創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

キング・コング

2005-12-24 18:24:12 | 映画・舞台
3時間の超大作。全く退屈させない。この種の作品は主役(キング・コング)が現れるまでのストリー展開で決まる。ジョーズ、ゴジラも、ガメラも面白い作品はそうだ。ワクワクする。還暦が近いおっさんがこれでは思うけれども。怪獣フリークの私とつきあってくれる人は今回もいなかった。印象に残るのは、コングの前でアン・ダロウ(ナオミ・ワッツが)コミカルにタップを踏むシーン。

真鶴  川上弘美

2005-12-24 18:05:37 | 読書
文学界12月号 連載11回。なぜ真鶴か。「東京には生活がある。生活に、かくれることができる。真鶴には何もない。」続けて、「何もないが、みんなある。」と書かなかったところがいい。読みなれた川上弘美作品と何かが違う。どこへ行くのだろう。「かくれることができる」と、ひらがなで綴っている。ひらがなが美しい、近頃、ワープロで変換された文章をそのまま使っているような作家が多いように思う。(シシリエンヌはその典型?)。ワープロで文章を書く弊害があるとすればそれだけだと思う。安部公房は確か「ワープロは推敲する機械だ」だと言っていた。自戒も含めて、「書けない字は使わない」

顔のない裸体たち 平野啓一郎作

2005-12-24 17:38:14 | 読書
新潮12月号 平野啓一郎作 「日蝕」は途中放棄。今年新潮7月号の「「異邦人#6ー4」「母と子」「やがて光源のない澄んだ乱反射の表で……/『TSUNAMI』のための32点の絵のない挿絵」を読んで、ずいぶん読みやすくなったなあと思いました。今回の「顔のない裸体たち」は内容も分かりやすい。性の隠語が頻発するのは、「蛇にピアス」「シシリエンヌ」と同様、あまり驚かなくなった。ただ二作品が一つの愛の形を描いたのとは全く違う方向性を示しているように思われる。鏡の比喩がある。「彼女の顔は、単に鏡に映し出されているというのではなく、恐らくは、彼女の所有を離れて、この時既に、鏡の中にこそ存在していた。彼女の顔こそは、それを単に映し出している鏡にすぎなかった」。実像と虚像というテーマが鮮やかに浮かび上がってくる見事な文章である。実像と虚像の境目があやふやになり、逆さまの実体として虚像が実像に取って代わる。インターネットに跋扈する匿名という名の虚像。出口のない孤独。僕らは、今、そんな時代にいる。