散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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「世の中心地」?

2019-08-05 15:45:16 | 日記

2019年8月5日(月)

 「世の/中心地(ちゅうしんち)」と読むよね、どうしたって。さにあらず「世の中/心地(ここち)」なのである。
 
 「東の大宮を下りに遣らせて行くに、土御門の馬出しに薦(こも)一枚を引き廻して病人臥せり。見れば女也。髪は乱れて異体の物を腰に引き懸て有り。世の中心地(よのなかここち)を病むと見たり。」
今昔物語 巻第十二 神名(じんみょう)の睿実(えいじつ)持経者の語(こと) 第三十五(文庫 P.173)

 「世の中心地」は流行病の意とあり、「世の中ではやっている病気」ということであろう。場面は円融天皇(在位969-84 ~ 中国では宋朝が起こり、ヨーロッパではオットーが戴冠して神聖ローマ帝国を建てる時期)が重い病を得たところ。凡百の僧の加持祈祷では歯が立たず、神名(神明)山にこもって法華経読誦に余念のない睿実に声がかかる。この種の求道者は朝廷の召しにも易々と出てこないものだが、意外にも睿実、二つ返事で迎えの牛車に乗り込んだ。京に入って東大宮大路を南へ向かう、その途上のできごとである。

 路傍に打ち捨てられた女に睿実が目を留め、牛車を停めさせる。曰く
 「内裏には只今睿実参らずと云えども、やんごとなき僧たち多く候ひ給へば、何事か候はむ。この病人は助くる人も無かめり。かまへてこれに物食はしめて夕方参らむ。且つ参りて、今参る由を奏し給へ。」
 あわてた蔵人、
 「これきわめて不便の事也。宣旨に随ひて参り給たらば、此許(かばかり)の病者を見て逗留し給うべからず。」
 必死で制するのを睿実かまうところなく、
 「我君、我君」
 とか何とかまるめこんで、さっさと牛車から降りてしまう。「我君、我君」は「まあまあ、あなた」ぐらいの語感らしい。蔵人、「物に狂ふ僧かなと思へども、捕うべきことにあらねば」しょうことなしに手をつかねて見ていると、睿実は病人の胸を探ったり頭をおさえたり念入りに診察し、伝染病者として生きながら捨てられた女に「事しも我が父母などの病まむを歎かむが如く歎き悲し」み、病人の希望に応じて魚を買いにやらせ、粥にしたてて口に運んでやる。と、女のよく食べること食べること、衰弱の真の原因は伝染病よりも、貧の果ての栄養失調だったのであろう。
 たっぷり時間をかけて女の面倒をみてやった睿実、とどめに法華経から薬王品(やくおうほん)を誦して快癒を期し、それからおもむろに内裏へ向かう。円融帝の治療についてはほんの二行、
 「『経を誦し給へ』と仰せ有れば、市野麻紀、じゃない一の巻から始めて法華経を誦す。其の時に御邪気顕れて、御心地宜く成せ給ひぬ」
 以上。
 痛快な話で、そろそろ今昔物語が抹香臭い定型から俗塵にまみれた人間模様へ移り始めた。
***
 世の中心地(よのなかここち)が連想させるものは多々あるが、とりわけ印象に強いのはある患者さんが教えてくれたこと、摂食障害は伝染病だというのである。思わず聞き返したら、あらためてはっきりした口調で言いきった。
 「摂食障害は伝染病です。メディアを媒介にして伝染する流行(はや)り病です。そういう行動様式があるとメディアを通じて知ることが、次の病気を生むんです。」
 まさしく世の中心地か。
 やや広く見渡すならば、一見「世の中心地」と思われるものが、実は貧困から来る心身の栄養失調という例も枚挙にいとまなく、これこそが今日を特徴づける時代の病かもしれない。

Ω

方言指導とユーモアと

2019-08-05 09:20:51 | 日記
2019年8月4日(日)
 少々事情があって他教会の礼拝に出席し、久々に心の落ち着くところあり。帰宅後、録画してあった『この世界の片隅で』(2016)を家人が見ているのを、横から眺めているうちに引き込まれ、ついに見通してしまった。
 たいへんな名画で、この夏何度目かにアニメの力、日本のアニメの力を思い知らされている。テーマ・作画・描写・構成などについては語るべき人が語っているだろうから屋上屋を架すこと無用。ただ二つだけ書き留めておく。

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 方言が素晴らしい。広島弁に通じているわけではないが、伊予弁と似たところがあり、そして違いのあるところから、おおよその見当がつく ~ 瀬戸内の対岸なのだから似ているのは当然である一方、物語の中で島の民と陸地の人々の言葉の違いが語られるとおり、20kmも離れれば微妙ながらはっきりした違いがあるのもまた自然。ともかくそうした「おおよその見当」に照らす限りで、声優らの語る広島方言が素晴らしく正確であり、しかも子役脇役に至るまですべての声優のレベルが揃って高いところに舌を巻いた。
 たとえば幼女が、いわゆる標準語では「多い」と言うところを「多いい」と発音する場面がある。気づかず聞き流す人も「多い」と思われるが、僕は居住先のどこか ~ おそらく広島と中国山地を隔てて隣接する松江? ~ でこの発音に親しんだ。こんな細かいところまで綿密に考証のうえ準備指導し、声優よくこれに答えている。どこかのTV局の杜撰きわまる脚本とは、およそ異次元の細やかさである。

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 ユーモア。これを表す、もっと相応しい大和言葉があれば良いのに。たとえば主人公が、丘から見える呉港の軍艦をスケッチしていて憲兵に引っ張られる場面。間諜(スパイ)行為だというのである。これ、全く同じ逸話を長谷川町子さんが『サザエさん打ち明け話』に書いていた。長谷川さんは「『そういうあんたは憲兵失格、この顔スパイに見えるか』なんて、とても恐ろしくて言えたもんじゃない」と剽げたが、同じことを主人公の嫁ぎ先の家族が振る舞いで示す。身も凍るような厳しい譴責にうちしおれ、一同うつむいて嫁の不行跡を嘆くかとは思いの外、憲兵らが立ち去り家長が帰ってくるや、一斉に肩をふるわせて笑い出すのである。「スズが間諜?」「ああ、おかしかった」「憲兵のバカが」とめいめい涙目で笑いよじれる。これぞまさしく弱者最強の武器。
 チェーホフが生涯かけた力闘の末にたどりついた「忍耐」を、呉の人々 ~ 日本中の庶民らは父祖伝来の徳として黙々と実行する。それを潤す静かな笑いの力が、本作の全編を覆っている。ピカドンにも黒い雨にも、愛する者たちとの生別にも死別にも、人々はこの力で抗い耐えた。「信望愛」に加える第四の徳があるとすれば、「笑い」であるに違いない。

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 最後まで見通してから、もう一度冒頭を見た。少女が海苔を納めに島から広島へ小舟で渡る。俯瞰される風景の中に、破壊前のドームも投下の目印とされた相生橋も、骸で溢れることになる太田川の水面も皆静かに描きこまれ、しっとりとした演奏の "Venite adoremus" が背景に流れている。見事な導入である。
 8月6日を前にこれほどのものを見せてもらって、少しは元気が出てよいはずなのに、どうにも力の湧かないのはどうしたことか。もちろん、作品のせいではない。ここ数日、それとも数年、何かがうまくいっていない。世の中が?自分が?

Ω