ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

トルコ日記(14)

2010-07-07 06:00:00 | 旅日記
イスタンブールへ
トロイ遺跡を見た後、近くのレストランでのランチタイムになりました。



すっかりお馴染みのチョルパス(スープ)。
今日はさっぱりした酸味のトマテス・チョルパス。定番のトマト・スープです。



これも前菜で定番のドルマ(詰め物料理)、ビベル・ドルマス。
お米や挽き肉などをピーマンに詰めてあります。残念ながら写真がピンボケ。カメラの目
まで後のエフェス・ビラウに焦点を合わせています。



海が近いだけにメインディシュは魚料理。タラのフライです。タラは北の魚と思っていました
がこの辺でも採れるのですね。もっともイスタンブールの緯度は日本の青森くらいですから
当然かも知れません。



食後しばらく走って、チャナッカレの港からフェリーに乗りダーダネルス海峡を渡ります。
この海峡は古来、アジアとヨーロッパ、マルマラ海とエーゲ海を結ぶ重要な「海の道」と
なってきました。西からはミケナイ王アガメムノンがトロイを攻めるとき、またアレクサン
ドロス3世(アレキサンダー大王)が東征のとき、逆に東からはペルシャ王クルクセス1世
がギリシャ遠征のときに渡った、重要な歴史の舞台となった海峡です。

後部デッキのベンチに座りました。



私たちの出港と入れ替わるように、同じ形のフェリーが入港しました。



14時出港。白い航跡を残して船は進みます。



前方に対岸のエジェアパトが見えてきました。僅か1時間足らずの船旅で再びバスに乗ります。



ダーダネルス海峡に続いてマルマラ海が見えます。



前を行くタンクローリーにも、ナザール・ボンジュウのお守りが…(一番後ろの座席から
写しました)



このツァーで観光地間の移動は、ダーダネルス海峡のフェリーを除いてずっと同じバスです。
今日のような長い移動では、ほぼ2時間ごとにトイレ休憩を取ります。駐車するのは殆どが
ガソリンスタンド。スタンドには上の写真に見えるようなコンビニ風の売店やテイクアウト
の店が付属しています。
15分ほどの駐車時間の間に走り寄った従業員がホースを伸ばし、長いモップで念入りに洗車
します。一日に何度も洗うのでバスはいつもピカピカです。
その間にドラーバーと交代要員、ガイドなどは付属の茶店で休憩します。
バスのドアは閉じられているので、われわれ乗客も慣れるに従ってコンビニで買い物したり、
テイクアウトの飲み物で喉の渇きを癒したりするようになりました。



今回も国道沿いで良く見た、この犬マーク?のスタンドに入りました。
ツァーの初めの頃は、スタンド以外のトイレ休憩が多く、料金(0.5~1TL)が要りましたが、
スタンドや観光施設では無料です。またスタンドのトイレの方が清潔です。



コンビニにはお土産も揃っています。これは別の日の写真ですが、この店でCDの品定めを
していると、店のオジサンが一曲聞かせてくれました。曲は懐かしい「ウシュクダラ」でした。



丘陵地帯を過ぎてハイウェイに入りイスタンブールが近付きました。郊外の高層住宅街を
過ぎて料金所をでるところです。



さっそく始まった渋滞の中、車をかき分けるようにして棒にさしたパンや水を売る少年たち
の姿に驚きました。命がけの商売ですが、写真のようにわざわざ車を降りて買う客も…。



イスタンブールの渋滞は今や日常的。トルコの人も車が大好きだそうです。
ともあれ19時を過ぎて旧市街の西端トプカプ地区(宮殿のある場所とは離れています)に
あるホテルに着きました。部屋は広く設備も贅沢で、なかなかデラックスなホテルでした。

トルコ日記(13)

2010-07-06 06:00:00 | 旅日記
6月17日(木) トロイ
アイワルクの夜は、ホテルのエアコンの効きが悪く寝不足気味でした。7時20分出発。
バスの中でうつらうつらしながらトロイに向かいます。今日も曲がりくねった山道から海水
浴場のあるエーゲ海に出て、160km2時間半ほどでトロイに着きました。ダーダネルス海峡
を隔てて向かい側はヨーロッパです。
 トロイと言えばシュリーマンの発掘物語、その夢をかきたてたホメロスのイーリアス、
それを題材にした映画「トロイのヘレン」(美女ヘレンに扮したのロッサナ・ポデスタが
妖艶だった…)が頭に浮かびます。



遺跡に着くと、「トロイ戦争」で有名な木馬が真っ先に目に飛び込みます。



遺跡巡りの前のトイレタイムに、さっそく♀ペンが大急ぎで登ってみました。



遺跡は、いろいろな時代の町が重なって残っていて、全体で九つの層(古い時代から1~9
(ローマ数字)の「市」として区分)から成り立っています。つまり、一つの時代の町が亡びた
後に次の時代の町が建てられ、その町が滅んでまた次の町が…という長い時代を経た
遺跡なのです。
順路が決まっていて、まずこの4市東側の塔と城壁から見学します。右奥の人物の見える
ところが城門です。



城壁。トロイ戦争についての説明を聞きます。この上から大石を落としたり、油を流して
火をつけたりしました。
オカンはサカンに「皆さん、トロイには失望する人が多いです。(残された僅かな遺物から
当時の状況を)想像して下さい」と繰り返します。私は楠正成の千早城の戦いを思い出しま
した。



石垣の間に野の花が咲いて「つわものどもの夢の跡」を偲ばせます。



ここはエーゲ海を望む遺跡の北東の隅です。当時はこの辺りまで海岸線が迫っていました。



2市後期の城壁



シュリーマンが黄金の財宝を掘り当てた2市の溝。シュリーマンの発掘は財宝目当ての
荒っぽい方法で、しかも埋蔵物の殆どを自国に持ち帰ったことで、トルコ人には評判が
悪いとオカンはいいます。しかし、トロイが実在したことを世界に知らせた彼の功績は
認めなければならないとも言っていました。





いくつもの時代の層が重なっていることが良く分かる個所です。



2市正面の門に続く石畳の傾斜路



これはトロイのもっとも新しい時代(B.C1200~)、トロイ戦争後荒廃した市をギリシャ人
入植者が城塞都市として再建、さらにB.C85年ローマの侵攻で炎上した後、ローマ人によって
復興した頃の遺跡です。(5世紀の地震で市は最終的に放棄されました)
「聖域」と呼ばれ、神殿や生贄の獣を捧げた祭壇跡が見られます。



アデイオン(屋根つきの小劇場)



掘り出された石材が並ぶ通りを出口に進みます。



この小さな建物が資料展示室。



壁に地図や写真が張ってある他は、ここにある遺物は貧弱なものです。シュリーマンの妻が
発掘物の黄金のヘアバンドやネックレスで身を飾った写真を見ると、トルコ人が彼を嫌うの
が分る気がします。
昨日見たエフェソスに比べると見所は少ないのですが、歴史の重みを想像によって掻き立て
られたトロイの遺跡でした。

トルコ日記(12)

2010-07-05 06:00:00 | 旅日記
エフェソス遺跡(続き)



ハドリアヌスの神殿。2世紀前半のハドリアヌス帝に捧げられた神殿です。



神殿周辺の神々の精緻で美しいレリーフが目を引きます(これはメドゥーサ?)。



神殿の向かい側は高級住宅街です。凄い門構えの豪邸!どんな人が住んでいたのかなあ?



小さい通りと交わる一角に、こんな所がありました。何でしょう?



当時の公衆トイレです。どんな感じか、ちょっと腰かけてみました。



再び自由時間。まず少し先の野外劇場へ行って見ました。ここの収容人口は2万4,000人。
ちょっとした地方球場なみの規模です。一番上まで登ってみましたが、かなり急な階段で
した。



次にケルスス図書館へ行きました。この図書館はアジア州総督ケルススの息子が父を記念
して建てたものです。左はコリント式の華麗な装飾を施した前門。右は「マゼウスとミトリダテス
の門」といいます。



前門。英知、徳性、思慮、学術を表す四人の女性像が立っています。



前門全体に美しい彫刻が施されています。門の下の日陰はよく風が通り涼しくて、とても
快適でした。



「マゼウスとミトリダテスの門」アウグストス帝の解放奴隷だった二人が帝に感謝の徴と
して建てた門。きっと出世して、こんな立派な門を建てられるほどのお金持ちになったの
でしょうね。



再集合して北入り口に待つバスへ歩きます。右手に先ほどの野外劇場が見えます。
後ろに見えるのは「ピオンの丘」。古い城壁の跡や墓地などがある立ち入り禁止区域です。
右手に青いクレーンが見えるように、遺跡のあちこちで今なお整備が続けられています。



15時、エフェソスの見学を終えて、更に350km、4時間のバスの旅。山の中の曲がりくねった
道や、エーゲ海沿いの道が何度か繰り返されます。
写真は17時頃、車窓からみた波静かなエーゲ海。今夜の泊まりアイワルクというエーゲ海沿い
の町までまだ2時間ほどかかります。

トルコ日記(11)

2010-07-04 06:00:00 | 旅日記
エフェソス
エフェソスの遺跡は、セルチュクの町から数分ほど離れたところにあります。
ギリシア人の移民が建設した古代都市で、彼らが崇拝するギリシア神話に登場する女神を
祀るアルテミス神殿は、(古代)世界七不思議のひとつにあげられていました。



私たちは南入場口でバスを降りて遺跡に入りました。ここは古代の市場・アゴラのあった
ところです。この辺りは市庁舎や公会堂など公共施設が集まっていた都市の中枢部でした。



アゴラに隣接したヴァリウスの浴場。現在まだ発掘が続いていますが、風呂だけでなく
いろんな娯楽施設を併せ持った、かなり大規模なものだったようです。(現代日本のスパ・
ガーデンみたいですね)
ここでいったん解散して自由行動、15分後に再集合することになりました。



ドミテアヌス神殿。



ドミテアヌスは1世紀のギリシャ皇帝ですが、キリスト教徒を迫害したりして、独裁傾向が
強かったために暗殺された人。その人に捧げられた神殿です。



石塀の上に並んだ動物の彫像。



右はヒツジのようですが、左の動物はいったい何でしょう。



オデイオン。屋根つきの小劇場。音楽会などに使われたのでしょう。一番上まで登って
みました。ノリのいい韓国人の男性が、下の舞台のあった辺りで仲間に自慢のノドを披露
していました。



再集合してバシリカ(ギリシア語で「王の列柱廊」の意味)の道を北へ歩きます。



ヘラクレスの彫像の付いた凱旋門。



その近くに美しい女神のレリーフがありました。



トラヤヌスの泉。2世紀のトラヤヌス帝に捧げられた泉です。



ゆるい下り坂のクレテス通りを更に北へ進みます。むき出しの大理石がすり減っていて、
滑りやすいので足元にご注意。



往時はこのようなモザイク模様のタイルが通りに敷き詰められていたそうです。
さぞ美しい通りだったことでしょう。(エフェソス遺跡の項は続きます)

トルコ日記(10)

2010-07-03 06:00:00 | 旅日記
6月16日(水) ヒエラポリスとパムッカレ
パムッカレという地名で私たちが思い浮かべるのは、棚田のように白い石灰石の窪みが
斜面に連なり、そこにエメラルドグリーンの水をたたえた光景です。
しかし石灰棚のある台地は町の一部でしかなく、その裾野に当たるところに町が拡がり、
いくつものホテルが点在しています。私たちの泊まったリゾートホテルもその一つでした。
7時、そのホテルを出発します。



バスは、まず町の公園のような所に停まりました。ホテルからはもちろん、昨日町に入る
ずっと前から見えていた、あの白い台地が目の前に拡がっています。



写真や映像で上からの棚田風の光景はお馴染みですが、下からの眺めは思いがけない角度
からのもので、青空を背に前の池に影を落とす白い城壁のような石灰棚の姿は、何とも言え
ない雄大な美しさでした。



再びバスは斜面を登って南入場口に着きます。ここで下車して驚いたのは、広々とした
廃墟のような場所だったことです。ここが「聖なる都市」ヒエラポリスです。
写真は往時の市南門。



この町の最盛期は2~3世紀、ローマの直轄統治のもとに現在残っているいくつもの神殿、
大劇場、二つの浴場が建設され、ローマの皇帝、貴族、富裕階級の人たちが保養に訪れ
ました。写真の手前から奥に伸びているのは当時の水道の遺構です。



これは大円形劇場。上から見ると内部が分るのですが…例によって時間なし。他の遺構も
回る余裕はありません。なにはともあれ石灰棚へ。



有名な石灰棚はこのヒエラポリスの一角にあります。この復元図を見ると町の大きさが
良く分かります。14世紀中頃、セルジュクトルコの時代に大地震で町は壊滅。住民が
いなくなった町は復興することなく現在に至っています。



遺構から石灰棚越しに現在の町を見下ろしたところです。ローマ人たちが、ここを訪れた
のはここの温泉がお目当て。地面から湧き出た石灰成分を含む摂氏35度の温泉水が、山肌
を流れ、沈殿した石灰が沈着して棚を作り、無数の温泉プールを現出しました。
トルコ大使館のHPによれば、『心臓病、循環器疾患、高血圧、神経性の障害、リウマチ、
目や皮膚の病気、神経や肉体の疲労、消化器疾患、栄養障害に効果」があるとのことで、
諸病に効き目がありそうです。



現在は世界遺産として指定され、景観保護のためごく一部にしか入れなくなっています。
また必ず裸足にならないといけません。石灰棚の上はぬるぬるして滑りやすく、少し前を
歩いていた別のグループの女性が派手に転倒して悲鳴をあげました。幸いたいしたことは
なかったようですが、下手すると崖から下へ転落もしかねません。



足湯風に温水に浸かってみました。やや生ぬるい感じです。



一番大きなプール。しかし浅いので泳ぐのはとても無理です。ここの水の色は一日の時間
や天候によって様々に変化するそうですが、このときは濃い空の色を映して真っ青でした。



ここが終点。その先が写真で良く見る棚田。しかし高い三脚を立てるか、ヘリコプターで
でもなければ立体感はでないのでは…。



パムッカレ観光を終えて200キロほど離れたセルチュク(エフェソス)へ。途中、スルタン
ヒサルの町でトイレ休憩、ちょうど正午にセルチュクに着きました。
ここでの昼食はこの町の名物、「チョプ・シシ」です。小さな串にさした焼き鳥のような
シシ・ケバブ。数えると10本ありました。



辛いのが好きな人はこのソースをどうぞ。ビールに良く合います。



それにサラダと



定番のチョルパス(スープ)でした。

トルコ日記(9)

2010-07-02 06:00:00 | 旅日記
コンヤのレストランでの昼食です。



スープの後で出たクイマル・ピデ(ピザ)。
ピデにはいろんな種類があり、これは挽き肉を入れたものです。



メインの「ナスのケバブ」。ケバブは串焼きですが、良く知られたシシケバブの他にも
いろいろな種類があります。これはナスの間に肉を挟んで焼いたものです。食感はピザ
というよりチジミに近い感じでした。





コンヤは宗教的な色彩の濃い町で、アルコールは飲めないと驚かされていました。しかし、
どうも冗談だったようで、いつものエフェス・ビラウが飲めました。
この「アイラン」も飲んでみました。ヨーグルトに水を加えたヤクルト風の飲むヨーグルト。
よくかき混ぜて飲みます。しかし塩味なので始めはとまどいますが、慣れると美味しいです。



コンヤは商業都市として発展を続けています。広い街路にモスクと並んで高層ビルが
そびえています。



郊外にも高層住宅地が続き、美しい電車やバスが行きかっています。
あとは一路、パムッカレを目指します。



実り豊かな麦畑や野菜畑が拡がる平野部を抜けて、山地にかかり峠を越えます。



この辺りは大理石の産地で、峠付近にはいくつか石切り場がありました。



再び平野部に入りました。この辺りはケシの産地で、白く見えるのはケシの花。
政府によって厳重に管理されて栽培されているそうです。



19時頃、白い石灰岩の台地を望むリゾートホテルに着きました。(ここからの3枚の写真
は翌日朝撮影したものです)



廊下にも石灰石が飾られています。



食事はこの美しい庭園のテーブルで摂りました。



夕食はビュッフェ形式だったので写真は摂りませんでしたが、このデザートの皿が珍しかった
のでパチリ。固めのヨーグルトにたっぷりケシの実と蜂蜜をかけたもので、なかなか美味しか
ったです。

今日の大和民俗公園(7月1日)

2010-07-01 12:42:47 | 矢田だより
7月になりました。今日は富士山などが山開き。
そして「童謡の日」。1918(大正7)年、日本初の児童文芸誌『赤い鳥』が創刊された日を記念して
日本童謡協会が制定したそうです。
皆さんの好きな童謡は何でしょう。私の一番好きなのは「富士山」…でなくて「月の砂漠」。
それも井上陽水の歌う「月の砂漠」が好きです。陽水の歌と少し違いますが、元の歌詞4番が
特に好きです。

 ひろい砂漠を ひとすじに  二人はどこへ いくのでしょう
 おぼろにけぶる 月の夜を  対のらくだで とぼとぼと
 砂丘を越えて 行きました  だまって越えて 行きました



一日里帰りの♀ペンを駅に送って民俗公園に行きました。タイサンボクの花はもう終わります。





ハナショウブも終わり、今はアジサイが花盛り。



エリカの花が芳香を放っています。



ヒョウタン池のヒツジグサ



池の少し先の棚で咲いていたヒョウタンの花です。



小さなヒョウタンがたくさん成っていました。



ノカンゾウの色が鮮やかで夏の到来を告げています。
公園で何人かの知人に会いましたが、山仲間の竜馬16さんに久しぶりに出会ったのが一番
嬉しかったです。

トルコ日記(8)

2010-07-01 06:00:00 | 旅日記
スルタンハヌとメブラーナ博物館

6月15日(火)
ようやく舞台がカッパドキアからパムッカレへ移ります。
今日は650キロのバスの旅。7時にホテルを出ました。



一昨日アンカラから来たとき、昨日の観光でも通った道を走っています。
今日も真っ青に晴れ上がった空にバルーンが浮かんでいます。朝と夕方の気流の
よい時に奇岩群を上空から眺める気球ツァーは最近人気が上昇、今では気球をもつ会社
は何十社もあるとか。この朝も車窓からずいぶん多くの気球を見ました。



奇岩地帯を過ぎて平野部へ降りてきました。左手に美しい富士山形の山が見えます。
カッパドキアの美しい奇観を作りだした火山のひとつ、ハッサン山です。標高3268m。
あたりの景色が広大なのでそれほど高く見えませんが、日本に持ってくると富士山に
次いで第2位の高さになります。



アクサライという町でアンカラへの道を分け、さらにハイウエイを45キロほど走った
ところで停車。お城のような構えの建物は「スルタンハヌ」という隊商宿です。
これまでも小さな隊商宿の址などは車窓からいくつか見ましたが、ここは保存状態も
よく最大、最良のものとされています(英文の説明板を参考にしました。以下同じです
が誤りがあればお許しを…)。



大理石に覆われた美しい装飾がある東の正門(Portal)を入ります。写真では見えま
せんが四隅に高さ15mの見張塔が立っています。
スルタンハヌはセルジュクトルコ時代の1229年、アラアッディン・カイクバート一世
(Aratten Keykubat Ⅰ)によって建設、のち火災にあい、1278年にシラジャティン・
エル・ハッサン(Siracetin El Hassan)総督により再建、拡張されました。
<変愚院註。セルジュクが滅亡し、ビザンティン(東ローマ)帝国が再興された時期
なので、ローマの属州だったのでしょうか?>
城壁に守られた砦のようで、見張り台まであるのは、当時、盗賊が多く隊商が襲われる
ことが多かったのを物語っています。



内部は二つの区画に分かれます。ここは周囲を壁に囲まれた中庭にあるオープンな区域。
ここは夏期に使われました。写真は正門を入って右側を見たところ。



同じく左側を見たところ。一つ一つの窪みが商人たちの台所、浴室、リビング、寝室
などとして使われた部屋です。



当時使われた石材などが残っているのを見ながら進むと…



屋根のある区画に入るもうひとつの門があります。正門に良く似ていますが装飾が
やや簡単です。



ここは冬季に使われたところで、内部はご覧のように煤で汚れています。

スルタンハヌ見学を終えて、途中トイレ休憩を含めて1時間ほど走り、次の目的地コンヤ
に着きました。
ここは西アナトリアの内陸部平原にあり、セルジュクトルコ時代の王都だったところです。
スルタンハヌを立てたアラアッディン・カイクバート一世の時代が最盛期で、多くのジャミイ
(イスラムの礼拝堂・モスクのうち金曜礼拝の行われる大きな礼拝堂)やマドロサ(神学校)
が残されています。



ここでは「メブラーナ博物館」を見学します。
左側の青緑色の塔はこの時代(13世紀)のもので、その後のオスマントルコ時代に右の
ジャミイなどが増設されました。
メブラーナは導師の意味で、ここは旋舞で名高いイスラム神秘主義・メヴレヴィ教団創設
者のメブラーナ・ルーミの霊廟で、今は博物館になっています。
塔の真下にはルーミの遺体のお棺が置かれ、その他にも聖人たちの地位ごとに色の違う
ターバンを巻いた帽子を載せたお棺が並んでいます。(完全な撮影禁止で内部の写真は
ありません)



入場の前にトイレに行列…は我々を含めた外国人で、トルコの人たちは横にある「洗い場」
で身を清めてから入場します。私たち日本人も神社や寺院で手を洗い口を濯いで穢れを
落としますが、モスラムの人たちの場合は手だけでなく足まで洗い、裸足になってジャミイ
に入ります。私たちは靴の上にビニールのカバーをつけて入りました。



洗い場前にあった美しいタイルの塀。ペルシァン・ブルーというのでしょうか、何ともいえない
深く美しい青色でした。
細長い塔はミナレットといい、モスクやジャミイには必ず付属しています。ミナレット
には拡声器が取り付けられ、お祈りの時間(一日5回)四方にコーランの音を響かせます。

*昼食後は、中央アナトリア地方コンヤからエーゲ海区域のパムッカレに向かいます。