「男はつらいよ お帰り 寅さん」はこちらを、
「男はつらいよ」 を第5作まで観て、「お帰りなさい 山田洋次監督」 と思いました。
山田監督が「男はつらいよ」 を撮りやめると考えたことが二回あり、一度目は実際にやめました。それはテレビ番組としての「寅さん」時代、26回続いた最終回で寅さんを死なせてしまったからです。
フジテレビで1968年10月3日に始まったテレビ版「男はつらいよ」は最初はなかなか苦戦していたようです。視聴率3とか4%、テレビ会社からは苦言――これじゃ困るからああしろこうしろ、テキ屋はまずいからもっといい職業にとか――。
そのうち、段々視聴率が上がって、13回の約束を、もう1ク―ル、26回までと。ずっと視聴率が上がり、またもう1回やることになりそう‥‥と山田監督は思ったのですね。
(この辺のことは佐藤利明さんの『みんなの寅さん』を中心にして書いています。
その頃の山田監督の考えは)、
ぼくは、寅さんのような人間が現代に実は生きていれるっていうのはドラマの上であって、実際はこの現代って言うのはそんなことが許される時代じゃないんです‥‥‥。
それで26回目寅さんは一儲けを企みハブ捕りに奄美大島に出かけ、ハブにかまれて死んでしまいます。
ところが山田監督の「偉そうな」言葉を大きく乗り越えテレビ局が総攻撃されます。
こんな風に――「あんな終わり方はひどい」「バカヤロー!よくも寅を殺したな」「お前の局の競馬中継なんか見ねえぞ」――等々。
こうなると山田監督は反省するしかないわけです。
これは失敗したなぁ、と。
ここからは本の49ページの上段、
佐藤 その段階で視聴者の方々、出演者の方々の中に「男はつらいよ」「寅さん」っていうのが、それぞれの中で生まれていたっていうことなんですね。
山田 そうなんだね、だから、みんなが寅さんをそんなふうに抱いてくれていた、そして愛してくれていた。それで今度は、寅はああするだろうこうするだろうと想像を描いて楽しみでドラマを観てくれていたのに、突然作者が出てきて、「はい、死にます」って殺しちゃう。それはね、やるべきことじゃないってことがね、反響とか手紙とか、それで、ぼくは知らされちゃったねぇ。
この「反省」が映画「男はつらいよ」につながるのです、とはいえもう一度山田監督は「男はつらいよ」の「終わり」を考えたのです。それは「男はつらいよ 望郷篇」の配役に表れているのです。
そのことは明日にします。