散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ウンベルト・エーコ

2016-02-20 18:08:14 | 日記

2016年2月21日(日)

 昨日聞いたウンベルト・エーコの訃報を、今朝新聞で見た。いずれ避けがたいとはいえ、いかにも残念である。

 僕は流行の小説というものが読めない質だが、『薔薇の名前』は書店に積んであるのを手にとってやめられなくなり、その場で上下2冊買ってきた。結婚して長男が出来、母校の精神科の医員として勤務していた頃ではないかと思う。時間のもてない時期だったはずだが、人は必要な時間は作り出すものだ。というより、浩瀚な2冊本をきっと一気呵成に読み通したのだ。難しくて十分に分からないのにむやみに面白いというのは、15歳の夏に『罪と罰』で覚えた快楽である。著者がイタリアの記号論理学者であると知って、何が何だかわからず目が回る感じがした。イタロ・カルビーノはそれ以前から好きで、カルビーノとエーコの二人を知るだけで、来世があるなら日本人でなければイタリア人に生まれたいと思ったものである。

 ちょっと酔ってるんだね、「日本人でなければイタリア人に」というのは、カルビーノやエーコの故ではなく、イタリア人の人生がただ三つの動詞でできていると聞いたからだった。「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ」すなわち、「食べ、歌い、愛する」だとさ、この世の楽園とはこのことだ。

 人生の師と仰ぐ故K先生が仰ったことに、アングロサクソンの文化では一芸に秀でていればそれなりに評価されるが、イタリア/ラテンの世界では人として総合的に優れていないと尊敬されないと。K先生も思い込みの強いところはおありだったから、これがそのまま正しいかどうか分からない。しかし、TVに映った生前のエーコの姿 ~ 相当な肥満体で、ラテンの男性らしく身振り豊かに何やら熱弁を振るっている ~ には、「一芸オタク」とはまったく違った破天荒でスケールの大きな愉快が漂っているようである。自分のなりたいのはこういうものだ。

 会ってみたかったな。カート・ヴォネガットにも会ってみたかったけれど。読みかけで放ってあった『フーコーの振り子』に再挑戦と行こうか。

 

 


気立て、石立て、朝の憂鬱

2016-02-19 07:35:19 | 日記

2016年2月19日(金)

 「気立てが良い」という言葉は「娘」につながって、昔話や小説などで主人公クラスが好もしい花嫁候補であることを暗示する際など、よく使われるのだと思う。しかし本来は女性に限った形容ではないし、むしろ「気立ての良い若者」などと言ってみれば、実在・架空のある種の青年イメージがいくつか彷彿され、心楽しむところがある。

 自分自身は、「気立てが良い」と言われるに必要な条件を微妙に/決定的に欠いていた。ワガママとか、気分のムラが大きいとかいうのは、やっぱりどうしても「気立ての良い」の反対でしょう。

 ところで「気立て」というこの言葉である。もうだいぶ前から「気」でできた言葉がそれこそ気になっていて、「気」をキーワードに街場の精神病理学を組み立てられないかと考えたりする。印象としては「気」は基本的に流動的なもので、感情の状態や変化を表す力は豊かであるが、構造論には向かないと思っていた。けれども「気立て」は、これとは違って構造論的な特性を備えている。パーソナリティにぐっと近づいてくる。disposition に近いかも知れないが、もう少し自覚的に陶冶できるものを含むだろう。

 「立て」という言葉との組み合わせがこうした意味合いをもたらすのだ。「組み立て」という時の「立て」である。そう考えて、思い出すのが「石立て」だ。耳慣れないかもしれないが、これは古来の囲碁用語、今日「布石」というところを江戸時代には「石立て」と呼んだのである。碁の序盤において、一局の基本構造を決定する大きな枠組みが「石立て」だ。

 いつになってもこの「石立て」がものにならないのは、「気立て」の悪さが原因かしらん・・・

 

 それにしても、ここ数日どうも気が重い。思い当たる理由がいくつかある。

 人々のマスク、看護師や書店員の固陋で配慮の欠けた「言葉」、診療空間に次々ともちこまれる裁判沙汰、等々。しかし一番は、自分の能力と姿勢に関する不信であるらしい。

 朝の憂鬱。


桜と梅

2016-02-17 18:29:41 | 日記

2016年2月16日(火)

 早咲きで有名な河津桜が、海浜幕張からの通勤路に一本植わっている。ホテルの本館と新館を隔てる小道の東のはずれで、毎年この季節のちょっとした楽しみである。「花は盛りに」の伝で、開花前に花芽が膨らむにつれ、樹冠全体がほんのり色づいてくるのが良い。ほら、こんな感じ。

  

 

 上の写真は木の傍らを通り過ぎ、南北方向に走る車道を東にわたって振り返った風景である。その位置の背後に、幕張海浜公園の広大な緑地があり、そちらには梅園があるのだ。この方はごく常識的に2月の開花である。東に梅、西に桜、ちょっと得した感じがする。

 

 河津桜は、オオシマザクラとカンヒザクラの交配種と説明にある。樹木の交配というようなおっとりした作業を持続する精神力が、どんなところから生まれるものか不思議である。

 


ふがいない一日

2016-02-17 07:23:20 | 日記

2016年2月16日(火)

 マガリをキカしてブツケたのは良いとして、案の上の上ハネ(Fさんなら絶対そう来ると思った)に対して下へハネ返したのがマズかった。3子を大きく呑み込まれたうえ外側を決められ、何を打ったか分からない。自分が許せないというのは、この図を途中までは予測していたのに、勝手読みで3子を代償に外側を塗れると思い込んでいたことだ。あ~あ・・・

 右側の白に累が及ばないよう、なるべく離れて盤側よりで収拾するという発想は悪くなく(逆につながるような打ち方がないとすれば、だが)、それならサガリが良かったようだ。相手の断点を強調する意味では、ヒキでも同じようだが、中央側をオサれるのは切ってしまえば良いとして、断点をツガれた時にサガリの方が収拾しやすい。どちらもマガリを打つことになるが、ヒキからのマガリに上からオサエられると、案外右側の白に負担なのである。サガリからなら上方の白と連絡する形が地の得になるうえ、右側に石が近寄らない利点がある。

 ブツカリからサガリなんて、いかにも筋ワルで卑屈な感じがして考えなかったが、最善手は場面によって違う。適応障害の臨床と同じだ。

 

 もうひとつの反省は、右辺の黒を攻めるにあたって準備のモタレを打たなかったことだ。これにも言い分はあって、右辺を攻めるのではなく、右辺にプレッシャーをかけて上辺に打ち込むつもりだったのである。途端に後ろから来られてペースを握られた。そこでむやみに右辺に突っかからず、ガマンして受けたのは良かったかも知れない。できあがり図で右上が20目の地で落ち着いているのはその一着あればこそだし、結果的に右辺の黒は手を抜きすぎて死んじゃうことになる。

 それでもやっぱり、右上中央にケイマを一着打つべきだった。隅の補強、上辺の制限、右辺の攻撃準備、一石三鳥の立派な一手だったのに・・・

 再度の時間切れで来週へ打ち継ぎ、白番。上辺を手にされたかと一瞬ヒヤリとしたが、6の一にオサえて問題ない。コスんでワタリを見てきたときに、サエギるのではなくオサエてダメを詰めるのが冷静。うっかりサエギるとコウにされて大事になる。その後、黒が左上を取る特大のヨセを打ち、出入り20目以上だがこれでも白が良いらしい。白に先手が回って左辺と下辺のヨセを打って終局。紛れる余地がなく、「クリックミス」でもない限り白が盤面でも10目あまりの勝ちだけれど、これが少しも嬉しくないのである。自分の碁が打てていないからだ。

 

 そもそも朝からどことなく不調、午後も引き続き不調。南相馬の臨床心理士Sさん、「やどかりの里」の連載記事を帰途に読み、深く頭(こうべ)を垂れる。どうも申し訳ない。