恐懼に堪えない日々

【恐懼】(きょうく)・・・ おそれかしこまること。日々の生活は恐懼に堪えないことばかりですよね。

嗚呼、結果至上主義

2006年08月23日 | 所感とか
私の勤め先の高校のとある運動部は、全国大会に出場したものの、
力及ばず途中で敗退するという涙を飲みました。
結果は去ることながら、その試合内容たるやかなりの熱戦で、
惜敗という言葉がそのままくるような内容だったそうで。
ここまでの善戦をしたのなら学校内もそれを評価するものだと思っていました。
先日、とある先生と話をする機会があり、そのことに話題が及んだ時のこと。
私が、「結果は残念ですが、善戦した生徒たちが立派ですね」というと、
そのお方はこの考え方を真っ向から否定。要旨は、

勝負事は勝たなければ意味がない。内容がどうかということは関係なく、
生徒たちも結果を持って帰れたかどうかが一番重要であり、
負けてしまっては生徒たちには何も残らないだろう、と。

つまりは結果が全て。敗者になってしまっては意味がない、と。
この話を聞いて私はなんとなく悲しくなるとともに怒りを覚えました。
私はその部の当事者ではありませんが、
その部に所属している顧問も生徒も日々休みなく練習し、
血眼になって全国での闘いに賭ける練習を見続けてきました。
果たしてこういった努力を一顧だにせず、結果が出なかったから、と、
全否定するような教員がいることに悲しくなったわけです。
なにもこういう考え方をする人が少数派というわけでもなく、
かなりの人数が同じように考えているということも知り、その思いはさらに。

現場で教員も生徒もどれだけの想いをもって練習していたか。
どのような想いをもって全国大会に臨んだのか。
そういったことをまったく考えずに結果だけで処断する。
まさに敗者に口なしといった状態なのであります。
確かに社会というのは結果こそ全てという風潮もありましょうが、
少なくとも高校という教育の現場で結果こそ全てというのはいかがなものかと。
あくまで大事なのはそこに至るまでの過程であって、
結果はそれに付随してくるものである、という使い古された観念ですが、
私はこれこそが一番重要な部分ではないかと思うのです。
一生懸命物事に取り組む。その姿勢があればいいじゃないかなと。
結果が付いてくれば尚良いかもしれませんが。
結果だけを重要視し、評価の対象にしないのはちょっと悲しいものです。
今夏の甲子園大会を見ても同じことが言えるのか聞いてみたいものです。

恐懼再拝。
コメント
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