祖父は私の所まで戻って来ました。不本意そうな顔付き、その曇った表情に、私は近付いて来る彼の身を案じていました。今までの祖父は鶴の一声、父との口論の終わりには決まって彼がピシリと何か言い、ヒヤッとした顔で私の父は首を竦め、其れっ切りで退散する、それが彼等親子の日頃の常でした。でも、今日はそうでは無かったのです。最近私はこの逆転劇に薄々気付いていました。今日はそれを確信した日でもありまいした。
祖父は私と目が合うと決まり悪そうでしたが、やはりまだ矍鑠としていました。そうして、誤解していたようだからすまなかったね、と、神妙な態度で私に接してくれたのでした。私はそうか、何か誤解があったのだと理解しました。その後祖父が私の推理事について再び尋ねて来るので、私は今度は誤解の無いようにと、言葉を選んで考えながら彼に説明しました。
「ほらみろ、…。」
遠く我が家の墓前から、私の父がこちらに向かって何か言っていました。自分も私も昭和の生まれだ、ましてや私は戦後の生まれだ、そんな事知っている訳無いだろう。そんな事を祖父に怒鳴っているようでした。父が何を言いたいのか私には不明でした。私の目の前にいた祖父は、悪かったねと、私の手を取ると、さあもう帰ろうと私の両親の待つ所へ戻り出し、そして直ぐに私の手を離して先に進み始めました。子供と言っても女子の手は持て無い、祖父はそんな言葉を漏らしていました。ふふっと私は微笑みました。物心ついた頃、祖父は私と銭湯へ行く事さえ拒んでいたのです。私は祖父の古風である事を知っていました。過去に家で珍しく祖父と話に興じた日には、祖母から祖父を取る気なのかと叱咤され、彼女の嫉妬心に気付いた物でした。祖父母と孫の関係で、幼くても私にはやはりジェネレーションギャップでした。
いやいや、祖父は行きかけた歩を止めて私に向き直ると、私の笑いが気になるようでした。もう一度話そうと私を元の場所まで連れ戻すと、自分と連れ合いの何がそんなに気になるのかと尋ねました。私は誤解の無いように、家系を大事にする祖母と、家や土地を大事にする祖父との、二人の食い違い違いが分からない、それが不思議なのだと説明しました。理路整然と話したつもりでしたが、祖父は妙に押し黙り、不機嫌な様子で、機微の無いと言うのでした。
キビ?、黍か?、穀物の?、私はつい最近学校で習ったこの穀物の事を思い浮かべました。私達の会話に何故この穀物が登場するのか私には不明でした。私の知るキビはこの穀物以外無かったので、さも得意げにキビなら知っていると、学校でこの前習ったものと、桃太郎の黍団子の事さえ例に挙げて、絵本での話でなら、小さい頃から知っているというと、祖父はあからさまに気が抜けた気配でした。
何が不味かったのだろう私は思いました。学業の話、真面目に学校で習って来ていると言う態度を見せたのに、それの何処が祖父の気に沿わないのだろう?、私には不可解な祖父の心情なのでした。祖父はじいっと私を眺めていましたが、私がそんな彼に愛想笑いをすると、ふっと微笑んで、お前は何処の井戸端会議に顔を出しているのだと、そんな物言いや、大人の茶化し方を何処で覚えたものかのうと、一種興に乗り、感慨深げな態度に変わりました。私は勿論、そんな会議の事を知らず、テレビで見る会社や国の会議、そんな会議を思い浮かべたのでした。
幾度か言葉を交わし、私にはそんな社員の様な会議もないし、国の議員に成れる訳でも無いのだから、会議には参加しない、出来ないだろうと言うと、祖父は一体何を考えているのかと、今度は私の方が腹立たしくなり、語気も強くなってしまいました。祖父は漸く私が至って真面目に受け答えしているのだと察した様でした。茶化されても構われてもいないのだと、彼は漸く了解した様でした。そして如何して私にこんな孫がと、ガックリと項垂れてしまいました。
祖父はもう行こうと、我が家の墓所目指して歩み始める様子を見せたのですが、私の方は自分の知りたい謎について聞こうと、祖父に食い下がって行きました。何故二人は違う事を言ったのか?、と彼に問い掛けました。私が祖父と面と向かって話す機会はそう無かったので、この機会を逃したく無かったのです。祖父はもうお前とこの手の話はしたく無いと言い出し、全く、場の無い等言うのでした。
「未だ分からないのか。」
祖父は内心の怒りを抑えている風でしたが、口早に、あれから聞いていないのか、家と土地は、そう言うと、彼は口ごもり、家と土地はあれの持ち物なんだ、と言うのでした。当時、私には祖父のこの言葉が理解出来ませんでした。当然、土地と家は家長である祖父の持ち物と思っていたせいでした。後年私は祖父母の遺言書等、書類を父から見せられたり、私の両親の相続手続きに置いて祖父母の戸籍を見るに至り、我が家の転居の時期や、その他諸々の事に合点したのでした。私の、我が家の謎は解けたのでした。
私は祖父がもう帰ろうと私の両親に呼びかける声を聞きながら、祖父の後を追って家の墓所へ向かいました。前を行く祖父の後ろ姿、その白髪混じり頭、背に、ふっと雪が舞い降りていました。え、この時節に、私は見間違いかと目を擦りましたが、目を開けても白いふんわりとした牡丹雪が、風に吹かれ祖父の周りに降り落ちているので、その現実離れした光景に半信半疑で驚愕した物でした。
祖父は私の徒ならぬ気配を感じたようで、私にそっと視線を送りましたが、雪がと呟く私の言葉が聞こえた様子で、彼の周囲の雪に気付きました。彼はパッパと掌でそれらの大ぶりの白い物を叩き落とすと、灰だよ、近所の畑で野焼きでもしているんだ。そう言うと、立ち竦む私には構わず行ってしまいました。私は又、その牡丹雪の様な大振りの灰に興味をそそられ、墓所の壁の向こう、田畑の続く田園に思いを馳せるのでした。
雪の降る光景は暗く荒涼として寒々
深淵の空から無数に降り出されて来る
細かい紙の切片ひらひらと
見上げれば無限の高みより頭上に振り落とされて来る
凍てつく冬の日夜空を見上げて
この白く降り続く濃い群青の深淵の向こうに
繋がっている大気の向こうに
私と未だ出会っていない
私と繋がりのある人の
そんな存在を希望しながら
振り落ちる牡丹雪に物思う
心の中にひらひら舞い落ちる雪は温もって
心に降り積もって行く雪は暖かい
私は雪国の生まれでね、雪はそう嫌いじゃ無いんだ。此処も故郷だが、私の生まれたのはもっと雪深い土地でね。いつの間にか傍に立つ祖父はそんな事を語り始めていました。空に舞う数片の灰を目で追う私は上の空で彼の話を聞き流していました。両親の行商先で自分は生まれたのだ。自分も商売で歩く時に何度も深い雪に降られたが、寒いのは一時、雪が暖かく感じられる時もあるんだよ。私が寒がりなのを知っていて、祖父は私が雪を厭うと慰めてくれた様です。真冬に、深夜に近い頃、ジャクジャクと凍る氷砂糖を砕いた様な雪の粒の敷き詰められた道路、そこに降り落ちる牡丹雪、そんな底冷えする冬の夜は、降り落ちる雪さえ美しく清らかで、雪掻きする私は手袋を外し、そっと指先や掌で落ちて来る雪を受け止めるのでした。こんな神妙な夜の雪は、私にも、冷たいはずの雪が温かく好ましく感じられるのでした。