散日拾遺

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ルーテルの一日

2015-02-10 23:15:54 | 日記

2015年2月10日(火)

 

 売れっ子でもないのに原稿のダブル締切に腹背から圧迫され、ブログもろくに更新できないこのところ、今日一日はルーテルのセミナー出講で一休みである。

 武蔵境は少々遠い。出かける早朝の道を覆う空気が冴え冴えして、初冬と錯覚するようだ。道沿いの家の玄関先の、盆栽の白梅が満開。その二軒隣り、黄色い小さな花を鈴なりに開かせているのはヒイラギナンテンである。こんな色の、こんな可愛い花を咲かすのか。毛むくじゃらの大男が愛くるしい幼女を抱っこしているようなおかしみがある。

 坂の上で、桜並木の下の地面がふっくら盛り上がっている。霜柱だ。さくさくと、二歩だけ踏ませてもらう。「皆の分まで踏んでしまってはいけない」と、懐かしいことを思い出す。

 

 駅のホームで小さな丸っこい人影を見て、不安が兆した。よちよちと体を揺らす歩き方は、確かにあの人のはずだが、アミダにかぶった野球帽から覗く髪が半白である。追い越しながら、思わず横顔を覗いてしまった。間違いない、あの人だ。何ヶ月か見ない間に、ひどく年をとってしまったような。

 この障害をもつ人々は、寿命の短いことが知られている。あるいはそれは、常の人よりずっと急速に年をとるということだったのか。

 

 ルーテルの一日は楽しく過ぎた。この教団の人々の、和やかで陽気なところに以前から魅力を感じている。堂宇の内部をほどほどに飾るセンスの良さ ~ カトリックほど麗々しくないが、長老主義のように殺風景でもない、そのしゃれっ気もまた、気風によく一致している感じがする。

 そして夕の会食にアルコールが出る!僕らの教団の、僕らの周囲ではあり得ないことだ。「ワインを注ぐのが私の仕事です、牧師ですから」と、バンドが趣味の若者が杯を回してくれる。

 分科会では繰り返し、異なる教派間で交わることの意義の大きさが語られた。そうだとすれば多くの教派が分立することも実は恵みであり、殊に日本のような国であればこそ諸教派が交流するありがたみがいや増すことになる。

 面白いものだ。そして愉快な人たちだ。いい気分のほろ酔いの中で、KK先生にまんまと次の仕事を振られてしまった。HM先生が遺していかれた宿題と聞けば、断るわけにもいかない。だいいちKK先生は無類の頼み上手である。

 武蔵境までちょうど25分、ぶどう園やケヤキの大木を見あげて夜の散歩としゃれ込んだ。

 

神戸旧居留地BLOGより拝借

http://kyoryuchi.seesaa.net/article/258005642.html