2015年2月1日(日)
本来1月に担当予定だった幼稚科保護者向けの話、都合で今日に代わってもらっていた。先日来の風向きの中で、ふと今回はイスラム教について話してみようと思いついたのが一昨日。
よもやこの朝、後藤さん殺害の悲報が入るとは思わなかった。話題を変える余裕はないし、そのつもりもない。
イスラム国がイスラム教を僭称するのは、KKKがキリスト教を名乗るのと変わらない。少しもイスラムではないのがイスラム国である。その認識から始め、医学生時代に知り合ったマレーシア人イスラム教徒らの、柔和な笑顔と押しつけがましさのない堅い信仰について伝えてみた。
父親の4人の妻を等しく母と呼び、10人を超える弟妹すべてを隔てなく愛しんでいた青年のこと。クアラルンプールの街角で、ボーイフレンドに小銭をねだって物乞いの前にそっと置いた女子学生の喜捨。僕を「イシマ(エ)ルさん」と呼んでおもしろがった寮生たち。
そしてむろん聖書のこと、どこまでが同根で、どこから袂を分かつことになったのか。コーラン(クルアーン)に登場するイエス(イーサー)の姿、最後にして最大の預言者ムハンマドのこと。
宗教が隔てを作るのか、争う者たちが宗教を担ぐのか。自身の信仰が、他者の理解と受容を促すものとなっているか。試金石。双方に罪あり。
20人ほどの保護者の中で、イスラム教徒の友人・知人ありと答えたのは3人。それぞれイラク人とパキスタン人だそうである。イスラム世界はカトリック以上に広がりが大きい。個性も風土も多彩であることだろう。自分がより多く見ていたのは、イスラムか、それともマレーか。
出席者の中に、玉川聖学院の卒業生の顔が見えた。どれほど心痛むことか。だからこそ知恵を働かせて、正しい敵を見極めなければならない。彼の命を奪ったのはイスラムではない、憎むべき僭称者である。
片付けの時、一組の御夫婦の奥さんがやってきて、大粒の涙とともに話し始めた。夫婦そろってイスラム世界を旅するのが大好きで、新婚旅行もチュニジアに行った。ラマダンの時期なのに、新婚の旅行者を歓待してくれた。イスラムの風景もイスラム教徒も大好きである。それなのに今度の事件以来、人はイスラム教が元凶であるような言い方をする。悔しいけれどどう反論したらいいか分からない。自分の言いたかったことを聞かせてもらえて、今日は来て良かった・・・
今日は話せて良かった。
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