あれから11年が経った。
そう、あの日も金曜日だった。そして私は、今と全く同じ席であの地震を経験した。廻りの人たちは皆変わってしまい、私一人だけがまるで化石の如くいまだ同じ席に座っている。
今も生々しく覚えている。隣の女性の叫び声や奥の部屋の本棚が倒れる音とともに、もうもうと埃が立ったこと。揺れが大きくとてもそのまま立っていられずに椅子に掴まりながら机の下に潜り込んだこと。2011年3月11日、14時46分のこと。
今日も仕事をしながら14時位までは自席で黙祷しようと思っていた。それなのに気づけば15時を廻っていた。嗚呼、なんてこと。
その席にいられるのもあと3週間弱となった。ちょうど3週間後の4月1日は後任が座っている筈だ。
来年の今日、生きていたら私はどこに座っているだろう。自分の家以外に居心地の良い場所をどこか見つけることが出来ているだろうか。
今、こんなことを考えている中で、ウクライナの人たちはあまりに理不尽に家を追われ、居心地の良い大切な場所を失い、大切な人たちとの別れを余儀なくされている。
21世紀になってこんな愚行があっていいのだろうか。心が痛む。
繁忙期で、ただでさえてんやわんやの3月であるのに、3回目のコロナワクチン接種を終えてから数日間は体調が優れず、ようやく落ち着いたかな、と思って出かけたところ、いきなり気管支炎で発熱する始末。
予期せぬ休暇取得で仕事はますます手詰まりになった。まだ本調子でない中やむなく出勤したら、当たり前だけれど仕事は容赦なく後から後から矢のように飛んでくる。
声がろくに出ないから電話に出たくなくとも、受話器を取ってしまえば喋らざるを得ない。「出来ればなるべくメールで・・・」などと説明するだけで顎が出る。あまりにスパークして途中で火を噴きそうになる。マルチタスクを処理しながら残業しているうちに、また熱が上がりそうになった。
今夜は大阪から息子が帰省した。本当は来週の3連休が希望だったようだけれど、来週は治療日だから週末の3連休は一番体調不良の頃でとても相手が出来ない、といって1週間繰り上げてもらったのだ。
今日は出来れば少し早退して、片付けをしてちゃんと夕食を作って・・・という心づもりだったけれど、とんでもない。早退どころか定時に帰るのも厳しかった。拭き掃除が全然出来なかったのが心残りだ。
息子は在宅勤務でコアタイム迄仕事をし、早退して新幹線に乗っての帰省。ライナーに乗って帰宅した夫より1時間以上遅くの到着だった。そのおかげで、夫が帰宅してから夕食の支度を始めて十分間に合った。まあ、掃除や片付けは出来なかったのは具合も悪かったことだし、と目を瞑ってもらうしかない。
一足早いホワイトデーのチョコレートと、私の好きな豚まんのお土産を携えて、26歳になって免許も無事取得した息子は、元気に帰ってきてくれた。到着直後は実家の母にもDuo通話でご挨拶。
夕餉を囲み、2人はビールで乾杯して楽しそう。いきなり賑やかな食卓に心が華やいだ。残さず平らげてくれて有難いことだ。
今夜で5日間処方された抗生剤等も飲み終えた。
明日は2次試験後期日程で応援出勤である。早朝からの出、なるべく喉を温存していられると良いのだけれど。