散日拾遺

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完全沈没まる三日

2016-11-23 10:51:53 | 日記

2016年11月23日(水)

 休日の朝、ゆっくり起きて昨夜の残りコーヒーをコップに注ぎ、加温しようとして、ん?何かが違う。スイッチどこかな、パネルはこんなだったっけ、軽く当惑すること6~7秒、カップを入れたのが電子レンジではない、オーブントースターであることにふと気がつく。あぶねー、あやうくコーヒーカップの姿焼きを作るところだった、お疲れも相当ですね。

 9月半ばに手帳を確かめた時、到底この秋を越せる気がせず絶望的な思いを舐めた。そう言いながらこれまでも何とかなっただろうと自分に言い聞かせ、ありがたや無事11月下旬を迎えたものの振り返るもおぞましい綱渡りの2か月である。仕上げに先週は日曜と土曜の二回、入試面接があった。これは物理的・生理的な負荷では説明のつかない気疲れのあるもので、おそらく他人様の人生の岐路にあたって転轍機の役割を果たすことへの恐れ/畏れに関わっている。とりわけ、一生懸命準備してきたに違いない志願者に「否」の判断を下す時の苦々しさといったら!その後まる三日間、碁会所で半日過ごしてヘボ碁を5局打つ以外に文字通り何もせず、何をする気も起きない無為徒食状態、「うつ」にしては食欲旺盛なのがいまいましいばかりである。

 そんな心事を見透かしたかのように、小豆島のMさんから久々のメールをいただいた。「幼稚園でいただいたお花」とあり、町立幼稚園へ人権対策課の仲立ちで出かけてきたのだそうである。Mさんの心の目の涼やかな明らかさには、いつも敬服する。「花の香をわかつや西の便りあり」・・・俳句にも川柳にもなっていないが、ともかくありがたい。そういえば母がこの初夏に入院中、松山の教会の子どもたちから花が届けられることがあり、これが闘病中の母を非常に慰めた。その立場になければ分からないことで、福音書が特記する意味も知られる思いがする。

 Mさんのお許しがあったので、元の写真ではきれいな白い飾り棚の上に乗っていたのを、花の部分だけ切り出して載せる。そうそう、Mさんが「16日のブログ、船の中で声を出して笑ってました」と書いてくださった。「やった!」と快哉、16日というと「ジボレ」の件かな、気もちよく笑ってもらえるのは最大の成功、引きつづき精進します!

  ← Mさんが送ってくださったもの、桃色・朱色が純白に映えて美しい。

  ← 母に贈られたもの、野の花らしい黄色・水色・小白のとりあわせが清にして楚。

 ***

 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

(マタイ福音書 25:34-40)

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