仁和寺の御室桜は、京都でも遅咲きの桜と知られる。
樹の低いところから枝が伸び、目の高さで桜が咲き誇る。
この御室桜、八重桜として知られているのだが、最近の調査で9割が一重桜であることが判ったという。
それを報じる新聞記事には、どうやら桜の成長の過程で、園芸品種である八重が、一重に先祖帰りしたらしい、と書かれていた。
園芸品種と言えば可愛いものだが、いってみれば、バイオテクノロジーの古典的手法だ。
人間の科学力は、きっと自然を超えられない。
いつかソメイヨシノだって、なくなるに違いない。
さて、今年もまた、桜の季節は終わる。
多くの桜は、ほとんど花を落とし、その枝には艶々しい緑の葉を湛えつつある。
名残の花が、かすかに木々にモザイク模様を描き出しているだけだ。
しかし、何も桜だがけが花ではない。
浄瑠璃寺のアセビは、少し盛りを過ぎただろうか。
松尾大社のヤマブキは、そろそろ見ごろを迎えるだろう。
大田神社のカキツバタだって、もうまもなく開花する。
ツツジの名所は、円通寺、詩仙堂、三室戸寺と、枚挙に暇がない。
そして、フジ。
フジの名所といえば、平等院である。
鳳凰堂の手前にあるフジ棚は圧巻で、棚から滴り落ちるように、薄紫の花房が咲き誇る。
是非ご覧いただきたい、と言いたいところだが、枝剪定の影響で、今年は花房が全くないという。
残念。
平等院の話が出ると、思い出すのは、大佛次郎の『宗方姉妹』。
小津安二郎の映画にもなったこの小説は、戦後間もない京都が主要な舞台の一つになっている。
中に、平等院を描いた場面がある。
鳳凰堂の周囲には夏草が繁り、葉桜が鬱陶しく繁っている。広場で子供が
野球をしているだけで、ここにも見物人や散歩客らしいのを見ない。荒廃した
感じがまぎらせなかった。池も草が繁って水が濁っていた。
拝観受付所と木札の出ているところに行くと硝子戸が閉めてあって、人は見
えない。硝子戸は内部から閉ざしてあって動かない。陳列してある絵葉書の類
いには、薄く埃がかかっている。
といった具合である。
今、現代に平等院へ行った人には、実感できない状況だ。
こんな時代もあったのだな、と、思うと、何か感慨深い。
行った先々で、そんな事を想像してみるのも、また楽しいものだ。
”あいらんど”