2015年12月6日(日)
少々戻って、この日の保護者科のこと。
「産声の奇跡」を載っけたタイミング、アドベントでもありふと思いついて、こちらからの能書きはやめ車座に椅子を並べ替えた。居並ぶ母親たちにもれなく共通するのが、「自分のお腹を痛めて子どもを産んだ」という体験である。コメントなしの言いっぱなし、順ぐりに語ってもらった。案の定、この話題なら皆の表情が動かずにいない。とりわけ僕の左隣で、一番くじを引いた人の思い出というのが、
「第二子の時、家族全員の立ち会い出産というのをお願いしたんです。そしたら6歳の長男が見ていて鼻血を出して、お産はそっちのけで大騒ぎになって・・・」
屈託ない語り口に一同爆笑し、後はよどみなく流れていった。感想の中で繰り返し異口同音に語られた内容を、集約するなら以下のようである。
・ 事細かに計画したけれど、予定通りにはいかないものだった。
・ エジプトでの出産で、エジプト人医師が自分以上に喜んでくれた。
・ 反日的な空気で道を歩くのも怖いような中国の街だったが、お産の前後には周りの中国人が心から支えてくれた。
等々
「予測不能」「感謝」「人の絆」を3つのキーワードと言っておこうか。ただ「予測不能」と「感謝」は文句なく当確だが、3つめは「達成感」とか「喜び」とか他の選択肢もありそうである。生命の危険さえ伴う苦しい作業だったはずなのに、それすらも喜びの文脈の中に位置づけ直されているのは、不思議といえば不思議である。トラウマ克服のヒントは、案外、出産のメカニズムの中にあるかもしれない。
ところでこの場には父親たちも何人かいた。夫婦並んで、私の体験か僕の体験かもはやわからない、渾然一体の感想を述べたカップルが1~2組、他の5~6人は話を振られて面食らっている。
「営業先に産気づいたとの連絡が入って、泥酔状態で急行しました。分娩直前に産婦に肩を貸して一緒に歩くよう言われたんですが、私が千鳥足で・・・後はよく覚えていません。」
このお父さんは精一杯参加した組である。営業先で、さぞ気もそぞろだったことだろう。
「幸い、可もなく不可もなく・・・」
ん~~~?
おっしゃりたいことは分かるんだけれど、可もなく不可もないお産というものが、一体この世にあるものかどうか。母親の側から、あまりこういう表現は出ないはずだ。無事に生まれたならばすべて花丸、大金星ではないかしらん。では無事でなかったら・・・?そう、ここから次のテーマが始まる。
同時に「父親」が一つの急所であることを再確認させられる。この場に集まっている父親たちは、多かれ少なかれ子育てに関わる意欲をもち、せっかくの日曜日の朝早くから信者でもないのに教会に足を運んでいる。そのような水準以上の人たちだけに、という話。
連載第2回、早くも頭が痛い。