2020年2月2日(日)
C.S.の礼拝では教案誌に沿って今日から預言者シリーズで、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルと続く。
預言と予言の違いと重なりから説き起こして、「召命」と呼ばれる乱暴なリクルートの形、現実に語られた警世の言葉などを中高生らに伝えながら、あらためて感じるのは「預言者」という存在の不思議である。
権力に屈せず民衆に阿らず、神から直接託された言葉をひたすら発信し続ける、歩く放送局という役どころだが、どう考えても危険が大きすぎる。畳の上で(?)安らかに死ねた預言者がどれだけあったか、洗礼者ヨハネは投獄された後に首を切られ、イエスその人は十字架で惨死を遂げた。前者は権力者にたてついて圧殺され、後者は宗教上の権威主義とポピュリズム的激情の共通の敵と見なされ血祭りの好餌にあげられたのである。
それでも(あるいはそれゆえに)預言者の存在はかけがえのないもので、「幻亡き民は滅ぶ」とするなら、「預言者を生まない社会は既に滅んでいる」と言えそうである。預言者の言葉に耳を貸さない社会は、いずれ滅亡と捕囚の憂き目を見るだろうが、預言者という存在をもたない社会はそのことにおいて既に死んでいる、そういった意味である。
そうは言ったものの、いったい現代社会のどこに預言者がいるのかと自ら首を傾げ、手足のよく伸びた中高生(珍しく今朝は男子が3名混じっている!)の艶々した頬を眺めて思い当たった。
グレタ・トゥーンベリ(2003-)が "How dare you" を連発しつつ世界のおとなに啖呵を切ったとき、聖書の民の多くはそこに預言者を見たのではないか。苛烈とも言える彼女のスピーチは、感動と賞賛ばかりでなく反発や憎悪も引き起こしたし、無視黙殺のポーズも広く見られたが、それこそ代々の預言者が例外なく経験したことだった。「地球温暖化など存在しない」と力に任せて言いつのるトランプ大王がまた、この構図を完成するために不可欠の存在である。やや遡って、マララ・ユスフザイ(1997-)も同じ系譜に属するだろう。彼女は実際、タリバンに銃撃されて九死に一生を得た。今日、預言者の役割はしばしば少女らに託される、そういう時代なのかもしれない。
そこであらためて考える。日本の歴史の中で、預言者の役割を果たしてきたのはどのような人々か。彼らの後裔は今もなお生まれつつあるのか、あるとするならどこへ行けば会えるのか?
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