散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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睡眠剥奪 ~ 精神に異常を引きおこす最も確実で簡便な方法

2022-01-17 06:52:00 | 日記
2022年1月18日(火)

 もう何年も目覚まし時計を使ったことがないと言ったら、若いカップルの表情が珍しく動いた。「すごい!」「それはすごいね!」

 別に何もすごくはない。夜は10時30分前後に床に就き、必要なだけ眠って自然に目覚めるのが5時半から6時過ぎ、それで遅すぎることはめったにないから、目覚ましは必要ない。早く出るために仕掛けて寝ることもあったが、そういう時には体もよく分かっていて早く覚めるから、大抵は鳴らさずに終わる。操作を誤って鳴らなかったらと考えると、目覚ましに頼る方がかえって怖い。そんなことがもう何年、ことによったら何十年も続いてきたという、ただそれだけの話。
 こちらに言わせれば、彼らが目覚まし時計を常に必要としていることの方が異常であり、心配でもある。もとより若者は日中の活動が多く、若い時は眠いものでもあり、そういう事情で起きられないのはちっとも構わない。しかし実際には、仕事が片づかなかったりやりたいことがあったりで夜更かしを続け、もっと眠りたいところを目覚ましの助けで無理やり起きている、そうしたやり方の恒常化が病的だというのである。
 そして今や、病的な目覚まし使用者が日本人の中にどれほど多いことか!「韓国に次いで」という前置きが、「労働時間が長い」「睡眠時間が少ない」に共通してかかってくる。「自殺が多い」こともその延長上にある。

 必要な睡眠時間には個人差のあることながら、「90分 × 5 = 7時間半」という数字は大多数の人間にとってよい指標である。好きで夜更かしするのは個人の不心得であるが、とりたくても7時間の睡眠時間をとることができない状態に勤労者を追い込む職場があったとしたら、それだけで犯罪的といってよい。
 大半の職場は日中の仕事を要求するのだから、職場と睡眠時間を直結させるのは飛躍のようにも思われるが、そうでもない。放送大学の名科目『睡眠と健康』は以下のように教えている。
 「一日の生活時間を労働、睡眠、家事・自由時間に分けると、おおよそ8時間に3分割される。労働時間は自己管理できない時間帯であり、また家事・自由時間には食事・入浴時間や家事、通勤・通学時間などが含まれており、ほぼ固定化される場合が多い。したがって、長時間労働になれば、必然的に睡眠時間が削られる可能性が高くなる。」
(P.117-8)
 残業や持ち帰り仕事をわきまえなく増やせば、確実に睡眠時間が減るという仕掛けである。睡眠時間が減って眠気が残れば翌日の作業効率は低下し、そのためさらに残務が増えるという悪循環が生じる。これはわかりきったことだが、わかりきった理屈から生じる必然的な負のループに対して、最高度に頭の良い優秀な人たちが全く抵抗できず、愚かしい泥沼生活を続ける姿をさんざん見てきたし、今も見ている。
 この人たちは頭が良いばかりでなく責任感や役割意識が人一倍強く、さらに負けん気も強いと来ているので、「無理です」「できません」とは最後の最後まで言えないのである。しかし客観的にどう見ても無理なことを、無理と認められなくなっているとすれば、既に病気であるといってよい。依存性疾患に類似した「否認」の病理がどこからか働き始めているのではないか、どうもそんな気がする。そうした個人病理に、組織の病的な要求が付けこんでいく。

***

 過労自殺が認定される場合、「過度の労働を強いられる中で『うつ病』を発症していた」と判断されることが多い。社会的文脈としてはそれでかまわないが、厳密な意味で当事者が「うつ病」であったかどうか、時として疑問に感じることがある。病気ではなかったというのではない。「うつ病」という慢性的で迂遠な病態とは違った、より急激で結実因子の明瞭な病的変化、睡眠剥奪症候群とでも呼ぶべき一種の錯乱状態に、この人々は追い込まれていたのではないか。

 「亡くなる直前の19年9月には、仕事の不満を家では口にすることがなかった男性が「やることが多すぎて仕事が終わらない」と漏らしていたという。妻が就寝時間を尋ねると『(午前)4時、5時』と答えたことがあった。それでも、朝は午前8時前に家を出て会社に向かったという。」

 仮に家を出る30分前に起きるとして睡眠時間はたかだか3時間。山積みの仕事と3時間未満の睡眠を数週間にわたって続けるのは、ほとんど拷問に等しい。この状況下では意識障害に近い状態に陥り、自分が何をし(ようとし)ているのか分からぬまま、現状から逃げたい一心で命を絶つことも起きるだろう。(推定される)発症の時点から短時日で自殺に至ることが多いのも、急速な状態の悪化を示唆している(下記)。うつ病でも睡眠障害はほぼ必発だが、「うつ」を経由せずとも睡眠剥奪だけで破綻は生じ得る。そのことを言いたいのである。

 

 
 ***

 睡眠の非常な重要性、従ってまた睡眠剥奪の非常な危険性については、正面から論じた文献がいくらもあるに違いない。ここでは搦め手から、最近目にとまった雑多なものを転記しておく。

「スプルアンス大将をめぐるエピソードをあげますと、彼は艦橋でしばしば本を読んでいた、また戦闘中でもきまった時間が来ると、部屋に入って寝てしまう。これにはさすがに若い士官が怒って、自分たちが一生懸命戦闘しているときに、長官が寝るとは何ごとかと言って詰問したのに対して、自分はいざという時に責任ある決断を下さなければならない、そのためには心身を冷静な判断に耐える最善の状態に置かなければならぬ、それで十分な休養をとるよう心がけているのだ、と答えたというのです。
 一方、レイテ沖海戦では日本の栗田艦隊が、せっかくマッカーサーの上陸軍を目前にしながら反転して、あたら決戦のチャンスを失ってしまった。いまだに謎と言われておりますが(・・・)はっきり言えることが一つある。それは栗田長官以下全幕僚が、おそらく三日間ぐらいの戦闘を通じて不眠不休であった(・・・)その結果全員が疲労困憊し、精神錯乱に近いような状態に陥っていた、そのためアメリカ側の飛行機の一寸した動きにも判断を狂わされた、ということであろうと思います。」
吉田満『或る戦争秘話』

「道具を用いる拷問以外に、特にイングランドで多く用いられたいわば消極的拷問がある。長時間にわたる飢餓、不眠、正座、強制歩行などである。イングランドでは拷問が禁じられていたので、このような消極的拷問が用いられたのであろう。
 例えば1645年のサフォーク州の巡回裁判で、約200人の男女が魔女として投獄された。その中の一人、70歳の老牧師ジョン・ローズは、不寝番の監視のもとで、数昼夜ぶっ通しに獄房の中を歩き続けさせられた(ときには前向きに、ときにはうしろ向きに)。ローズ師はついに意識を喪失したまま、悪魔との結託、妖術による舟の顚覆などを自供。あとでそれを否認したが容れられず、絞殺された。」
森島恒雄『魔女狩り』岩波新書742 

 極端な例を挙げるようだが、過労自殺に至ったケースでは想像を超える極端な状況が事実存在し、勤勉な働き手から睡眠を奪っていた。人の正気を失わせる最も確実で簡便な方法は、その人の睡眠を奪うことである。

Ω

編集者はどこに?

2022-01-17 06:52:00 | 読書メモ
2022年1月17日(月)

「お母さまが病室に見えられました」・・・
朝の連載小説

【見える】[下一自]
 ① 目に感ぜられる、目にうつる
 ② 見ることができる
 ③ その状態が感じとれる、解釈される
 ④ 「来る」の敬語、おいでになる
岩波国語辞典など
 
 「見えられました」は敬語の重複、「見えました(=おいでになりました)」で必要十分だが、それで不足なら、せめて「お見えになりました」とすればよいのに。
 話者として想定されているのは昭和二十年当時の成人、その口の端に「見えられました」の浮かぶ余地は皆無だったはずである。理屈ではなく肌感覚の問題、美醜以前に落ちつかない…

 この種のことは、書き手よりも編集者が気づかないものかなと常々思う。上の例などはまだしも微妙だが、単純な誤記や事実誤認については編集者こそ、筆者と同等かそれ以上に責任を負うべき立場にある。
 書き手にはさまざまな思惑があり心配事もあって、そちらに気をとられてとんでもない思い違いや勘違いをやらかしがちなものだ。世界に一つしかない原稿の第一番目の読者である編集者は、執筆現場のいわば砂かぶりに位置しており、こうしたミスを修正するうえで絶好の立場にあるはずなのに。

 「江戸城内にはまだ実力主義の気風が残っていましたから、国松を待望する大名も多かったようです。そうしたなかで、家康の正妻である春日局(かすがのつぼね)が駿府城に出向き、家康に「ちょっと、おじいさん。何とかしてくださいよ」と直訴しました。それで家康が動いて…」
門井慶喜『家康の江戸プロジェクト』祥伝社新書 P.129
 
 まさか!
 春日局は明智光秀の重臣・斎藤利三の娘、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の妻であった。徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の三代将軍家光)の乳母に抜擢され、憎くもない夫と離縁する形で大奥に入ったが、家康の室になった訳ではない。側室でもなければ正室でもない。もっぱら家光の養育係としてスカウトされた、それだけでありそれに尽きる。
 この筆者がそうした事情を知らないはずがなく、それこそ何かの勘違いで筆が滑ったに違いない。そのとき編集者は何をしていた?

 余談ながら「家康の正妻」に注目するのは、なかなか面白いテーマである。民法も何もない時代で、正室と側室の違いがどこにあるかがそもそも問われるが、これは理屈をこねるよりも実例を見た方が話が早い。
 家康の生涯で「正妻」と目された女性は二人あった。

 第一は築山殿。今川氏の一族で、今川義元の姪(妹の子)にあたる。家康が今川の人質であった時代に正室となり、長男信康を産んだ。永禄3(1560)年に桶狭間で義元が討たれて家康が独立し、二年後に人質交換で岡崎に迎えられてからは城の近くにある総持寺の築山に住んだところから、築山殿と言われる。
 正室であるうえ跡継ぎを産んだのだから不動の地位にあったはずだが、出自を頼んで気位が高く夫を見下すところがあったともいわれる。天正7(1579)年に信康と謀って甲斐の武田と内通したとの疑いをかけられ、殺害された。家康の生涯最大の痛恨事である。

 第二は朝日姫、こちらは秀吉の妹(異父妹)である。小牧・長久手で両雄相まみえ、戦闘では家康が一本取ったが政略でまんまと秀吉に丸め込まれた。戦後の和睦の一環として、立派な夫のある「妹」をわざわざ離婚させて家康に嫁がせたのだが、家康も天下人の妹を迎える以上、正室として遇する他はない。
 ただ、いかにも無理があった、というのも時に朝日姫44歳、現代の44歳とは話が違う。結婚の実質など誰よりも当人たちが期待していない。二年後に母大政所の病気見舞いと称して上洛した朝日姫は、そのまま京都に滞在することさらに二年、48歳で病没した。

 これら正室との実り少ない縁に引き替え、側室に関しては家康はなはだ艶福であり子福者でもあった。以下はその驚くべきリストである。
  西郡の方 ・・・ 次女督姫の母
  於万の方 ・・・ 次男於義丸(結城秀康)の母
  於愛の方 ・・・ 三男秀忠の母
  於都摩の方・・・ 五男万千代、三女振姫の母
  於茶阿の方・・・ 六男忠輝、七男松千代の母
  於亀の方 ・・・ 八男仙千代、九男義直の母
  間宮氏女 ・・・ 四女松姫の母
  於万の方 ・・・ 十男頼宣、十一男頼房の母
  於梶(勝)の方・・・五女市姫の母
 以下は子を生すことあたわなかった側室たち。
  阿茶の局
  阿牟須の方
  於仙の方
  於梅の方
  於竹の方
  於六の方
  於夏の方

 名家のお嬢さん筋に執心だった秀吉に対して、徹頭徹尾実質主義の家康、このあたりは坂口安吾『二流の人』の筆致が抜群に面白いのだが、どうしたことか手許に見あたらない。
 話を戻し、書き手のうっかりということについて、もう一つ。

 「『旧約聖書』では、大洪水の後、生き残ったノアの方舟の生き物たちのうち、最初に飛ぶのが白い鳩でした。」
前掲書 P.104
 そう思われがちだが、実は違う。

 「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。」
(創世記 8:6-7)

 白い鳩ではなく、黒い烏が最初だった。ただ、この時はまだ水が引いていなかったので、烏はしょうことなしに箱舟から出たり入ったりで終わってしまう。烏の責任ではないのだが、ノアはあっさり選手交代させ七日後に鳩を放す(「白い」鳩とは特に書かれていない)。鳩はオリーブの枝をくわえて帰って来、さらに七日後に放たれたときはもう帰ってこなかった。
 この通り、黒い烏は結果を出せず、白い(かどうかわからない)鳩は成果を得ているから、「白」の象徴的な価値を強調する前掲書の文脈では差支えないことというものの、「最初に飛ぶのが白い鳩」と言いきるのはやっぱりまずい。
 しつこいようだが、こういうことをチェックするのが、本来なら編集者の仕事ではないかというのである。

 もう一つだけ、これはタイトルに惹かれて買い帰った ~ 徳川ものは当方も好きなので ~ 帰りの電車の中で気づいたこと。

 「万千代は、天正3年(1575)11月、元服して、井伊兵部直政となった。
 その際、直政は、家康に乞うて、織田信長に滅ぼされた武田勝頼の、生きのこった家来百余人を、おのが麾下に加えた。」
細谷正充編『井伊の赤備え』(河出文庫)P.12

 赤備えが武田(とりわけその部将、山県昌景)から井伊に伝えられた由来を示す有名な逸話であるが、年代が間違っている。武田勝頼が天目山で敗れ甲斐武田氏が滅ぶのは天正10(1582)年3月のことだから、天正3年の井伊直政元服時ではあり得ない。年表を見るまでもなく明らかな錯誤で、これなども書き手の手が滑った一例であろう。
 「その際」を「後に」と修正すれば済むことであり、そうしたことこそ編集者の仕事の大事な一部ではないかと、重ねて主張したいのである。

Ω