2022年1月18日(火)
もう何年も目覚まし時計を使ったことがないと言ったら、若いカップルの表情が珍しく動いた。「すごい!」「それはすごいね!」
別に何もすごくはない。夜は10時30分前後に床に就き、必要なだけ眠って自然に目覚めるのが5時半から6時過ぎ、それで遅すぎることはめったにないから、目覚ましは必要ない。早く出るために仕掛けて寝ることもあったが、そういう時には体もよく分かっていて早く覚めるから、大抵は鳴らさずに終わる。操作を誤って鳴らなかったらと考えると、目覚ましに頼る方がかえって怖い。そんなことがもう何年、ことによったら何十年も続いてきたという、ただそれだけの話。
こちらに言わせれば、彼らが目覚まし時計を常に必要としていることの方が異常であり、心配でもある。もとより若者は日中の活動が多く、若い時は眠いものでもあり、そういう事情で起きられないのはちっとも構わない。しかし実際には、仕事が片づかなかったりやりたいことがあったりで夜更かしを続け、もっと眠りたいところを目覚ましの助けで無理やり起きている、そうしたやり方の恒常化が病的だというのである。
そして今や、病的な目覚まし使用者が日本人の中にどれほど多いことか!「韓国に次いで」という前置きが、「労働時間が長い」「睡眠時間が少ない」に共通してかかってくる。「自殺が多い」こともその延長上にある。
必要な睡眠時間には個人差のあることながら、「90分 × 5 = 7時間半」という数字は大多数の人間にとってよい指標である。好きで夜更かしするのは個人の不心得であるが、とりたくても7時間の睡眠時間をとることができない状態に勤労者を追い込む職場があったとしたら、それだけで犯罪的といってよい。
大半の職場は日中の仕事を要求するのだから、職場と睡眠時間を直結させるのは飛躍のようにも思われるが、そうでもない。放送大学の名科目『睡眠と健康』は以下のように教えている。
「一日の生活時間を労働、睡眠、家事・自由時間に分けると、おおよそ8時間に3分割される。労働時間は自己管理できない時間帯であり、また家事・自由時間には食事・入浴時間や家事、通勤・通学時間などが含まれており、ほぼ固定化される場合が多い。したがって、長時間労働になれば、必然的に睡眠時間が削られる可能性が高くなる。」
(P.117-8)
残業や持ち帰り仕事をわきまえなく増やせば、確実に睡眠時間が減るという仕掛けである。睡眠時間が減って眠気が残れば翌日の作業効率は低下し、そのためさらに残務が増えるという悪循環が生じる。これはわかりきったことだが、わかりきった理屈から生じる必然的な負のループに対して、最高度に頭の良い優秀な人たちが全く抵抗できず、愚かしい泥沼生活を続ける姿をさんざん見てきたし、今も見ている。
この人たちは頭が良いばかりでなく責任感や役割意識が人一倍強く、さらに負けん気も強いと来ているので、「無理です」「できません」とは最後の最後まで言えないのである。しかし客観的にどう見ても無理なことを、無理と認められなくなっているとすれば、既に病気であるといってよい。依存性疾患に類似した「否認」の病理がどこからか働き始めているのではないか、どうもそんな気がする。そうした個人病理に、組織の病的な要求が付けこんでいく。
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過労自殺が認定される場合、「過度の労働を強いられる中で『うつ病』を発症していた」と判断されることが多い。社会的文脈としてはそれでかまわないが、厳密な意味で当事者が「うつ病」であったかどうか、時として疑問に感じることがある。病気ではなかったというのではない。「うつ病」という慢性的で迂遠な病態とは違った、より急激で結実因子の明瞭な病的変化、睡眠剥奪症候群とでも呼ぶべき一種の錯乱状態に、この人々は追い込まれていたのではないか。
「亡くなる直前の19年9月には、仕事の不満を家では口にすることがなかった男性が「やることが多すぎて仕事が終わらない」と漏らしていたという。妻が就寝時間を尋ねると『(午前)4時、5時』と答えたことがあった。それでも、朝は午前8時前に家を出て会社に向かったという。」
仮に家を出る30分前に起きるとして睡眠時間はたかだか3時間。山積みの仕事と3時間未満の睡眠を数週間にわたって続けるのは、ほとんど拷問に等しい。この状況下では意識障害に近い状態に陥り、自分が何をし(ようとし)ているのか分からぬまま、現状から逃げたい一心で命を絶つことも起きるだろう。(推定される)発症の時点から短時日で自殺に至ることが多いのも、急速な状態の悪化を示唆している(下記)。うつ病でも睡眠障害はほぼ必発だが、「うつ」を経由せずとも睡眠剥奪だけで破綻は生じ得る。そのことを言いたいのである。
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睡眠の非常な重要性、従ってまた睡眠剥奪の非常な危険性については、正面から論じた文献がいくらもあるに違いない。ここでは搦め手から、最近目にとまった雑多なものを転記しておく。
「スプルアンス大将をめぐるエピソードをあげますと、彼は艦橋でしばしば本を読んでいた、また戦闘中でもきまった時間が来ると、部屋に入って寝てしまう。これにはさすがに若い士官が怒って、自分たちが一生懸命戦闘しているときに、長官が寝るとは何ごとかと言って詰問したのに対して、自分はいざという時に責任ある決断を下さなければならない、そのためには心身を冷静な判断に耐える最善の状態に置かなければならぬ、それで十分な休養をとるよう心がけているのだ、と答えたというのです。
一方、レイテ沖海戦では日本の栗田艦隊が、せっかくマッカーサーの上陸軍を目前にしながら反転して、あたら決戦のチャンスを失ってしまった。いまだに謎と言われておりますが(・・・)はっきり言えることが一つある。それは栗田長官以下全幕僚が、おそらく三日間ぐらいの戦闘を通じて不眠不休であった(・・・)その結果全員が疲労困憊し、精神錯乱に近いような状態に陥っていた、そのためアメリカ側の飛行機の一寸した動きにも判断を狂わされた、ということであろうと思います。」
吉田満『或る戦争秘話』
「道具を用いる拷問以外に、特にイングランドで多く用いられたいわば消極的拷問がある。長時間にわたる飢餓、不眠、正座、強制歩行などである。イングランドでは拷問が禁じられていたので、このような消極的拷問が用いられたのであろう。
例えば1645年のサフォーク州の巡回裁判で、約200人の男女が魔女として投獄された。その中の一人、70歳の老牧師ジョン・ローズは、不寝番の監視のもとで、数昼夜ぶっ通しに獄房の中を歩き続けさせられた(ときには前向きに、ときにはうしろ向きに)。ローズ師はついに意識を喪失したまま、悪魔との結託、妖術による舟の顚覆などを自供。あとでそれを否認したが容れられず、絞殺された。」
森島恒雄『魔女狩り』岩波新書742
極端な例を挙げるようだが、過労自殺に至ったケースでは想像を超える極端な状況が事実存在し、勤勉な働き手から睡眠を奪っていた。人の正気を失わせる最も確実で簡便な方法は、その人の睡眠を奪うことである。
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