京都にはいくつもの「怨霊伝説」があります。
平安の昔より、京の都に動乱や災害が起こる時、
必ず都人の脳裏に浮かぶのが「怨霊」の祟りです。
その中でも、日本最強の大魔王にして、日本の精神世界史を語る上で
欠かすことが出来ない大怨霊と呼ばれるのが崇徳院です。
天皇に即位していた崇徳院ですが、父鳥羽天皇に疎まれ、
さらに弟の後白河天皇に苛め抜かれて、讃岐へ島流しにされてしまいます。
まさに筆舌に尽くし難い生涯に絶望した崇徳院は
「我、日本の大魔王となり、皇を取って民となし民を皇となさん!」
と書き残し、舌を噛み切って果てます。
すると、都に異変が起こりはじめたのです!
後白河天皇の近親者が相次いで死に、さらに平安京が焼失、
比叡山の僧兵の決起など不吉な出来事が多発しました。
南北朝時代には室町幕府を開いた翌年の1339年に、
四条河原の勧進田楽での桟敷倒壊で多数の死亡者が出て、
その翌日の大雨で川が洪水を起こし、
死体が流れていくという地獄の様な光景が!
実はその数日前、愛宕山に金色の鳶の姿をした崇徳院が現れ、
強い念を持った怨霊たちを集めて「怨霊サミット」を開き、
天下動乱の計画を練ったといわれています。
700年ぶりに国の実権を朝廷に取り戻した明治天皇は
即位後すぐに、崇徳院への詫び状を書き、
讃岐へ勅使を遣わして崇徳院の怨霊を京へお迎えし、
お住みとして「白峯神宮」を創建しました。
また昭和天皇は崇徳院800年忌に香川県の崇徳陵で式年祭を執り行っておられます。
崇徳院が皇室にとって、どれだけ恐ろしい存在なのかが伺えます。
そして、今も京都の闇に、ひっそりと潜んでいるのです・・・
平安の昔より、京の都に動乱や災害が起こる時、
必ず都人の脳裏に浮かぶのが「怨霊」の祟りです。
その中でも、日本最強の大魔王にして、日本の精神世界史を語る上で
欠かすことが出来ない大怨霊と呼ばれるのが崇徳院です。
天皇に即位していた崇徳院ですが、父鳥羽天皇に疎まれ、
さらに弟の後白河天皇に苛め抜かれて、讃岐へ島流しにされてしまいます。
まさに筆舌に尽くし難い生涯に絶望した崇徳院は
「我、日本の大魔王となり、皇を取って民となし民を皇となさん!」
と書き残し、舌を噛み切って果てます。
すると、都に異変が起こりはじめたのです!
後白河天皇の近親者が相次いで死に、さらに平安京が焼失、
比叡山の僧兵の決起など不吉な出来事が多発しました。
南北朝時代には室町幕府を開いた翌年の1339年に、
四条河原の勧進田楽での桟敷倒壊で多数の死亡者が出て、
その翌日の大雨で川が洪水を起こし、
死体が流れていくという地獄の様な光景が!
実はその数日前、愛宕山に金色の鳶の姿をした崇徳院が現れ、
強い念を持った怨霊たちを集めて「怨霊サミット」を開き、
天下動乱の計画を練ったといわれています。
700年ぶりに国の実権を朝廷に取り戻した明治天皇は
即位後すぐに、崇徳院への詫び状を書き、
讃岐へ勅使を遣わして崇徳院の怨霊を京へお迎えし、
お住みとして「白峯神宮」を創建しました。
また昭和天皇は崇徳院800年忌に香川県の崇徳陵で式年祭を執り行っておられます。
崇徳院が皇室にとって、どれだけ恐ろしい存在なのかが伺えます。
そして、今も京都の闇に、ひっそりと潜んでいるのです・・・
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