散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ヤマナラシ補遺

2020-06-14 09:30:57 | 日記
2020年6月13日(土)~20日(土)
 『アンナ・カレーニナ』は、モスクワ、ペテルブルグ、海外の旅行先、ロシアの田園の4つの舞台を転々としながら物語が進行する。第7編で出来事は完結し、後日談を語りつつリョーヴィンの内面的な到達点を記す第8編は、モスクワから始まってリョーヴィンの領地へ場を移していく。田園の描写の中で、ヤマナラシがこれまでになく頻繁に登場する。

・ 新しく葺きかえた藁葺屋根の皮をむいたばかりのヤマナラシの生木の桁に、ぴったりついている榛(はしばみ)の木摺りにはまだかぐわしい葉が散り残っていたが・・・(新潮文庫版下巻、P.602)

・ 彼は興奮のあまり息を切らし、もう先へ歩いて行く気力がなくなったので、街道をそれて森へはいり、ヤマナラシの木陰の、まだ刈られていない草の上に腰をおろした。(P.610)

・ われわれすべての内部では、もちろん、あのヤマナラシの中にも、雲の中にも、星雲の中でも、進化の作用が行われているのだ。(P.611)

・ 「ほら、ドリイさん、ごらんなさいね、ひと雨きそうですよ」彼はヤマナラシの梢に現れた白い雨雲を、傘でさしながらつけ足した。(P.626)

・ リョーヴィンは、ヤマナラシの若木のこんもりしたすがすがしい木陰にあるベンチと、木の切り株に客たちを腰かけさせた。(P.627)

・ コズヌイシェフは蜜のために黒くなって、弱々しく足を動かしている蜂を救いだして、ナイフからヤマナラシの丈夫な葉の上に移しながら、おだやかな微笑を浮かべていった。(P.631)

 これらの箇所では、ヤマナラシに何の禍々しさも託されていない。立樹だけでなく材木として、あるいは受け皿代わりの葉の姿で、ロシアの生活の中に浸透している様子が和やかに窺われる。それはコズヌイシェフを含む登場人物たちの運命がそれぞれに定まり、自然に流れ始めたことを反映するようである。

***

 リョーヴィンの独白 ー 心中の dialogue を記して作品が終わった。新潮文庫版で2000頁近い大作だが、さほど長かった気がしない。全編の印象をしばらくぼんやり味わい返した後、上巻の第1頁に戻った。
 「我仇をかえし、応報(むくい)をなさん」との扉書き(申命記 32:35およびこれを引用したロマ書12:19、ヘブル書 10:30の言葉。ただし訳者はやや異なる私訳を付す)に続く、あの有名なオープニングである。

 「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。」

 作品はモスクワのオブロンスキーの(不幸な?)家庭で始まり、カラジンスキー郡のリョーヴィンの(幸福な!)家庭で終わる。物語の初めに頑固な独身者であったリョーヴィンは、やがてオブロンスキーの義妹と結婚して一児をなす。全編をリョーヴィンの家庭人としての成長、二つの家庭の誕生・動揺・安定の物語と読んで誤りではなく、そのような筋立ての中でアンナ・カレーニナは触媒の位置どりにすぎないのだけれども、しかし強力な光芒を放つ驚くべき触媒である。
 違うな。
 触媒とは、他の物質の化学反応を促進しながら、それ自体は反応の前後で変化をきたさない物質のことをいう。アンナ・カレーニナは物語の進行とともに、華麗にして悲劇的な変化を遂げていく。穏やかな成長の途を歩む人々の間で、彼女一人が激変を来しているとしたら、触媒に譬えるのは見当外れというものである。
 ともかく面白く、その面白さが、自分の受けとったものの質として『細雪』に似ているのが、メタレベルでまた面白い・・・なぜだろう?

***

 先にこだわった親称と敬称について補足:
 
 「まあ!」キチイはリョーヴィンに気づくと、喜びに顔を輝かせながら、叫び声をあげた。「あんたどうしたの、あなたどうなさったの?」(この最後の日まで、キチイはリョーヴィンを『あんた(トゥイ)』と親しく呼んだり、『あなた(ヴィ)』と改まったりしていた)。
(中巻 P.508)

 結婚式当日の一風景で、「最後の日」とはそういう意味、当時・当地のマナーとして配偶者でなければ公然と『トゥイ』とは呼べなかった事情が読みとれる。ロシア語のできない悲しさで、ここで初めて気づいたというのは、

 ロシア語の二人称  敬称 ВЫ 親称 ТЫ
 フランス語の二人称 敬称 vous 親称 tu

 v で始まる敬称と、t で始まる親称、とりわけ耳から入る音の対照がきわめてよく似ていることである。パリジェンヌとパリジャンの間で、
 「この最後の日まで、カトリーヌはジュリアンを『あんた(テュ)』と親しく呼んだり、『あなた(ヴ)』と改まったりしていた。」
 ということがあってよい(よかった)のと同じである。ラテン系の言葉のそれが互いによく似ているのは自然だが、スラヴ語まで拡張できることとは思わなかった。
 
 さて、と。
 5月25日(月)以来ほったらかしてあった話に、4週間ぶりに戻ってみる。

***

 ・・・ところで、「敬称と親称の使い分け」というのはいかにも好みのネタであるのに、これまでブログで扱ってこなかった(らしい)のには、少々訳がある。
(続く)
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/939f8e5a74c0ace68460da50630ae649
Ω



重ねて感謝 / 「原語で歌う海外曲」

2020-06-13 09:26:29 | 日記
2020年6月12日(金)

> ブログ主様
> 昨日のコメントにお目を通していただきありがとうございます。
> ロシア語ではヤマアラシとハリネズミを区別します。ヤマアラシは既に挙げましたように дикобраз、ハリネズミは ёж (yosh)といいます。
> ただしもちろん、この単語の区別は、ロシアの方々がヤマアラシとハリネズミを簡単に見分けられるということを意味しません。

> ついでになりますが、当方はブログ主様がご引用になりましたサイト
> http://ezokashi.opal.ne.jpの制作運営をしております。またご機会ありましたらお立ち寄りください。

 重ねて、ありがとうございました。
 ヤマアラシとハリネズミの区別は誰にとっても悩ましいものかと思いますが、言葉の次元では截然と使い分けられる場面があります。
 「ヤマアラシのジレンマ」であって「ハリネズミのジレンマ」と言わないのはその一例。もう一つが以前にとりあげた古い格言で、いろいろなことを広く知っている狐に対して、ただ一つのデカいことを知っているのが「ハリネズミ」、これを「ヤマアラシ」とは言わないのですよね。
 そして、「トルストイはハリネズミを自認していたが、実は堂々たる狐であった」というのがアイザイア・バーリン『ハリネズミと狐』の主旨だったわけで、「ヤマナラシ ~ アンナ・カレーニナ ~ トルストイ」の連想から、「ロシア語では・・・」の質問に想到した次第でした。

 しかし、これはまたしてもおっちょこちょいな質問だったようです。トルストイはハリネズミか狐かという問を立てているのは、ロシア人ならぬイギリス人のバーリンなのですから。英語でヤマアラシは porcupine、ハリネズミは hedgehog、そしてこの二種の動物は、ちゃんと比べてみれば意外にはっきりした違いがあるもののようです。

 引用させていただいたサイト『原語で歌う海外曲』は非常に魅力的な空間で、感服いたしました。今後、折に触れて訪問し楽しませていただきます。維持管理もたいへんなことでしょうが、対象とする言語を拡げつつますます充実の途を歩まれますよう願っています。

 御礼まで

Ω

通りすがりの御助言に感謝

2020-06-12 07:18:35 | 日記
2020年6月12日(金)

「ヤマナラシはヤマナラシ?」へコメント拝受:

> 通りすがりの者ですが
> 気になりましたので…
> 記事中にあります「дикобраз」は、樹木の「ヤマナラシ」ではなくて、動物の「ヤマアラシ」です。
> 日本語がよく似ていますのでお間違えになったものかと存じます。

 ありがとうございます。どなた様か存じませんが、いずれロシア語にお詳しい方とお見受けしました。厚く御礼申します。
 それにしても何とそそっかしいこと、まったく汗顔の至りですが、何だか愉快なのであえて訂正削除せず、御指摘とともにこのまま掲げておこうと思います。

 なお、もしもこの記事を御覧になりましたら、ついでにもう一つ教えていただきたいのですが、ロシア語ではヤマアラシとハリネズミを区別しますでしょうか?

Ω

嬉しい書評

2020-06-11 22:39:05 | 日記
2020年6月11日(木)
 義弟が二人あり、その一人がとりわけ忠実なカトリックの信徒である。今春、日本基督教団出版局から出た小著の書評がカトリック新聞に載ったのを、目ざとく見つけて送ってくれた。素直に嬉しい。
 プロテスタントとカトリックで家庭を営んでいると知って、「ケンカになりませんか」などと訊いてよこす人があり、そんな御仁に限って牧師と神父の区別もつかなかったりする。解き難く錯綜した歴史を背負う欧米ではいざ知らず、この日本国で西方教会の枝同士、いがみあう理由がおよそ見つからない。CMCCの活動などは良い証しであるけれど、こちらから売り込んだわけでもないのに、こうして拾ってくれるとは予想の外だった。
 

 末尾に「本書を読むと、子育てが大人の自分育て、社会育てであることが納得される」とあるのが、意図を正しく汲んでくれている。ただ「自分育て」と言っても自分で自分を育てる謂ではなく、子どもとの出会いによって思いがけず育てられていくこと、それが神与の恵みであることを伝えたいのである。
 カトリック新聞のこの号の一面は下記の通り。義弟君ありがとう、もう少し大きく切り取ってくれても良かったかな。


Ω