妹は姉の言葉に弾かれた様に窓辺から姿を消した。その頃には向かい家の二階の窓にも、妹の許嫁がその姿を現していた。部屋に置いてあったのだろう、彼の学生帽など被っていた。
部屋に残された姉の目には涙が溢れてきた。希望という物は持ってみる物だと彼女は思う。自分の許嫁も直ぐに戻って来そうな気がしてくる。ジーンと心が熱くなった。
暫くして、彼女は窓辺の小箪笥からハンカチを取り出そうと小さな引き出しを開けた。涙で曇った目でハンカチを探してみる。『おやっ?。』、彼女はそこに、自分の物では無い色柄のハンカチを認めた。これは?、確か妹のものじゃ無いかしら。時折、妹が自分の部屋の文箱から取り出しては眺めていた物だ。何故自分の小箪笥に?、『何時の間にこんな物が紛れ込んだだのかしら?。』彼女は不思議に思った。
つーと、涙が頬を伝わる感触で我に返った。彼女は妹のハンカチを自分の傍の小箪笥の上にそっと置くと、引き出し中から適当なハンカチを選び、それを取り出して目頭と頬を拭った。それから自分の両目に静々とハンカチを押し当てて、深々と感慨に浸った。
「お涙頂戴じゃねえかよ。」
こちとらまで泣けてくるぜ。外の道では史が片袖で目を拭いながら言った。子供にもこの状況が分かるとみえる。が、同じ子供でも智は違っていた。先程からの遊び仲間の史と、この姉妹の遣り取り、彼等三人の会話の中で通り交わされた言葉の数々、それ等の意味、内容が、この子供にはサッパリ理解出来無かったのだ。智は史に対する劣等感と、彼等からの疎外感で、心中言いようの無い圧迫感を感じていた。自分では如何仕様も無い人生経験や知識の乏しさ、そこから来る不可抗力に、智はこの場にドンと押し潰される寸前だった。
姉妹の妹は、今や向かい家の二階に到達した様だ。ドタドタと足音の響く音、窓の奥からは男女二人の歓喜の声が響き渡って来る。
「まるで芝居じゃないか。ロマンスの場面がそのまんまだな。」
大きな家の二階を見上げて、史はそう言うと、笑顔で振り返って遊び仲間の智を見た。が、もう一方の子供は酷く顔を曇らせて顰めっ面をして立ち竦んでいた。史にはこの目出度い場にそぐわない智の顔付きと様子が意外だった。そこで、目をパチクリとさせて連れの子の智の様子を覗った。
ははぁん、史は思った。
「姉さん、智に何かしただろう。」
窓辺の姉はあらぬ疑いを史に掛けられて、一瞬キョトンとした。もうハンカチを目から離していた彼女だが、外の子供の一方が、自分に何を言ってくるのかと彼女は不思議そうな顔をした。『何の事やら?。』彼女は戸惑った。
「手に何か持ってるんじゃないのか?。」
史は言う。「それを智ちゃんに投げただろう。」確信した様な口振りだ。さっきの姉妹の様子から、そういった事が起こったと容易に推察出来る事を、史は道から姉娘に捲し立てた。分かっているんだからな、と、姉娘を指差した。
「わぁーん!」
史の傍で身動き出来ずに佇んでいた子供が、急に顔を紅潮させて大声で泣き出した。わーん、ーわぁーん。一頻り大声を張り上げ、後にはえっ、えっと嗚咽混じりの泣き声を発している。「皆んなで、皆んなで、自分を虐めるー。」漸くの事にそれだけ口にすると、子供は再び泣きじゃくるのだ。これには世慣れた子供を自負する史にもお手上げ状態となった。史は訳が分からず智を眺め続けた。それでも流石に目の前の子供が奇妙に見え始めると、一旦この泣いている子供から逃れようと決断し、史は智を見詰めた儘で一歩、二歩と後退りした。数歩引いた史はそこで向きを変えると一散に駆け出し、智からそれ相応の距離を置いた場所で立ち止まった。史はまた振り返って智の様子を覗った。