散日拾遺

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ダニエルと朋輩たち

2020-02-23 11:43:51 | 日記
2020年2月23日(日)
 新バビロニアのネブカドネツァル2世はエルサレムを陥れてユダ王国を滅ぼし、多大の財宝を奪ってバビロンへもち去るとともに、住民の多くを同地へ強制移住させた。いわゆるバビロン捕囚であり、通常はBC586年のこととされるが、実際にはBC597年から577年にかけて数次にわたったらしい。新バビロニアに代わってオリエントの覇者となったアケメネス朝ペルシアの王キュロス2世が、民の帰還と神殿再建を許可したのはBC537年とされるから、捕囚は短く数えてちょうど40年(長く見れば60年)に及ぶ。「荒野の40年」の再現である。


https://thejewishmuseum.org/collection/26577-the-flight-of-the-prisoners

 2月に入ってからイザヤ以下の預言書を順に教会学校で扱ってきたのだが、このあたりの歴史がざっとでも頭に入っていると話がわかりやすい。粗雑にまとめてしまえば、イザヤはユダ滅亡に先立ってこれを予言し、エレミヤはネブカドツァルの侵攻とユダ滅亡を同時代人として目撃し、エゼキエルは捕囚の民の中で幻を語った。 ante - intra - post の整然たる時系列になっている。
 続くダニエルと朋輩らの位置取りがまた興味深い。ダニエル書に現れる有名な場面のうち、「燃えさかる炉」の逸話(ダニエル書3章)はネブカドネツァルの宮廷で起きたこと。一方「獅子の穴」の逸話(同6章)はキュロス王の宮廷のできごとだから、ネブカドネツァルに見いだされたダニエルは覇権交代を生き延びてキュロスに仕え、捕囚からの解放を目撃したわけである。預言者ダニエルの実在性やモデルとなる人物(たち)の詳細については、さしあたり問わない。何しろ post からさらに下って次のステージへの転換点を画する世代が、ダニエル物語の背景だったのだ。

***
 ネブカドネツァルの戦利品の中で、ソロモン以来の財宝にまさってひときわ覇王を喜ばせたのは、知的・霊的に豊かな資質をもつユダの若者たちであったかと思われる。

 「ネブカドネツァル王は侍従長アシュペナズに命じて、イスラエル人の王族と貴族の中から、体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるように定め、三年間養成してから自分に仕えさせることにした。」
(ダニエル書1章3-5節)

 英才教育であり、エリート養成である。ユダの遺伝子をカルデアの環境で育てるという社会生物学的実験の性質も見てとれる。しかし、そこに葛藤が起きずにはすまない。
 支配者は若者らにカルデア風の名を与えた。

 「この少年たちの中に、ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人がいた。侍従長は彼らの名前を変えて、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。」
(同6-7節)

 名は体を表すというわけで、これをもってカルデア化の総仕上げ、上から下まですっかりバビロン風の若者ができあがったと、王はさだめし満足したことだろう。
 しかし、ことはそう単純ではなかった。

 「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た。」
(同8節)

 「汚す」云々はもちろんユダヤの律法に関わることである。ダニエルらは外側がカルデア色に染まっても、内面は聖書の民であり続けようと決断した。ここで侍従長は「野菜と水だけで少年らの顔色が悪くなろうものなら、王の機嫌を損じて自分の首が危ない」とあわてており、要するに外貌しか気にしていない。つやつやした顔色と利発な言動を見て、王も自分の調教が成功したものと思い込む。「ういやつばら」とかわいがったことであろう。
 だからこそ「黄金偶像崇拝」事件で若者らの本心が知れたとき、王の怒りはあれほど激しく燃え上がったのである。

 「「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
 ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。」
(同3章16-23節)

 ないがしろにされた権力者の怒りとは、かく凄まじいもので、少々突飛ながら『地獄変』を連想したりする。この作品は、絵仏師良秀の人道に外れた芸術至上主義をテーマと見るのが普通のようだが、作中では明示されない邪悪な動機 ~ 「如何にも口惜しそうな容子で唇を噛みながら、黙って首をふった」娘の姿で暗示される ~ をもって、意のままにならぬ相手を焼き殺す者の方が、よほど嗜虐的でおぞましい。情欲を巡る内密のドラマと、民族のアイデンティティに関わる歴史劇とを並べるのは無茶なようだが、「怒り」に焦点化してみると卑小も壮大も捨象されて重なってくるのが、面白くもあり怖くもある。
 ともかく歴史の現実の中では、どれほどの者が焼かれ獅子に喰われたか、あるいは生き延びるために内心のカルデア化を受け入れねばならなかったか。バビロン捕囚は分岐点であったが、少なくともある者たちはそこで古来のアイデンティティに立ち返り、捕囚以前よりもはるかに純粋な「ユダ」として帰郷することになる。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、名を変えられても内心を変えることがなかった者たちのシンボルであろう。

 これについて、今日のわれわれには考えるべきことがいろいろとある。

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