床に入る前窓ガラスに雨粒が‥‥‥、数時間たって眠れぬまま夜明けが近くなり今日の空模様が気になり見たら、「当たる天気予報」と。
今までも見ていたが気にならなかった、それが気になるのは気持ちの底に不安があるからだろう。
天気予報は八卦と同じかと思った。八卦は八卦なりに根拠のある判断で、それなりの信頼感を得ているのだろう。私は八卦の根拠を知らないし、天気予報が予報の根拠にしている気象学などもまったく知らない。その点では八卦と天気予報についての私の認識は同水準です。
「当たる」と言えば宝くじ、どこの売り場が当たるという予想屋なみの声が立ち、それには数値さえ添えられて現代的に装う。
当たったら!という期待の大きさがその声に引かれる、期待は不安と表裏一体で気持のなかの一枚の500円玉です、出る時は表か裏だが気持の中では常に表裏が同時に現れてくる、宝くじなら買うか買わないかですし、買えば当たるか外れるかです。
朝5時、曇りですが天の真ん中から青空が見えはじめ雲が脇へ脇へと動いています、このまま晴れに向かうのか、町の上空の状態だけでは判断できないくらい分かっていますが、晴れて欲しいがつい晴れる、と言う声に耳を傾けたくなります。
さて、我が町の上空の天気図とか風の動きとか見てみましょう、素人でもある程度の判断材料が見れる時代になっているのですから。