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日本最強の大魔王・崇徳院の怨霊ものがたり。

2018-04-26 12:23:46 | 京都情報
京都にはいくつもの「怨霊伝説」があります。

平安の昔より、京の都に動乱や災害が起こる時、
必ず都人の脳裏に浮かぶのが「怨霊」の祟りです。

その中でも、日本最強の大魔王にして、日本の精神世界史を語る上で
欠かすことが出来ない大怨霊と呼ばれるのが崇徳院です。

天皇に即位していた崇徳院ですが、父鳥羽天皇に疎まれ、
さらに弟の後白河天皇に苛め抜かれて、讃岐へ島流しにされてしまいます。

まさに筆舌に尽くし難い生涯に絶望した崇徳院は
「我、日本の大魔王となり、皇を取って民となし民を皇となさん!」
と書き残し、舌を噛み切って果てます。

すると、都に異変が起こりはじめたのです!

後白河天皇の近親者が相次いで死に、さらに平安京が焼失、
比叡山の僧兵の決起など不吉な出来事が多発しました。

南北朝時代には室町幕府を開いた翌年の1339年に、
四条河原の勧進田楽での桟敷倒壊で多数の死亡者が出て、
その翌日の大雨で川が洪水を起こし、
死体が流れていくという地獄の様な光景が!

実はその数日前、愛宕山に金色の鳶の姿をした崇徳院が現れ、
強い念を持った怨霊たちを集めて「怨霊サミット」を開き、
天下動乱の計画を練ったといわれています。

700年ぶりに国の実権を朝廷に取り戻した明治天皇は
即位後すぐに、崇徳院への詫び状を書き、
讃岐へ勅使を遣わして崇徳院の怨霊を京へお迎えし、
お住みとして「白峯神宮」を創建しました。

また昭和天皇は崇徳院800年忌に香川県の崇徳陵で式年祭を執り行っておられます。

崇徳院が皇室にとって、どれだけ恐ろしい存在なのかが伺えます。

そして、今も京都の闇に、ひっそりと潜んでいるのです・・・

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