2017年5月23日(火)
ようやくここにたどり着いた。これはどうしても書いておきたかったので。
倉成さんたちと懇親の翌日、午後の便を待つ半日を使って小倉を訪ねてみた。両親は約60年の昔、博多に3年間住み、長崎など旅行しているが小倉は行かなかったという。博多と小倉は50kmほどの距離で知人もおらず、赤ん坊を連れてわざわざ出かけるには微妙な遠さだったかもしれない。今は近くなった。「新幹線で20分です」と被爆二世さんがおっしゃるとおり、わずか17分で小倉駅に降り立つ。遠賀川を越え、従姉弟らの住む直方(のおがた)のすぐ脇を通ったが、感慨にふけるゆとりのないのは便利の代償。
小倉は本来、第二の被爆地になるはずだった。1945年8月9日朝、小倉の空が曇りであったために米軍が予定を変更し、長崎に向かったのである。落とす側にとってはどこでもよく、落とされる側では運命が分かれた。
20日の晩に歓待してくれたO君が、北九州出身の長崎在住であることを書いた。彼のお祖母さまは小倉の人だったから、曇天のおかげで命拾いした。いっぽうO君の奥さんは長崎の人、そのお祖母さまは戦時中、勤労動員に出ていたが、たまたま体調を崩し友人に勤務を代わってもらった。友人は造船所で爆死した。
運命のアヤで被爆を免れた者の孫同士が家族を営み子を生す、与えられる命をあだやおろそかに扱うまいと、先にO君が書き送ってくれた。若い人たちからこういう言葉を聞くのが嬉しくありがたい。そんなこともあり、広々して広すぎない小倉の穏やかな町並みが、幻の被爆地とばかり感じられて仕方ないのである。
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駅から小倉城は2km足らず。時間はあるのでもちろん歩く。駅正面から伸びるのは平和通り、ほどなく右へ折れ、紫川の手前で川向こうの小倉城が突然目に入る。一度しか味わえない初見参の楽しみ、大きすぎない城の個性を探して、信号待ちの間に立つ位置を変えてみたりする。
平和通り
お城出現
川にかかる太陽の橋、おそらくこのあたりが投下の目印でもあったろうか。広島は二回りほど大きいが、いずれも河口の三角州を利して築かれた城下町で、どこか似通って感じられる。その朝が晴天であったら、紫川は太田川同様に水を求めて亡くなる人々で溢れたことだろう。ウラン型リトルボーイの熱線に対し、プルトニウム型ファットマンはケタ外れの爆風を特徴とした。直近の小倉城天守は耐え得たかどうか。「平和通り」の名までもが、想像上の痛みをかきたてる。小倉に代わって長崎で現実となった痛みである。
紫川の川面
太陽の橋
小倉城天守閣、背後の近代的なビルが無粋なことと、観光客の勝手な言い分。
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慶長7(1602)年に細川忠興の築いた小倉城は、下って戊辰戦争の舞台のひとつになった。小倉城が長州征伐の拠点だったのは、地の利を考えても頷かれること。実際、小倉藩と熊本藩はここを拠点に奮戦したが他の九州勢は総じて戦意が低く、さらに長州勢が門司を制圧するや、征長総督の老中・小笠原長行があっさり戦線離脱したため、九州諸藩が軒並み撤兵に転じた。孤立した小倉藩は慶応2(1866)年8月に小倉城に火を放って退去のやむなきに至る。総大将の戦線離脱は、来たる鳥羽伏見の戦での将軍・慶喜のそれを予感させる。負けるはずのない戦いをひたすら負けに誘導した幕軍の奇妙な動きについて司馬遼太郎がいろいろと書く中で、特に『花神』は小倉口の戦に触れていたように記憶する。
小倉城に数々の別名がある中で、鯉ノ城とあるのが目に止まった。広島城の別名もまた鯉城(りじょう)、広島カープの名の由来である。どうもこの度は、この連想が頭を離れない。ちょうど長男は学会かたがた広島を訪れており、次男は生徒を引率する下見のためにまもなく同地を訪れる。息子らが何を見てどう感じるだろうか。見下ろせば堀に鯉、シャチホコの脇に肉眼では鮮やか、写真でもどうにか確認できる。
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