散日拾遺

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ヤマナラシはヤマナラシ?

2020-06-08 12:46:56 | 読書メモ
2020年6月8日(月)
 「さあ、今度はひとつ、みなさんから離れて、ひとりで茸をとりに行ってみますよ。さもないと、私のとったのが、いっこうに目だちませんからね」彼(コズヌイシェフ)はいって、今までみんなといっしょに、まばらにおい茂っている白樺の老樹のあいだを縫いながら、絹糸のように低い草を踏んで歩いていた森のはずれから、奥のほうをめざして、ひとりで歩いて行った。
 そのあたりには、白樺の白い幹のあいだから、やまならしの灰色の幹や、胡桃の黒っぽい茂みが望まれた。
『アンナ・カレーニナ』木村浩訳、新潮文庫版(下) P.33-4

 「やまならし」には傍点が振ってある。作品の中で、もう三、四度も出てきただろうか。そういう樹のあることを初めて知った。

 ヤナギ科ヤマナラシ属の落葉高木で、「山鳴らし」すなわち、葉がわずかな風にも揺れて鳴ることからこの名があるという。
 学名は Populus tremula var. sieboldii とある。英語では aspen だと言うんだが、aspen を英和辞典で引くと「ポプラ」、ポプラを和英辞典にかけると「poplar」で、いつの間にかヤマナラシは消えてしまう。ポプラ Populus はヤナギ科ヤマナラシ属なので、学名としてはヤマナラシがポプラの上位にあるが、種のレベルでは poplar のほうが popular ・・・ 失礼。
 ヤマナラシの別名がハコヤナギ(箱柳、白楊)だそうで、これならぐっと知名度が上がる。写真は wikipedia から。

 


 さて、右の写真は弟子屈(てしかが)町にて撮影とあり、なるほど北国に似つかわしい樹木なのかと行を追っていくと、
 「日本固有、山地に自生」

 日本固有?
 ということは、『アンナ・カレーニナ』に登場する灰色の幹の樹は、ヤマナラシではあり得ないことになる。今はまことに便利な時代、インターネットでロシア語翻訳をかけると、
 ヤマナラシ → дикобраз (dikobraz)
 さらにこんなページが出てきた。
МЫ НА ЛОДОЧКЕ КАТАЛИСЬ(僕らはボートに乗っていた)
青年が自分の恋心をのろける歌です。ちょっととぼけた民謡。
(作詞作曲不詳、19世紀頃成立)
http://ezokashi.opal.ne.jp/r_mynalodochkje.html
 
 2番の歌詞が「痛々しげに鳴かないでくれカッコウよ/呪わしいヤマナラシの木の上で 」と歌うのだが、ここでのヤマナラシは осина、上記とは違う言葉だけれど、解説にはこのようにある。
 「ヤナギ科ヤマナラシ属(ハコヤナギ属とも)の高木で、ポプラの近縁種。ユーラシア大陸北部に広く分布し、北日本でも見られます。葉柄が長いため、葉がかすかな風にもよく震えます。」
 だとすれば、日本固有種のヤマナラシと厳密には別ものだとしても、きわめてよく似た近縁種であるに違いない。

 さらに解説の続き:
 「ロシアの伝説では、新約聖書に登場するユダがこの木に首を吊って死んだためにそれを思い出して震えているとも、キリストの磔刑を見た恐ろしさに震えているとも言われ、「縁起の悪い木」とされています。」
 なので民謡は「呪わしい」と歌うのだが、あるいはトルストイさりげなくこのメタファーを織り込んだか。

 コズヌイシェフはワーレンカと9割方の相思相愛、茸狩りの一日がプロポーズの場になるものとキチイは予測し熱望している。けれども、コズヌイシェフが歩み入り、やがてワーレンカを見いだす方角には、白樺の間から不吉なヤマナラシが灰色の幹を覗かせている・・・

Ω
 


納骨の帰り道

2020-06-08 09:57:53 | 日記
2020年6月7日(日)
 土日に関西へ往復。緊急事態宣言で帰省を断念して以来、初めての首都圏外への移動である。かつて解剖学講座をあずかっていた岳父がちょうど二年前に他界した。葬儀後は献体に回り、このほど遺骨が返還されてきたのを受けて納骨の運びとなったのである。
 六甲山系の東端にあたる山上の広々とした墓所に、信州や関東そして地元から一族集合。日差しは強いが、折よく風が涼を運び、青天を雲一つなく吹き清めている。ベトナム出身の若い神父のたどたどしくも心のこもった司式で、つつがなく納骨の儀が進んだ。昨春、やはり丘の上にある四国の墓所に、牧師を招いて母の遺骨を納めた時のことが何かと思い出される。
 ベトナムでは死者をどのように葬るのですかと、聞いてみたかったが機を逸した。

 麓の駅まで帰途は歩くからと義母・義兄弟らと現地で別れ、歩き出したら長男が追いついてきた。関西で医師修行中のこの息子とは、一緒に歩いたり走ったりした記憶がむやみに多い。三ノ宮あたりの海岸近くからロープウェイを見上げつつ徒歩で登り、六甲の山稜を経て宝塚まで、坂のきついこと、道の未整備、眺めの悪さに悪態つきながら踏破し、宝塚郊外の急坂では後ろ向きに歩いて降りたのが10年近く前になる。
 病院勤務の近況など語らううち、小さな坂を一つ越えたら突然目の前に海と神戸が開けた。これが六甲の面白さである。



Ω