2015年12月12日(土)
「相手に100%を求めたのがいけなかった。80%にすべきだったんです。」
新しみのない、よく聞かれる言葉である。けれども言葉はいつだって、特定の文脈の中で意味づけられ重みを得る。こう語った人の生い立ちと、そこに存在した欠けを埋め合わせようと彼が苦闘してきたことを思う時、悔いの涙の苦さが滲むように伝わってくる。
100%を求める愚を難じるのは簡単だが、いささか見当が違う。彼の余裕のなさ自体、好きで選んだものではなく、刻印された後遺症なのだから。
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やはり原家庭の困難を今に抱えている別の女性、彼女の場合は埋め合わせを試みる足場をもつことが、これまでのところできずに来た。小さい子どもは決して嫌いではなく、友人と顔を合わせればその子どもらを心から愛で、楽しむことができる。
同じ彼女が自分の絵や彫刻をSNSで開示宣伝する時、引き替えに友人たちの家族写真を否応なく目にすることになる。すると、顔を合わせた時にはおよそ感じることのない嫉み・悔しさ・憤りが、押さえがたく湧いてくるというのである。
話をどちらへ展開したら良いか、よくわからない。それこそ見当が違うのかもしれないが、さしあたりコミュニケーションの具体性と抽象性ということを思う。会えば友達になれる韓国人、中国人、中東人、ロシア人などとの間に巨大な敵意の障壁が生まれるカラクリと、一脈も二脈も通じることではないだろうか。
顔を合わせて語り合い、握手を交わす、そこから始めるに如くはない。けれども現実の僕らは、抽象的なコミュニケーションに十二単よろしく、しっかりくるみこまれている。具体的なコミュニケーションこそ絶滅危惧種的なレアものだという、末世的倒錯が今の日常である。