ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

トルコ日記(21)

2010-07-14 06:00:00 | 旅日記
6月20日 アンカラ城
トルコを離れる日になりました。昨夜泊ったホテルで、次の仕事に行くことになったオカン
と別れ、今日は若い女性が半日ガイドしてくれます。同じツァー会社の新人で、まだ日本語
がおぼつかない様子です。



まずアンカラ城塞跡に行きました。この城門をくぐると、中にも民家や店が並んでいます。



城壁の石垣に文字が上下逆になった石材が使われているのを見つけました。
赤ペンキの矢印は親切な落書きでしょう。



ちょっと入り組んだ道が登り坂になり、家の前でお土産を並べている処を過ぎ、石段を登り
ます。(左はこのご家族の家へ、城塞へは右に見える石段を登ります)



この城塞を建造したのはケルト系民族のガラディア人で、B.C3世紀頃の古い昔です。その
後、ローマ、ビザンティン、セルジュク時代と修復を重ねて来ました。



城壁の上に登ってみました。



眼下に広がるのは赤茶色の屋根の小さな住宅が密集する旧市街。遠くの新しい高層住宅
との対比が面白く思いました。



次に新市街にあるアタチュルク廟へ向かいます。
オスマン帝国は第一次世界大戦でドイツ側について敗れ、広大な国土は連合国側に分割統治
される危機に陥りました。1919年、ムスタファ・ケマル将軍が人民軍を率いて立ち上がり、
アナトリアの殆どを占領していたギリシャ軍を押し返し、1922年にはスルタン制度を廃止、
ついに1923年にトルコ共和国を誕生させました。



その後、ケマルは初代大統領に就任して数々の近代化のための改革を行い、現在のトルコの
礎を築きました。アタチュルクというのは、「トルコの父」という意味で、1935年に議会が彼に
与えた称号です。

小高い丘の上に立つ彼の霊廟には、今日も大勢の市民が訪れていました。



古代ギリシャの神殿を思わせる霊廟は、トルコ陸海空の三軍によって守られています。



ちょうど衛兵の交代が行われていました。三軍混合で、服装も三色です。



内部に入りました。これがアタチュルクの棺です。このあと自由行動で、博物館になって
いる廟内を見て回りました。中は多くの部屋に分かれていて、故人の軍人時代、大統領時代
の様々な遺品、関係資料などが展示されています。これほど広いと思っていなかったので、
絵画やジオラマで独立に至る歴史を伝える後半部分は駆け足で見学を終えました。



トルコで最後の昼食は風の通るロカンタで…



今日も手軽なトルコ風サンドイッチ。サバでなかったので、やれやれ。美味しかったです。



全ての観光を終えてアンカラ空港へ着きました。



私たちの乗るカタール航空機です。帰りも長い空の旅。ドーハでの乗り継ぎは5時間以上の
待ち時間があり、サービスでカレーライスがでます。シャブシャブの薄いカレーで、とても
辛い味でした。



21日、午前1時すぎドーハを発ちました。しばらくして出た機内食です。
キョフテや柔らかいチーズ、甘いケーキなど、まだトルコの名残のような味でした。

実質8日間のトルコの旅は、終わってみればアッという間の短いものでした。
パック旅行につきものショッピングの時間は退屈で、逆にもっとゆっくりしたいと思う観光
ポイントも再三ありました。しかし、総花的ではありましたが、短い日数で効果的に周遊で
きたのもパックならでは。添乗員さんのいうように「今回は下見のつもりで…」と思うこと
にしましょう。

この旅で気づいたことは、トルコの風土が広大でのびのびしていること、トルコの歴史が複雑
で様々な場所でそれが伺えること、東西文化の十字路といわれるだけにアジアとヨーロッパ
両方の文化の顔を併せ持っていること、イスラムの国なのにあまりそのことを意識せずに
過ごせたことなど、いろいろあります。しかし何よりも印象的だったのは、トルコの人たちが
わたしたち日本人に好意的で、とても親しみ深い笑顔で対応してくれたことです。

もし出来ることなら、今度は何を見たいかを事前にじっくり考えた上で、もう一度この国
を訪ねてみたい。そう思わせる魅力あふれるトルコの旅でした。

トルコ日記(20)

2010-07-13 06:00:00 | 旅日記
ボスフォラス海峡クルーズ



さあ、いよいよ乗船です。この大きな船がたった15人の貸し切りで、勿体ない気がします。



デッキのベンチに腰掛けて、心地よい海風に吹かれています。
オルタキョイの港を出て、すぐにボスフォラス大橋の下をくぐります。ヨーロッパとアジア
を結ぶ長さ1000mの橋は1973年に建設されました。



この海峡は黒海からエーゲ海に向かって結構早い流れがあり、船はそれに逆らうように上流?
へ向かいます。



左手ヨーロッパ側の海沿いに豪華な住宅が並んでいます。どの家にもプールや東屋、子供
の遊び場などが付属しています。



こちらはせめてデッキで、優雅に?チャイタイムです。



船が出てから30分ほどたつとファティフ大橋が見えてきました。この辺りが海峡の一番狭い
ところです。橋の手前に見える城塞はルーメリ・ヒサール。



この要塞は1452年、オスマントルコのマフメット2世がビザンティン帝国の都であった
コンスタンチノープル攻略のために建設しました。ルーメリはトルコのヨーロッパ側と
いう意味で、対岸のアジア側はアナドルといいます。こちら側にもアナドル・ヒサール
があり、黒海から援助物資を積んでコンスタタンチノープルへ向かう船を両岸から砲撃
しました。翌年、コンスタンチノープルはついに陥落し、ビザンティン帝国は滅亡します。



ファティフ大橋をくぐります。右手のアジア側には、ヤルと呼ばれる優雅な木造の別荘が
目立ちます。しばらくして船はUターンして引き返します。



ルーメリ・ヒサールの全容が見えます。



ボスフォラス大橋が近くなる頃、アジア側に美しいベイレルベイ宮殿が見えます。
「木蓮をたくさん植えた庭を中央に配した白い大理石造りの夢のように美しい宮殿」と、
トルコ観光局のホームページは紹介しています。
1865年、スルタン・アブドゥルアジズが建設し、その後夏の離宮や迎賓館として使われて
きました。



港近く、豪華客船や大型ヨットが停泊しています。



海上から見たブルーモスク(右)。ここからは6本のミナレットが全て見えます。
左はオルタキョイ・ジャミィ。



南方にクズ・クレシが見えます。12世紀建設のビザンティンの要塞ですが、この地の伝説や
ギリシャ神話にちなんで「クズ(乙女)のクレシ(塔)」と呼ばれています。オスマン時代
には灯台と通行税を徴収するための監視所の役割を果たしていました。



昼食はオルタキョイの海べりの露天のロカンタで。寄せては返す波に大揺れに揺れる金ぴかの
船の上で焼いているのは…。



またまた♀ペンの苦手のサバでした!大きなフランスパン半分にサバの片身、レタスと玉ネギ
が挟んであります。レモンをかけて、大口を開けてかぶりつきます。



悲運にも♀ペンのサバサンドにはこんな大きな骨が入っていました。地元の人の真似をして、
地面に吐き捨てます。嫌いな人ほど、こんな目に会います。これも「マーフィーの法則」?。
変愚院のサンドには小骨一つ入っていませんでした。



いったんホテルに帰り、自由行動をしていた人たちと合流してイスタンブールを後にしました。
あとは一路、アンカラへ走ります。

トルコ日記(19)

2010-07-12 06:00:00 | 旅日記
6月19日 イスタンブール2日目
今日はオプションのボスフォラス・クルーズ。参加者はツァー全体で28人のうち、15人
でした。昨日夕方に通った道を新市街へ…



今朝もガラタ橋の上にはサバを釣る人が並んでいます。



アジアとヨーロッパをつなぐ海峡は、マルマラ海から黒海まで約30キロ、幅は一番狭い
処では660m。トルコ語で「雌牛が渡る」という意味のボアジチといいます。
雌牛に姿を変えたニンフのイオが海峡を渡ったギリシャ神話がありますが、それほど狭い
というのでしょうか。



橋の近くには魚市場があり、魚を並べた店が続きます。



私たちのチャーター船はオルタキョイから出ます。ここは若者たちの集う、おしゃれな店
が並ぶショッピング街なのですが、まだ朝早いので店もあまり開いていません。



出港時間までにオルタキョイ・ジャミィに入りました。



ここの天井も美しいタイルで飾られています。



美しいカリグラフィーとシャンデリア



右に見える階段は説教台です。



出港まで自由時間になりました。同じように船を待つ人が多い波止場周辺をぶらぶら
歩いて見ました。いろいろな店が並んでいます。これは古本屋さん。



色とりどりのフルーツが並んでいます。どうもアイスクリームにトッピングするよう
ですが何というのか分りません。買ってみればよかった。



そこへ可愛い子ヤギを連れたオジサンがきました。「俺よりこの子を撮れ!」



オジサンが走って通りを渡ると、子ヤギもその後を追ってトットコ走って行きました。



ジャミィはこちら側から見た方がきれいです。



やっと私たちの乗る船がきました。いよいよボスフォラス・クルーズです。

白い花二題

2010-07-11 08:22:43 | 矢田だより


昨10日夜、新しい月下美人が三つ開きました。



一番大きく開いたところです。



今日7月11日は参議院議員選挙日。雨の降らないうちにと、7時の投票開始時間を待って
投票所へ行きました。
途中の発志禅院で門前に真っ白なハスの花が咲いていたので、ケイタイで撮影しました。

トルコ日記(18)

2010-07-11 06:00:00 | 旅日記
グランド・バザール



グランドバザールは、アヤソフィア博物館から歩いて10分ほどのところにあります。



入り口のゲート中央の文字「KAPALICARSI」カパルチャルシュは屋根つきの市場という
意味です。美しい紋章の下に「NURUOSMANIYE KAPISI」ヌルオシマニエ門と書いてある
東の門を入ったところで解散しました。



狭い路地が複雑に交錯したバザールは、4000軒以上の店がひしめく一大ショッピング
モールで、「金細工師通り」、「カーペット商人通り」などと名付けられた通りが、
かって決められた区画の中でそれぞれの商いがで行なわれていたことを示しています。



この辺りはお土産屋さんが多い感じ、「見るだけタダ」など上手な日本語で呼び込みます。



買わないと見ると、誰が教えたのか「ケチ!」という店もありましたが…



たいていは写真を撮ってもいいかというと、にっこり笑ってポーズを取ってくれます。



これは水タバコのパイプを売る店。



金銀製品の店



銅製品の店…他にも衣料品、皮革製品、陶器類などさまざまな店を見て回り、迷路の
ような路地をウロウロして、小さなお土産を買っただけで集合時間となり外に出ました。



夕方のバザールは、観光客だけでなく地元の人たちも買い物に来て大賑わいです。



バスに乗ってガラタ橋を渡り新市街に入ります。イスティクラル通りには赤いチンチン
電車が走り、その向こうに古い建物が見えて、新旧のコントラストが面白いです。



その北端近くのタクシム広場。トルコ独立の父と呼ばれるアタチュルクと彼とともに
戦った戦士たちを象った銅像がある共和制記念塔周辺は、大変な混雑です。



そこへバンドを先頭に3匹のラクダに乗った人が姿を現しました。何かのイベントで
しょうか。もう少し見たかったのですが、人混みの中で迷子になると大変なので急いで
ガイドの跡を追います。
今日の夕食は和食。パックツァーでは定番ですが、「せっかくトルコまで来てなんで?」
と思います。私たちは何日でも現地食で平気なんですが、ラーメンや梅干しを持って参加
する人もあるのですから止むを得ないかも…。しかし今晩はお寿司屋さん風の作りで、
しかも最後に入った私たち二人はカウンターだったので、大いに期待したのですが…



出てきたのはこの幕の内風。塩焼きのサバ、肉一切れが入った肉じゃが、漬け汁に浮かぶ
ようなホウレンソウのお浸し、それにご飯と味噌汁。お茶は本来いっぱい5リラですが、
さすがにサービスでした。なんでも食べる♀ペンですが実はサバだけは大の苦手なのです。
サバが出てきた時の情けなそうな顔は、気の毒というか可哀想というか…。しかしトルコ
国産のサバに挑戦して見事、完食しました。



食事を終えて、またガラタ橋を渡って旧市街のホテルに帰ります。
夕暮れの橋の上で釣竿を持った人が並んでいます。オカンに何が釣れるのか聞くと…
「サバ」という答えでした。ここは川ではなく、ボスフォラス海峡から金角湾に続く海
なのです。



アタチュルク通りに入り、ヴァレンス水道橋の下をくぐります。
4世紀にヴァレンス帝が建てた二階建アーチの橋は高さ20m、かっては長さが1kmも
あったそうです。
イスタンブールの一日が終わろうとしています。明日はボスフォラス・クルーズです。

トルコ日記(17)

2010-07-10 06:00:00 | 旅日記
アヤソフィア



今日の昼食は、この城壁の跡に建つロカンタ(レストラン)で。



なかなか瀟洒な建物です。



サンドウィッチ風のパイと



メインにはキョフテを頂きました。このキョフテはヒツジのミンチを薄切れ肉で巻いて
います。



昼食を終えてバスでアヤソフィアへ。美しい色のトラム(路面電車)と行き交います。



現在 アヤソフィア博物館と呼ばれているこの建物の正式な名称は、ギリシャ語では
「聖なる叡智」を表す「アギア・ソフィア」、聖ソフィア大聖堂。バチカンの聖ピエトロ寺院
より1,000年も前に建てられた大建築です。
写真は朝、スルタナーメット公園のブルーモスク側から撮ったものです。



午後は、入場口のすぐ前までバスで乗り付けました。



入り口近くに、このような石材がごろごろしています。かって使われていた遺物のよう
です。ヤシの木が見えるので、動物はラクダ?それにしてはコブが見えないなあ?



中に入ります。コンスタンチヌス大帝によって建てられ、6世紀にユスチニアヌス帝に
よって再建されたこの巨大なドームは地上55m、直径31mもあります。



オスマン時代に教会からジャミィに改装されたので、メッカの方向を示すメフラブ
(中央下部の四角い個所)が本来ある筈のジャミイ中心から少し右にずれています。
説明の後、自由時間になりました。



いったん廊下に出て螺旋状に伸びる石の傾斜路を登ります。皇帝が車で登れるように
大きい段差がないように作られています。洞穴を抜けるような感じで二階のテラスに
出ました。



先ほど仰ぎ見た聖母子像がすぐ間近に見えます。
グリーンに金文字の円盤には、コーランの一節や神をたたえる言葉がカリグラフィ
(装飾文字)で書かれています。



二階回廊から向かい側を見たところです。



吊り下がるランプの灯りに壁のモザイクがが浮かび上がっています。漆喰が剥がれた跡
も生々しく見えます。



別の通路を下りて階下にある「願いを叶える柱」を試してみました。中央の穴に親指を
当てて、願い事をしながら掌を一回転させます。



売店などのある通路の出口。「ここでは必ず立ち止まって振り返ってみてください」
とオカンに言われていました。



上の写真のモザイク絵はこちら側のものが映っていたのでした。
中央が聖母子(キリストを抱くマリア)、聖堂を捧げるユスティニアス帝が左に、
コンスタンチノーブルの町を捧げるコンスタンティノス帝が右に描かれています。

これは帰宅後、写真を整理中に気がついたのですが、このアヤソフィアでもいくつか
大事なものを見落としています。中でも残念なのは南回廊の有名なモザイク画。
せっかく二階回廊に登ったのに、時間にせかれて気がつきませんでした。
パックツァーの弱みですね。もう一度行く機会があればいいのですが…。

トルコ日記(16)

2010-07-09 06:00:00 | 旅日記
トプカプ宮殿
トプカプ宮殿は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国の中心として、スルタンと家来
たちの政治の中枢であり、またハーレムで知られるようにスルタンと家族の生活の場でも
あった豪奢を極めた宮殿です。ボスフォルス海峡に向けて大砲が据えられていたので、
「大砲の門」という意味の「トプカピ」という名がついたといわれています。



城壁に穿たれた総門は、別名「皇帝の門」。



いかめしい武官たちが守っています。



総門を入ると第一庭園。緑の芝生に樹木の生い茂る見事な庭園の向こうに見えるのは
「聖エレーネ教会」で、アヤソフィアが建つまで、総主教座(ギリシャ正教の本山)でした。



チケットを例の自動改札に入れて中門(儀礼の門)をくぐります。第二の庭園が拡がります。



宮殿の全容を見せる模型がありました。何度か増築されてなかなか複雑な作りです。



第二庭園の右側、糸杉とプラタナスの木陰に煙突が見える所はかつての宮廷の厨房(調理棟)
で、数百人の料理人が数千人分の料理を用意したと伝えられています。現在は陶磁器などの
コレクションが展示されています。



左側はスルタンの妻妾や子供たちが暮らした部屋が残るハーレムです。時間の関係で残念
ながら、入場はできませんでした。



三つ目の門は「幸福の門」。ここをくぐると第3庭で、庭を囲むように謁見室、スルタン
の衣裳展示室など幾つかの建物があります。ここで自由行動の時間になりました。

庭を囲む部屋を順に見ていきましたが、内部は撮影禁止で写真は撮れませんでした。
宝物館では、世界最大のエメラルド、86カラットの大ダイヤを49の小粒のダイヤが囲む
黄金のブローチ、黄金の鞘にダイヤとエメラルドを散りばめた「トプカピの短剣」など
を、しっかり目に留めました。



陽光まばゆい外に出ると、ボスフォラス海峡を見下ろすテラスです。



たくさんの船が行き交っています。



再び見学を続けます。前の小さな金色の屋根は「イフタールのポーチ」。
後の建物は普通「皇子の割礼室」と呼ばれています。前の説明板では「夏のパビリオン」。
ここは写真が撮れました。



夏のパビリオンは1640年、スルタン・イブラヒムにより建設されました。皇太子の割礼式
に使われたので「割礼室」とも呼ばれています。



壁や天井は、オスマン時代の希少なタイルで覆われています。



中でも重要なのは部屋正面にある、極東の陶器の影響を受けた青と白のタイルで、
1529年の日付けがあります。





部屋外の内壁にも、青色を基調にした美しいタイルが張られています。
時間が来て集合場所の第3庭に帰り、2時間近くのトプカピ宮殿見学を終えました。

今日の大和民俗公園(7月8日)

2010-07-08 11:46:25 | 矢田だより
梅雨の晴れ間の公園へウォーキングに行きました。昨日の集中豪雨でエリカの花は落ち、
ノカンゾウも首を垂れていました。



アジサイの季節もそろそろ終わります。



ワルナスビの花や



クチナシの白い花が咲いています。



先週は、まだ小さかったヒョウタンの実がだいぶ大きくなりました。



ツバキの実も色づきました。



ヒツジグサはまだまだ咲き続きそうです。



家に帰るとアガパンサスの花が迎えてくれました。



今宵も月下美人が開きそうです。

トルコ日記(15)

2010-07-08 06:00:00 | 旅日記
6月18日(金)イスタンブール 1  ブルーモスク
かってはコンスタンチノーブルとして知られ、アジアとヨーロッパにまたがり、東と西の
文化の交差点といわれるイスタンブールは、ローマ、ビザンティン、オスマンの大帝国の
2000年にわたる重要な拠点でした。第一次世界大戦後、首都の座はアンカラに譲りました
が、今も商業、文化の面でトルコを代表する1000万人の人口を擁する大都市です。

清水義範氏の「夫婦で行くイスラムの国々」に、このイスタンブールについて書かれた、
こんな文章があります。
『イスタンブールは、わかりやすい街だ。真ん中にちょっとした川のように見えるボスポ
ラス海峡があって、街を二分している。その東岸はアジアであり、西岸はヨーロッパだ。
 西のヨーロッパ側には、金角湾という湾が深く切り込んでいて、湾の北側が新市街、南
が旧市街だ。私のホテルのあるのは新市街の外れ。』

 簡潔な文章で見事にイスタンブールの地理を説明されていますので引用しました。
ただ、私たちの泊まったホテルは旧市街、それも西端に近い所にあります。



落ち着いたホテルで設備もよく、部屋も広々としていました。昨夜、着いた時はロビーの
ピアニストが「荒城の月」などで歓迎してくれ、夜はレストランで同じピアニストが変愚院
のリクエストにこたえて「ウシュクダラ」を弾いてくれました。
 さて今日は連泊なので、いつもより遅くホテルを出て市内観光に向かいます。



この辺りはテオドシウス(分裂していた東西ローマ帝国を統一し、キリスト教を東ローマの
国教に定めた人)が築いた強固な城壁が残っています。



延々と続く城壁を見ながら朝の渋滞を縫って、バスは旧市街東のスルタナーメット地区へ
走ります。スルタナーメットはイスタンブル歴史地区として世界遺産に登録されていると
ころです。



この地区には、いくつもの見所が集中していますが、まずブルー・モスクを訪れます。



正しい名称は「スルタン・アフメット1世ジャミイ」。
14代スルタンが7年をかけて1616年に完成したジャミイで、中央の高さ43m、直径27.5mの
大ドームを囲んで、中小のドームを積み重ねた美しい造形のモスクです。

ここから入場します。宗教施設ですからノースリーブやショートパンツでは入れません。



中庭です。ここからは一本しか見えませんが、ミナレットは6本あります。
メッカのミナレットの数と同じといわれています。



ドームに入ります。靴はビニール袋に入れて手に持って歩きます。
200以上もある窓から差し込む光が、柔らかく内部を照らしています。



見上げると天井の重なり合った円蓋が実に美しい模様を描いています。



ドームを支えるのは「ゾウの足」と呼ばれる4本の円柱。それ以外は天井まで何もない空間。
中に入ると余計にその大きさに圧倒されます。
柱や壁や天井を飾るのはイズニックという町で作られるタイルです。この青い色がブルー
モスクと呼ばれる由縁になっている…という説もあります。





幻想的な美しさのステンドグラスの輝き



この絨毯に座って説明を聞きました。異教徒の私たちですが、荘厳な雰囲気の中で「偉大な
もの」への敬虔な気持ちが湧いてきます。
これまでイスラム教は排他的な宗教、特にキリスト教にたいする敵対心が強い宗教と思って
いました。しかし、ここに置いてあった「イスラームとは何か」というパンフレットを読んで、
ムスリムの人たちがキリストもムハンマドと同じ預言者として認め、尊敬していることを知り、
少なからぬ感銘を受けました。



出口にあったメッカの模型です。



きらめく陽光の外へ出て、バスへ向かいます。街頭パン屋さんの向こうに見えるのは、午後
に訪ねる「アヤソフィア」です。