散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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偶然のいたずら / ルターのりんごの木 / イヴの電車内

2015-12-29 14:03:01 | 日記

2015年12月24日(木)・・・これも振り返り

 偶然が思いがけない結果を生むことは珍しくなく、もちろん皆さん経験済みに違いないのだが・・・

 3~4年前の暑い季節に、名古屋で修論指導を行った。この時は東海や近畿在住の学生が多く、東京・名古屋・大阪と月ごとに場所を移してゼミを行っていたのである。愛知SCはJR名古屋駅から地下鉄を乗り継いで行かねばならず、慣れれば何でもないがこの頃はまだ自信がなかった。名古屋駅近くで中学校の同窓女子数名と合流し、早めの夕食を一緒にする予定だった。女子らの大半は卒業以来39年ぶりとか、そんな久々の機会である。

 この時、ゼミ生中にお隣の岐阜から参加したものがあり、「先生こっちですよ!」と確信もって誘導するのについていったところが、後から考えればまるで見当外れだった。炎天下をわざわざ地上に出て乗り換え、料金も時間も余計にかかると来ている。彼女も何でこんなことを思いついたものだか。

 ところが何と、地上に出たとたんにバッタリ出会ったのが、これまた件の中学校の別の同級生である。Mというこの男は名古屋の高校を出て医科歯科に入っていたので、本来タメだが大学の先輩という込み入った関係になった。ただ、卒業後はUターンして名古屋大学の耳鼻科に入局したから、彼の結婚式などわずか数回しか会ったことがなく、このバッタリも少なくとも10年以上ぶりのことであった。施設入所中の御母堂の見舞いに行くとかでその場で別れたが、「せっかくM君に会ったんなら、なんで連れてこんの!」と女子一同の御叱正にあずかったりした。

 何てことはないのだが、正しい路線で正しく乗り換えていたら生じなかったであろう、不思議な再会である。

***

 事はずっと小さいけれど、24日(木)にも少し似たようなことがあった。木曜の午後はたいがい御茶ノ水で仕事なんだが、この日は事情があっていつもより30分早く出た。目黒線に乗り込むとすぐ、近くの座席から高齢の紳士が立ち上がってやってきた。実名で御紹介、棟居(むねすえ)勇牧師である。

 勇先生は公益社団法人・好善社(http://www.kt.rim.or.jp/~kozensha/)の代表理事でいらっしゃる。木曜日の午後は同社へ出勤なさるらしく、僕の乗車駅が先生の通勤経路上にあるので、電車でお目にかかることはこれまでも何度かあった。ただこの日は、こちらがいつもより30分早く出ているので出会うことはあるまいと思ったところ、見事に命中したのが面白い。

 こういう時、いつも思い出すのが例の「死神」の話である。インターネットでは、ジェフリー・アーチャーの『死神は語る』という短編が出てくるが、たぶんこれはアーチャーが翻案したもので、原型は中東あたりの寓話として存在するのだ。ヴィクトール・フランクルが『夜と霧』の中で書いている。そちらを引用する。

 

「裕福で力あるペルシア人が、召使いをしたがえて屋敷の庭をそぞろ歩いていた。すると、ふいに召使いが泣き出した。なんでも、今し方死神とばったり出くわして脅された、と言うのだ。召使いは、すがるようにして主人に頼んだ、いちばん足の速い馬をおあたえください、それに乗って、テヘランまで逃げていこうと思います。今日の夕方までにテヘランにたどりつきたいと存じます。主人は召使いに馬をあたえ、召使いは一瀉千里に駆けていった。館に入ろうとすると、こんどは主人が死神に会った。主人は死神に言った。

『なぜわたしの召使いを驚かしたのだ、恐がらせたのだ』

すると、死神は言った。

『驚かしてなどいない。恐がらせたなどととんでもない。驚いたのはこっちだ。あの男にここで会うなんて。やつとは今夜、テヘランで会うことになっているのに』」

(『夜と霧』新版 池田香代子訳 みすず書房 P.93-4)

 

 これは単なる偶然の話ではなかったね。むしろ自己実現的予言というか、「ある結果を避けようとして選択した行動が、かえってその結果の実現を促進する」というモチーフだから、「名古屋乗り換え事件」とも「勇先生同乗事件」とも正確には重ならないが、まあそんな見当だ。ともかく勇先生がいつものようににこやかな様子で、10分ほどの間にいろいろと教えてくださった。その中に「菊池事件(藤本事件)」と呼ばれる、冤罪を疑われる事件のことがあった。少なくともこの事件の存在について、これまで知らなかったことを恥とする。

藤本事件 - Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/藤本事件)

菊池事件とは? - www5b.biglobe.ne.jp/~naoko-k/whatkkch.html

 

 さて、勇先生がコートの大きなポッケから取り出されたのは、先ごろ弟さんが訳された本である。

『ルターのりんごの木 ― 格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』 Martin Schloemann (原著), 棟居 洋 (翻訳) 教文館

「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」これは本当にルターの言葉なのか?それとも「似て非なるルター」がいたのか?膨大な歴史史料・時代証言・アンケートから読み解くドイツ心性史の試み。 (amazon の商品説明から)

 この言葉はずっと前にブログで扱ったことがある。滅びるのは「明日」、りんごの木を植えるのは「今日」なのに、どちらも「明日」または「今日」つまり両者が同時生起するものと勘違いして、見当外れの論究やら論難やらしているサイトが結構あった。しかしこの本は、そもそもこれが本当にルターの言葉かということを問題にしている。ちなみに訳者はフェリスの中・高の校長を歴任された、この道の先達である。

 こういうのは大好きな領域だから瞬時に読むことに決めた。これも「偶然の乗り合わせ」の実りである。

 

***

 今年最後の御茶ノ水は無事に仕事納め。イヴ礼拝に間に合うようさっさと乗り込んだ三田線に、とっても小さなおばあさんが歩行器を押しながら乗り込んできた。席はちょうど塞がっており、優先席から離れていることもあってか誰も譲ろうとしない。

「立ってらして大丈夫ですか?」

「ほんと、座った方が良くない?」と居合わせた中年女性が調子を合わせる。

おばあちゃん、周りを見回して、

「座るって、どこに座るんだい!」とこっちに噛みついてきた。やれやれ、まただよ・・・

「すみません、誰か座らせてあげてくれませんか?」

誰も動かず2秒ほど、いちばん近くにいた女性が無言で立ち上がった。吊革を握った手に顔を埋めるようにして、しんどそうである。あたりに座っていた人々の中で、いちばん相応しくない人が籤を引いた形になった。

「すみませんね、ありがとね」

おばあちゃんが座り、後は平静に戻った室内。乗客のほとんどが身じろぎもせずスマホを覗き込んでいる。

みんな大事なんだね、スマホ、お棺に入れてあげましょうね。

 


保護者科の光と影

2015-12-29 13:48:37 | 日記

 2015年12月6日(日)

 少々戻って、この日の保護者科のこと。

 「産声の奇跡」を載っけたタイミング、アドベントでもありふと思いついて、こちらからの能書きはやめ車座に椅子を並べ替えた。居並ぶ母親たちにもれなく共通するのが、「自分のお腹を痛めて子どもを産んだ」という体験である。コメントなしの言いっぱなし、順ぐりに語ってもらった。案の定、この話題なら皆の表情が動かずにいない。とりわけ僕の左隣で、一番くじを引いた人の思い出というのが、

 「第二子の時、家族全員の立ち会い出産というのをお願いしたんです。そしたら6歳の長男が見ていて鼻血を出して、お産はそっちのけで大騒ぎになって・・・」

 屈託ない語り口に一同爆笑し、後はよどみなく流れていった。感想の中で繰り返し異口同音に語られた内容を、集約するなら以下のようである。

・ 事細かに計画したけれど、予定通りにはいかないものだった。

・ エジプトでの出産で、エジプト人医師が自分以上に喜んでくれた。

・ 反日的な空気で道を歩くのも怖いような中国の街だったが、お産の前後には周りの中国人が心から支えてくれた。

等々

 「予測不能」「感謝」「人の絆」を3つのキーワードと言っておこうか。ただ「予測不能」と「感謝」は文句なく当確だが、3つめは「達成感」とか「喜び」とか他の選択肢もありそうである。生命の危険さえ伴う苦しい作業だったはずなのに、それすらも喜びの文脈の中に位置づけ直されているのは、不思議といえば不思議である。トラウマ克服のヒントは、案外、出産のメカニズムの中にあるかもしれない。

 

 ところでこの場には父親たちも何人かいた。夫婦並んで、私の体験か僕の体験かもはやわからない、渾然一体の感想を述べたカップルが1~2組、他の5~6人は話を振られて面食らっている。

 「営業先に産気づいたとの連絡が入って、泥酔状態で急行しました。分娩直前に産婦に肩を貸して一緒に歩くよう言われたんですが、私が千鳥足で・・・後はよく覚えていません。」

 このお父さんは精一杯参加した組である。営業先で、さぞ気もそぞろだったことだろう。

 「幸い、可もなく不可もなく・・・」

 ん~~~?

 おっしゃりたいことは分かるんだけれど、可もなく不可もないお産というものが、一体この世にあるものかどうか。母親の側から、あまりこういう表現は出ないはずだ。無事に生まれたならばすべて花丸、大金星ではないかしらん。では無事でなかったら・・・?そう、ここから次のテーマが始まる。

 同時に「父親」が一つの急所であることを再確認させられる。この場に集まっている父親たちは、多かれ少なかれ子育てに関わる意欲をもち、せっかくの日曜日の朝早くから信者でもないのに教会に足を運んでいる。そのような水準以上の人たちだけに、という話。

 連載第2回、早くも頭が痛い。