2016年2月21日(日)
昨日聞いたウンベルト・エーコの訃報を、今朝新聞で見た。いずれ避けがたいとはいえ、いかにも残念である。
僕は流行の小説というものが読めない質だが、『薔薇の名前』は書店に積んであるのを手にとってやめられなくなり、その場で上下2冊買ってきた。結婚して長男が出来、母校の精神科の医員として勤務していた頃ではないかと思う。時間のもてない時期だったはずだが、人は必要な時間は作り出すものだ。というより、浩瀚な2冊本をきっと一気呵成に読み通したのだ。難しくて十分に分からないのにむやみに面白いというのは、15歳の夏に『罪と罰』で覚えた快楽である。著者がイタリアの記号論理学者であると知って、何が何だかわからず目が回る感じがした。イタロ・カルビーノはそれ以前から好きで、カルビーノとエーコの二人を知るだけで、来世があるなら日本人でなければイタリア人に生まれたいと思ったものである。
ちょっと酔ってるんだね、「日本人でなければイタリア人に」というのは、カルビーノやエーコの故ではなく、イタリア人の人生がただ三つの動詞でできていると聞いたからだった。「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ」すなわち、「食べ、歌い、愛する」だとさ、この世の楽園とはこのことだ。
人生の師と仰ぐ故K先生が仰ったことに、アングロサクソンの文化では一芸に秀でていればそれなりに評価されるが、イタリア/ラテンの世界では人として総合的に優れていないと尊敬されないと。K先生も思い込みの強いところはおありだったから、これがそのまま正しいかどうか分からない。しかし、TVに映った生前のエーコの姿 ~ 相当な肥満体で、ラテンの男性らしく身振り豊かに何やら熱弁を振るっている ~ には、「一芸オタク」とはまったく違った破天荒でスケールの大きな愉快が漂っているようである。自分のなりたいのはこういうものだ。
会ってみたかったな。カート・ヴォネガットにも会ってみたかったけれど。読みかけで放ってあった『フーコーの振り子』に再挑戦と行こうか。