食料を供給する広大で肥沃な農地をもっており、
また、造営に必要な大量の木材を運ぶ水路として
保津川が流れていることから、物資流通の要衝として
平安遷都に大きく関わってきた土地柄だったのです。
更に京の都に近いことから、政治的にも重要な拠点と
位置付けられ、足利尊氏や明智光秀が天下を目指して
兵を挙げた戦略的な意味をもつ土地柄でもあったのです。
文化的にも、江戸時代に庶民の間で広がった
「心学」の父・石田梅岩や
杉田玄白が外来書を訳した「解体新書」を著す20年も前に
日本最初の解剖書「臓志」を著した山脇東洋、
西洋の技法を取り入れた絵画で有名な円山応挙に
昭和の怪物といわれた宗教家出口王仁三郎など
を輩出するなど、当時から文化レベルの高い土地柄なのです。
このように文化の香り高く、京都に負けないほどの
歴史的深みを擁し、豊かな自然を背景に
多くの人間ドラマが繰り広げられた土地、
それが我が住む街・亀岡なのです。
これからもこのブログでディープな亀岡を
掘り下げて見たいと思っていますので
ご期待ください。
保津川下りのことを話していた時のこと。
「保津川下りは聞いたことあるが、亀岡市は
聞いたことないな~」と言われたことがありました。
その人は世界中を股にかけ飛び回っている
いわゆるビジネスの世界のエリート中のエリート。
その意外な発言に「案外、無知な奴やな~」と
その時は思ったりしました。
しかし、今度は東北の友人に「亀岡市って京都なの?」
「保津峡って、天の橋立とかの方?」と言われたときは
さすがに我が街の全国的知名度の無さを疑ってきました。
それから日本中にいる友人に、我が街・亀岡市と保津川下りに
ついてどれだけ知っているか、リサーチしてみたことがあります。
結果は驚くべきものでした。
保津川下りについては殆ど人が知っていたり、乗った経験が
あったものの、亀岡市については80%を越える人が
「よく知らない」というものだったのです。
これは関西圏も人も例外ではないのは驚きました。
この調査結果には正直、愕然としました。
京都市で生まれ育ったはっちんには、京都の隣接地で生活圏内の
亀岡は子供のころからよく遊びに行ったりして知っていたので
こんなにも知名度が低いことに気付いていなかったのです。
そうなのです!一部のマニアックな人を除き、
日本の大多数の人達は保津川下りは聞いたことが
あっても亀岡市という街については殆ど知識が無く、
保津川下りと亀岡市が頭の中で、まったく繋がって
いないのです。
この事実はこの街に暮らすはっちんにとって、衝撃でした。
この危機感がはっちんにこのブログを立ち上げさせる
一つの動機にもなったのでした。
京都府亀岡市はその昔‘丹波国桑田郡’といわれ
山陰道八ヶ国の東端の国にあたり、奈良時代には
政治文化の中心・丹波国府が置かれており(正確な場所はまだ特定されていない)
今の京都よりも古くから栄えていた由緒ある土地柄なのです。
約1260年前には国家平安と豊作を祈願して、
奈良東大寺を総国分寺とする全国国分寺整備が
進められ、亀岡のこの地にも丹波国分寺と国分尼寺が
置かれるほど栄えていたのです。
今の京都に平安京の都が造営される時も亀岡は、
都へ食料を供給する広大で肥沃な農地をもっており、
また、造営に必要な大量の木材を運ぶ水路として
保津川が流れていることから、物資流通の要衝として
平安遷都に大きく関わってきた土地柄だったのです。
更に京の都に近いことから、政治的にも重要な拠点と
位置付けられ、足利尊氏や明智光秀が天下を目指して
兵を挙げた戦略的な意味をもつ土地柄でもあったのです。
文化的にも、江戸時代に庶民の間で広がった
「心学」の父・石田梅岩や
杉田玄白が外来書を訳した「解体新書」を著す20年も前に
日本最初の解剖書「臓志」を著した山脇東洋、
西洋の技法を取り入れた絵画で有名な円山応挙に
昭和の怪物といわれた宗教家出口王仁三郎など
を輩出するなど、当時から文化レベルの高い土地柄なのです。
このように文化の香り高く、京都に負けないほどの
歴史的深みを擁し、豊かな自然を背景に
多くの人間ドラマが繰り広げられた土地、
それが我が住む街・亀岡なのです。
これからもこのブログでディープな亀岡を
掘り下げて見たいと思っていますので
ご期待ください。
「大観光地京都のすぐ側の街・亀岡には‘何が’あるのか?」という‘見るべきもの’のアピールが無ければ、近くてもわざわざ京都から足を伸ばしてもらうことは出来ないと考えます。観光客は短い時間で効率よく名所を周りたいものですから。「城崎=温泉」「宇治=お茶、平等院」といった亀岡独自のイメージを作り、全国に轟かさなければ観光立国の夢は夢のまま終る事になるでしょう。
個人的には、亀岡市って十分に都会ですし京都市へのアクセスもそう不便ではないかと思うのですが、そんなに田舎なのでしょうかねぇ?
確かに駅舎はちっぽけな感じですが、確か立て替えの予定がありますよね?
関東地区の方の到っては、滋賀県の場所さえわからないそうですので、仕方ないかも?
確かに逆に関東の地域のことは、私などはさっぱりわからず、先日も三浦半島と聞いて愛知県だとばかり思っていた馬鹿です・・私だけ?
しかも、埼玉県、福島県など東京を中心に絵を書けといわれても無理ですし・・。四国もきちんとは書けない!?もう十分あきまへんな!
毎日のご苦労お察し申し上げます。