散日拾遺

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「住居の思想」などといっては大げさですが

2016-11-18 07:23:11 | 日記

2016年11月18日(金)

 「玄関先を掃き水を打って客を迎える」ということについて先日書いたら、「茶人のたしなみ」ということをある人に指摘された。実はこれ、母については言い当てているのだがそれはさておき、僕の思ったのはむしろ「家の作り」ということである。小さくとも門があり、短くとも門から玄関まで道があれば、来客前にそこを掃き清めることは誰でも考えるだろう。マンションやアパートではそんなことを考える余地がなく、茶人もお手上げの形である。

 住居には生活思想や社交のあり方が反映されることは言うまでもなく、そのことのもうひとつの象徴は「縁側」というものである。それは家事の場であり、育児の場であり、社交の場でもあった。縁側にまつわる思い出をその時代の人間は必ずもっている。ハイハイし始めた子どもが縁側から転げ落ちることを親は何より警戒し、警戒してもインシデントは起きるもので、それがまた思い出につながった。

 「人が主と書いて住むと読む」ことに注目した住宅メーカーのCFが昔あったが、実際に僕らが見てきたのは、住宅構造の変遷によって人の感性と頭の中身が否応なく変えられる様である。「人が主」などとは、悪い冗談としか思えない。オートロック式のマンションと、縁側付きの昔ながらの一軒家とで、人が同じパーソナリティに育ちあがるはずがなかろう。

 来月の忘年会で、教員OBのH先生にお目にかかれるのが楽しみである。先生の持論に、畳というものが日本人の精神生活をどれほど豊かにしたかということがあった。少し前までの日本人は誰でも自分の家の構造をきちんと理解記憶していた。必要とあれば、正確に図面に落とすことすら可能だった。8畳間、6畳間、4畳半、2畳といった形で各部屋が規格化されていたおかげである。この習慣も室町時代に遡る。

 さて、日葡辞書の次には何を当たったものだろうか。

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