散日拾遺

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これは同感

2019-08-21 10:14:25 | 日記
2019年8月21日(水)
 『表現の不自由展』の一件、ことさら言挙げするのも億劫というか剣呑というか、蟠(わだかま)りを抱えて傍観していたところ、内田樹センセイがすっきり言語化してくれている。


 この件に関する限り、ほぼ全く同感である。会場に足を運んでいないから断定できないけれど、僕自身はおそらく当該作品を好きになれず楽しみもできず、肯定的な意義を見いだすことすら難しいだろうと思う。しかし「だから出させるな、開催させるな」などというつもりはない。それは筋が違うというものだ。「あなたの意見に賛成はできないが、その意見を公にするあなたの権利については尊重する」という例の原則のしからしむるところで、民主主義の存在意義は一にかかってこの原則が守られるかどうかにある。
 「あなたの権利を尊重する」ことは、とりもなおさず「私の権利が尊重される」ということだ。「やつらを黙らせろ」式の短慮は、いずれ「おまえは黙っていろ」というしっぺ返しを招くに相違なく、要するに自分の首を絞めるものに他ならない。
 「民間ならともかく、公的な催しでは」というのも話が逆で、民間では総スカン食うこともありえようしそれもまた「自由」だが、だからこそ公的な催しから排除すべきではない。戦争の歴史に関わる催しに自治体が援助や関与を拒み、「政治性のあるものに肩入れするわけにはいかない」というもっともらしい理由が掲げられることが各所で ~ 長崎を含めて ~ 起きているというのも、たぶん相似形(相同形?)である。「公」の使命である「中立性」の意味が根本的にはき違えられている。「中立」は「微温的」の別名ではないし、いわんや「同調圧力に迎合的」の謂ではない。
 同種の思い違い(?)のささやかだが恐るべき実例を、僕はかつて目黒区の公立小学校の保護者の催しで実体験した。思い違いの源がめいめいの「常識」の中にあるから厄介である。これらをズラリと並べてみると我らが社会の「表現の不自由度」は既に危険警戒水位に達しつつあるように思われる。あるいは、もともとそのレベルにあったのか。

 帰省後の再適応不全で朦朧とした頭に、東京がニネヴェと重なって見えた。旧約のニネヴェは預言者の言葉に悔い改めたが、歴史上のニネヴェは紀元前612年のアッシリア滅亡に際して徹底的に破壊され、往時の繁栄を二度と取り戻すことがなかった。

 「ヨナ、ヨナ、お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこの『とうごま』の木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
(ヨナ書 4:10-11)

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