散日拾遺

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中谷林太郎先生の他界を知る

2016-11-05 09:53:49 | 日記

2016年11月5日(土)

 留守の間に届いていた同窓会報で、中谷林太郎先生の他界(6月4日)を知った。恩人がまた一人、旅立っていらしたのだ。

 片岡輝夫先生が武蔵時代の同級生のよしみで入学前にお引き合わせくださり、多ヶ谷勇先生の御葬儀に御一緒したあたりから記憶が始まる。M1の夏休みには微生物学教室へ通って遊ばせていただいた。同窓会報の遺影は適切にも先生のパイプ姿を伝えているが、講義の中ほどに必ず小休止を入れ、大好きなパイプをくゆらせていらしたものである。研究室に伺うとパイプたばこの芳香がいっぱいで、きっと先生のお宅全体がこの香りに満ちているのだろうと想像した。

 先生から伺ったお話の中でとりわけ印象深いのは、安部公房の卒業にかかわる逸話である。ノーベル文学賞候補にも挙げられた作家・劇作家の公房は、もともと東大医学部の学生である。しかし在学中から執筆に専心して学業は不振を極め、卒業試験にどうしても合格することができなかった。確か産婦人科と聞いたように思うが、何しろ教授の一人があまりの不出来に業を煮やし、「君はいったい医者になる気があるのか」と叱ったところ、「実はないんです」と公房の返事。「医者にはならないのか」「なりません」「ナゼそれを早く言わない!」こんな体たらくで医者になったら世に害をなすが、その気がないなら時間と労力を無駄にすることはない、このやりとり一つでめでたく公房氏の卒業が決まったと、同期生中では有名な逸話だったらしい。この件は別のルートからも聞いたから、まず間違いない。

 小生結婚の時には既に医科歯科を退官していらしたが、乞うて披露宴にお越しいただいた。六本木イゾルデの自慢の料理をのんびり飽食していただこうとスピーチもお願いせずにあったところ、仲人をおつとめくださったT教授が「中谷先生のスピーチはまだなの?」とせっつかれる。「お願いしてないのです」「そんなはずないよ、話す心ぞなえをしていらしたよ」と押し問答である。T先生は天才肌の超一流研究者であらせられたが、天才肌だけにときどき凡人にはあり得ない勘違いが起きる。この時もそれに違いないと思いつつ、断固確信のうえ催促なさるのに気圧されて司会のO君に耳打ちした。「では次に、中谷林太郎先生に・・・」と呼ばれた時の、中谷先生の大きな目玉が忘れられない。もっとも、そんなことで動じる先生ではなく、宴の直前に別のところでたまたま石丸姓の人に出会った逸話を語られ、見事めでたく話を飾ってくださったのが、ありがたくも申し訳ないことだった。

 その4年後に留学する直前、現・京大教授のN君と一緒に新宿のお宅にお邪魔し、楽しくお話を伺ったのが最後になった。安部公房はノーベル賞に値する文学者だったが、中谷先生のRプラスミドの研究も実はその学問的意義と臨床への示唆においてノーベル賞級といえる仕事だった。微生物学の講義の中で、弟子にあたるH助手(当時)が「中谷先生はノーベル賞を取れるか」をひとしきり真剣に論じ、「残念ながらたぶん取れない」と ~ やんちゃにも御本人を前にして ~ 結論したことがある。それを聞いて学生らは逆に先生の業績の真価を知り、こういう広報の仕方もあるかと感心したものである。

 最高級の知性と配慮に満ちた円満な人柄の相和した、希有の人だった。

 

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