これは歴史を懐かしむイベントではありません。
現在も保津川で生きる為に日々当たり前の様に続けられている作業風景です。
1300年間、京の都と丹波を結ぶ物流ルートの大動脈だった保津川。
その中で最も難所と呼ばれたのが中流域の保津峡でした。
狭窄にして急峻、激流が大岩を噛む保津峡は、猛者の筏士ですら度々命を落とした自然の要害です。
筏しか流せなかったこの要害に、舟運を切り開いたのが京都の豪商・角倉了以。1606年のことでした。
以来、洪水により漂着した巨岩や堆積土砂が航路を塞ぐたびに、
船頭たちは昔ながらの手作業により復旧工事を施してきました。
その技術は重機の進入を許さない険しい峡谷の条件のもと、
当時のまま、今も保津川船頭に受け継がれています。
急流に身を投じ、川底を潜り、岩に綱を掛け、取り除くのです。
自然とともに生きることを宿命づけされた「川人」たち。
その激しい川との闘いの姿に、不撓不屈の意志で開削した角倉了以の技術と精神が、
息づき守られている「川と人」の物語が今この時も展開されています。
川とともに生きてきた丹波、嵐山の人々の知恵と技術、そして精神。
これこそが保津川流域特有の生活文化であり、希少な無形遺産だといえるのではないでしょうか?
現在も保津川で生きる為に日々当たり前の様に続けられている作業風景です。
1300年間、京の都と丹波を結ぶ物流ルートの大動脈だった保津川。
その中で最も難所と呼ばれたのが中流域の保津峡でした。
狭窄にして急峻、激流が大岩を噛む保津峡は、猛者の筏士ですら度々命を落とした自然の要害です。
筏しか流せなかったこの要害に、舟運を切り開いたのが京都の豪商・角倉了以。1606年のことでした。
以来、洪水により漂着した巨岩や堆積土砂が航路を塞ぐたびに、
船頭たちは昔ながらの手作業により復旧工事を施してきました。
その技術は重機の進入を許さない険しい峡谷の条件のもと、
当時のまま、今も保津川船頭に受け継がれています。
急流に身を投じ、川底を潜り、岩に綱を掛け、取り除くのです。
自然とともに生きることを宿命づけされた「川人」たち。
その激しい川との闘いの姿に、不撓不屈の意志で開削した角倉了以の技術と精神が、
息づき守られている「川と人」の物語が今この時も展開されています。
川とともに生きてきた丹波、嵐山の人々の知恵と技術、そして精神。
これこそが保津川流域特有の生活文化であり、希少な無形遺産だといえるのではないでしょうか?
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