「母さん、智ちゃんとこが来たみたいだよ。」
一心不乱に電話と格闘する彼女は息子の声掛けに気付かない様子だ。彼はもう少し洒落た言い方をしようと言葉を変えた。お母さんと声を大きくして母を呼んだ。が、母の方はそれでも彼の呼び掛けに気付かなかった。
はぁっと清は嘆息して、部屋の隅に身を寄せている彼の母の背に近付いた。小刻みに揺れている彼女の肘に手を伸ばすと、チョンチョンとその袖を引いた。母さん、母さんと数回声も掛けてみた。漸く息子の呼び掛けに気付いた母は、ハッとして自分の子の声に耳を傾け始めた。
「何だい?。」、息子に問い掛けながら、やはり手元の黒い捻れが気になってしまう彼女だった。『もう少しなのだ。』、後一捻り。彼女は完璧に元通りの、整った綺麗な螺旋形の形にコードを戻したかった。『もう一寸なのに。』『五月蝿い子だ。』、何時も邪魔しに来るんだから…。彼女は内心彼女の息子に苦情を言った。
『何で人の仕事の邪魔をしに来るんだか、私の邪魔をする為に生まれて来た様な子だよ、お前は。』
ああ、ええ、生返事をしながら、彼女は息子の再三の呼び掛けにも容易に電話のコードを手離さなかった。
遂に清が何をしているのだと彼の母に声を掛けた。捻れた紐を直しているんだよ。彼女は少々声を苛つかせながら彼に答えた。なぁんだ。息子は呆れた様に言った。
「新しいの貰えばいいじゃないか。」
こう言いながら、清はその母の声音から自分が彼の母の不興を買っているらしい事を察した。そこで彼は自身に向けられて受けたという、彼の記憶に未だ新しい近々の様相、猛々しい母の叱責の形相と凄んだ声、その時の一部始終を眼に彷彿とさせた。これを脳裏に浮かべた彼は母の背後から静かに足を引き始めた。彼は母から少し離れた場所へと移動し始めたのだ。音を立てない様にして、さり気無く、さり気無く…。彼は後退した。そうして母とある程度距離を置いた彼は、ニコッと愛想の良い笑顔を作ると、そのスマイルを母へと向けた。
『母のご機嫌を取らなければ、何とかこの場を丸く収めなければ。』清は思った。この前みたいに無防備でいてはいけないのだ。相手の様子を見ながら対処して行かないと。向かい合う相手からとんでも無い不興を買う事になるのだ。こう清は学んでいたのだった。彼は愛想の良い物腰で目の前の自分の相手、目下対抗している相手の様子を窺った。彼は幼い思いで彼女から酷く叱られたという事を恨んでいた。もはや母は自分と敵対する相手だ、そうだ自分の敵なのだ。彼は気の置ける相手として見做した自らの母の、その出方を窺った。