散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

同姓/別姓問題と同調圧力

2015-12-22 22:14:06 | 日記

2015年12月22日(火)

 勝沼さんからコメントがあり、被爆二世さんがこれに追加コメントを寄せているが、僕の頭がついていかない。勝沼さんはこんなふうに書いたのだ。

タイトル: 夫婦別姓の為の夫婦同姓

コメント:

 強固な身分制度があると思われていた江戸時代が、実は養子になることによって身分を変えることができる柔軟な身分制度だったというのも、この石丸先生の話とつながってくるのかもしれません。

(ここまではなるほど。ここからですが・・・)

 夫婦別姓については私に名案があります。「夫婦の姓は妻の姓にすること」と民法で決めてしまえばいいのです。

 これなら結婚してからも元の姓を名乗りたい女性達も、家や家族の絆の為に家族は皆同姓であるべきという方々もみんな満足。

 ちなみに、夫婦どちらかの姓にすることとなっていますが、95%が夫の姓になっているそうです。

 夫婦別姓が進まないのは男性の共感の足りなさによる部分が大きいのではないかなぁと思います。私の夫婦同姓法が施行されれば、あっというまに夫婦別姓になるんじゃないでしょうか。

 ***

??

 ごめんなさい、ロジックが全く分かっていなくって。「勝沼同姓法」では、結婚してからも元の姓を名乗りたい男性はどうすればいいんですって?私自身は夫婦別姓を選択的に推進したいと思っているわけではなく、個々のペアが当人たちの一致した申し合わせに従って、「夫の姓にそろえる」「妻の姓にそろえる」「別姓」の3つの選択肢から自由に選べるようになってほしいと考えている次第なので、ちょっと混乱しています。通り名の問題と戸籍の問題とがあったりして、そもそも混乱しやすい話でもありますが。おそらく勝沼案の前提として、これとは正反対にあたかも「夫婦の姓は夫の姓にすること」という規定が存在するかのような現状があり、そのような同調圧力が働いているという認識があるんですよね。「男性の共感の足りなさ」という言葉は、そこに関わっているのでしょう。そういう理解でよければ、「なるほど」です。

 通り名については、不十分とはいえ私の20代の頃に比べればずいぶん「別姓」が増え、それを容認する空気も広がってきていると思います。殊に私の領域、つまり医者や学者の世界では、独身時代に旧姓を用いて業績や社会的信用を蓄積している人が多いので、結婚後も旧姓で通したいという事情は至極もっともなんですよね。患者の側から見ても、以前診てもらった女医さんに連絡を取りたいのに、姓が変わっているために見つけられないといったこともあるわけで、女性の側からの主張であるだけでなく、社会一般の要請という面が年々強くなっているんじゃないでしょうか。

 前職場でも現職場でも、結婚前の姓で通している女性は実際に何人もおられました。これに起因する不便や不都合は私の知る限りで特になかったと思います。職場の通り名としては夫の姓を名乗りつつ、メールアドレスや英語論文の署名では両方の姓をハイフンでつないで示している人もあり、エレガントな工夫だと感じました。(両姓併記は英語でもあることですし、スペインなどはそれがより広く行われていたようですが、日本ではどうでしょうか。神田-松田さやか・・・う~ん・・・慣れの問題かな。)

 何しろ変わりつつある時代背景の中で、それぞれの事情や姿勢に応じて当事者たちが自由に決めれば良いし、ゆっくりとではあれ現実はそういう方向に動いている・・・というのは甘いのかな。通り名の現状がそうであるとした場合、固定した一律のやり方を強いる現行制度はひどく不寛容ではないかというのが、私の素朴な感想でした。

 ついでに私見を述べれば、完全に自由に選べるとした場合、別姓を選択するカップルは当然増えるでしょうが、あるレベルで定常状態に達するのではないか。そしてその状態でなお多くの人々が同姓を選択し、そのことが中国や韓国とは異なるニュアンスを日本の社会に醸し続けるのではないかと予測します。

 私?私は配偶者と同姓がいいですね。二人で一つのチームを作るわけで、姓はチームのシンボルみたいなものですから。血統を重んじる韓国人は、「族譜」と呼ばれる書かれた資料を代々たいせつに伝承するそうですが、夫と妻はそれぞれ別の族譜を背負うことになります。日本の場合は血統ではなく「のれん/名跡」を伝承してきたわけで、血統はいわばこれに吸収される側面をもっています。私はこのやり方、嫌いではないんですよ。使い方次第でとても良い効果を生むはずだと思っています。ただ、実際には私は一人っ子だから、受け継いだものを継承したいと思えば、先方にこちらの姓を名乗ってもらうしかなかった。配偶者の理解のおかげでできたことでした。

 いっぽう、このやり方を好きになれない人々もたくさんいるわけで、そういう人々に法制度でもって同調圧力を加えることを、もう止める潮時だろうというのが私の主張です。「寛容/不寛容」はこうした圧力の水準に関するコンセプトで、今後の日本の社会で間違いなく大きな論点になっていくことでしょう。

 被爆二世さんのコメントには、ただ耳を傾けるばかりです。


北の湖と輪島

2015-12-22 19:45:33 | 日記

2015年12月22日(火)

 11月26日(木)にほとんど書き終えていた下記の記事。今日、北の湖の日本相撲協会葬が行われたのを良いことに、遅まきながら掲載する。

***

 次の土日を無事に越せれば(註: 11月28-29日の多摩SC面接授業のこと)だいぶ楽になるので、そうしたらまとめて11月の振り返りをと思ったりするが、その間にも時流は容赦なく進んでいく。公務征旅の合間を縫って日記を綴った古人たち、たとえばマルクス・アウレリウスの偉大さが思われる。彼はローマ人だが、後に『省察録』としてまとめられるその日記はギリシア語で書かれていた。ラテン語とギリシア語はよく似ているけれども、微妙な違いのあることは、たとえば「神の国」がラテン語では civitas dei、ギリシア語では βασιλεία του θεου であることからも明瞭に知れる。 civitas の原イメージは共和制の都市国家、いっぽうの βασιλεία は王国だ。こうしたイメージが哲人皇帝の頭の中でどんなふうにもつれからんでいたのか、覗けるものなら覗いてみたい。

 この間にパリの惨事があり、空爆の報復強化があり、トルコによるロシア機撃墜があり、いくつもの殺人事件があった。これに対抗する生き生かす力も見えないところで働いているはずで、そうでないなら人類はとうに滅んでいる。そう信じることが被爆二世さんへの答えになろうかと思う。

 そう、この間に幾人もの気になる人々が他界した。中でも北の湖の訃報はまったく予想のほかで、軽くない病気を抱えているとは聞いていたものの、克服できると信じていた。

 

  北の湖の横綱昇進のことはよく覚えている。僕は高3の夏休み前で、その日は何故だか渋谷に出かけていた。今の渋谷とは違って、大盛堂書店や安い映画館など出かける理由がいくつもあったのである。で、何かの帰り道、西武百貨店あたりの街頭モニターに昭和49年名古屋場所千秋楽の取り組みが大写しになっていた。大関北の湖13勝1敗、横綱輪島12勝2敗、両者が対戦する結びの一番である。

 この二人は左の相四つだった。左四つなら右の上手から攻めるのが常道だが、輪島は違った。右からおっつけ左の下手から強烈な投げを放つ、余人に真似のできない独特の型がある。この時も立ち会いから輪島左下手、北の湖右上手、双方注文通りの回しの引き合いになった。輪島、右上手から北の湖の左下手をしぼり上げ、体の浮くところを渾身の左下手投げ。北の湖の恵まれた体が、もんどりうって仰向けになった。相星の優勝決定戦、その場を立ち去れなくなった。

 七月炎天下の渋谷でモニターを見守ることしばし、両者再度の対決は本割の再現となり、またしても輪島が北の湖をものの見事に投げ捨てた。頃合いを見て戻って来たらしい背後の通行人が、「さっきのリプレイか、え、 実況?」と驚きの声を上げるのが聞こえた。この夏、輪島は先輩横綱の意地と貫禄をむき出しに、日の出の勢いの北の湖の前に立ちはだかっていた。

 

 北の湖の他界にあたって、当然ながら輪島にインタビューが求められる。朝刊35面を見てしばし絶句。「輪島さんは下咽頭がんの手術を受け、現在は話すことが困難。取材には、(妻の)留美さんに輪島さんの言葉を唇の動きから読み取ってもらう形で応じた」とある。輪島の最初のライバルであった初代貴ノ花が口腔がん、北の湖が直腸がん、輪島までもがんの病苦に悩んでいたものか。

 新聞をはじめ各所で輪島とのライバル関係が回顧され、そのほとんどが「真の天才は北の湖だった」と評する。もっともながら、僕には少し異論がある。北の湖が稀代の大器であったことは疑いもないが、彼のそれは恵まれた天分をのびのび一直線に開花させたものだ。そこには翳りとかクセとか言うものがみじんもなく、朝になれば陽が昇るような自然さで頂点に登りつめた大きな不思議だけがある。輪島は違った。大学相撲から角界入りした経緯も当時はまだ珍しかった。ランニングを取り入れたトレーニング方法も独自なら、下手からの投げを決め技とする取り口もセオリー外れ。どこかワルの気配の漂う居ずまいを含め、現役時代からどこを切っても一クセ感じさせずにはいなかった。私生活のスキャンダルやプロレス入りなど引退後の話題にも事欠かなかったが、いつの頃からか名前を聞かなくなっていた。北の湖が陽なら輪島は陰、いかにも好一対のライバルである。北の湖が生来の大器であるなら、輪島は異能の天才と呼んでみたい気がする。

 横綱昇進後も、しばらく北の湖は輪島を苦手にしていたように記憶する。左の相四つだから立ち会いに大きな波乱が置きにくく、がっぷり四つの大相撲になる条件があった。あれは昭和51年の初場所だったろうか、型どおり右上手を引いた北の湖は、4本の指に加えて親指を通して輪島の回しをがっちり握り、さらに頭をつけた。北の湖が頭をつけた相手が他にあっただろうか、彼も必死だったのである。この工夫にさすが黄金の左も働きを奪われ、北の湖が堂々寄り切った。勝ち名乗りを受ける時、ちらりと右手の指を見る仕草がテレビに映った。親指の爪が剥がれたのだと、後で知った。

 両者の通算対戦成績は輪島23勝、北の湖21勝。「それは単に結果であって、勝ち越したことに意味はない。北の湖は本当に強かった」と輪島が唇で語った由である。朝日新聞もどこもここも、こぞって「真の天才は北の湖」だという。なるほど、星2つほどの多寡に大した意味はないだろうけれど、拮抗したこの数字はやはり何かを語っている。

 二人とも、本当に強かったんだよ!

  ← 74年名古屋場所、輪島が勝った。

  ← 76年初場所、北の湖が勝った。