散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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100%を求める事情/コミュニケーションの具体と抽象

2015-12-13 09:04:18 | 日記

2015年12月12日(土)

 「相手に100%を求めたのがいけなかった。80%にすべきだったんです。」

 新しみのない、よく聞かれる言葉である。けれども言葉はいつだって、特定の文脈の中で意味づけられ重みを得る。こう語った人の生い立ちと、そこに存在した欠けを埋め合わせようと彼が苦闘してきたことを思う時、悔いの涙の苦さが滲むように伝わってくる。

 100%を求める愚を難じるのは簡単だが、いささか見当が違う。彼の余裕のなさ自体、好きで選んだものではなく、刻印された後遺症なのだから。

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 やはり原家庭の困難を今に抱えている別の女性、彼女の場合は埋め合わせを試みる足場をもつことが、これまでのところできずに来た。小さい子どもは決して嫌いではなく、友人と顔を合わせればその子どもらを心から愛で、楽しむことができる。

 同じ彼女が自分の絵や彫刻をSNSで開示宣伝する時、引き替えに友人たちの家族写真を否応なく目にすることになる。すると、顔を合わせた時にはおよそ感じることのない嫉み・悔しさ・憤りが、押さえがたく湧いてくるというのである。

 話をどちらへ展開したら良いか、よくわからない。それこそ見当が違うのかもしれないが、さしあたりコミュニケーションの具体性と抽象性ということを思う。会えば友達になれる韓国人、中国人、中東人、ロシア人などとの間に巨大な敵意の障壁が生まれるカラクリと、一脈も二脈も通じることではないだろうか。

 顔を合わせて語り合い、握手を交わす、そこから始めるに如くはない。けれども現実の僕らは、抽象的なコミュニケーションに十二単よろしく、しっかりくるみこまれている。具体的なコミュニケーションこそ絶滅危惧種的なレアものだという、末世的倒錯が今の日常である。


どんな意味か/どう意味づけるか

2015-12-13 08:44:41 | 日記

2015年12月12日(土)

 「今このタイミングで、こういう夢を見たのは、どういう意味なのか。今週はずっとそのことを考えてました。」

 「そうですね、どういう意味なんでしょうね。どう意味づけるか、っていうことなんでしょうけれども。」

 何気ない自分の返事が、自分の耳の奥で長い余韻を引いている。

 

 どう意味づけるか、それがすべてだ。


他愛のないやりとり/亀のいる風景

2015-12-13 07:54:32 | 日記

2015年12月12日(土)

 「まったくあんたは、この寒いのに裸みたいなカッコしてクシャミして、そんなに薄着して『風邪ひいたから出勤しない』とか言っても、聞かないからね!」

 「え、じゃあ服を着たら、風邪ひいて休んでもいいんだよね?やった~!」

 他愛もなく笑いこけてしまった。診察室で語られた、とある母娘の会話である。どこの家庭でもあることだろう。

 こういう他愛なさが生活の行間を埋め、おかげで僕らは歩みを進めることができる。

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 11月のある木曜日にやってきた患者さんに近況を訊ねたら、大事にしていたカメが死んだ話をしてくれた。エジプトリクガメだったと思う。それともギリシャリクガメ?最近とんと記憶が・・・どちらも実在するからややこしいのだ。左がエジプト、右がギリシャ。エジプトリクガメは事実エジプトが主たる生息地だが、ギリシャリクガメはイタリアに多く分布するという。どちらも絶滅危惧種、レベルCR(critically endangered)である。

  

 ともかくFさんは、自分のメタボ管理では生活指導から逃げ回る高校生のように保健師に手を焼かせ続けていながら、3年来の家族の一員であるリクのためには手間も出費も惜しまず医者にかけた。最初は寄生虫症、ついで膀胱結石を煩い(痛かっただろうな、リク君)、最後は緑膿菌感染症が命取りになったという。いつも思うんだけれど、ペットクリニックの獣医さんっていうのは大したものだ。いっぽう、生物種が違ってもかかる病気は大凡共通であることにも驚く。「われら動物みな兄弟」は、畑正憲のエッセイのタイトルだったな。

 愛亀の不在は耐えがたく、Fさんちではリク君を見送った後、再度あらたなエジプトリクガメ(ギリシャリクガメ?)を家族に迎えた。今度はモモちゃんという名前をもらっている。ミヒャエル・エンデの『モモ』、類いまれなる傾聴の天分に恵まれた女の子モモは、確か大きなカメをお供につれていたような気が・・・

 ね、本の表紙にもあるでしょ?